23. 夜明け前(二)
この認識が唐突すぎて、かえって一瞬声が出なかった。
ルキがその場で凍りつき、呼吸まで軽くなった。頭がまず真っ白になり、それから遅れて、恥と狼狽がどっと胸から湧き上がって耳の付け根まで焼いた。
――なぜよりによって今。
――なぜよりによってこの姿勢で。
口が開きかけたが、喉を音のない息がひとつ通り過ぎただけ。久しぶりのもとの体の感覚と感情が一気に戻ってきて、今すぐ体を起こしたい、寝返りを打ちたい、イノリが目を覚ます前にこの近すぎる、恥ずかしすぎる状況から逃げ出したい。
けれど指先にほんの少し力を込めた、まさにその瞬間、腰の手が眠りの中で何かを感じ取ったように、ごく軽く動いた。
それから、もう少しだけ、きつくなった。
腕が締まったとき、力はほんとうに軽い。けれどルキの全身がぴんと張った。
腕の中の人が逃げてしまうのを恐れるかのように、眠ったままのイノリが無意識にほんの少し前へ寄って、ルキを自分の懐へそっと引いた。
ルキはもう元の背丈に戻っていた。あの小さな塊のようにすっぽり包まれる姿勢にはもうならないが、眠る前にもう半身を預けていたから、こうして引き寄せられると、静かにやわらかい腕の中に沈んだ形になった。
続いて、背後の人が夢の中でぼんやり身じろぎした。
この数日の習慣からまだ抜けていないようで、イノリが眉を少し寄せ、半分寝ぼけた声で何かをもごもごつぶやいた。軽すぎて聞き取れない。夜の中に落ちると、ぼんやりした寝言のようでもある。
それから、腰に横たわっていた手がゆっくり少し上へずれて、肩甲骨のやや下に落ちた。寝間着越しに、ごくごく軽く、ぽん、と叩いた。
一回。
もう一回。
手慣れたようで、ほとんど本能の動作。まだ覚めきらない眠気とやさしさを帯びて、あの半夜に懐に潜り込んでくる、軽くあやさないと眠れない小さな子をまだ相手にしているかのように。
ルキの睫毛が一度、大きく震えた。あの二回の軽い叩きはほんとうに力がなくて、少し不器用ですらあった。
けれど軽いからこそ、何かが心臓のいちばんやわらかい場所にそのまま落ちて、狙い違わず、さっきまで必死に支えていた恥と警戒が、この二叩きに音もなく崩れた。
しばらく動けなかった。固まったまま、あの手が肩の後ろに止まっているのを許し、背後の人がこちらを抱いて呼吸をひとつずつ首筋に落とすのを許した。
やがてやっと少しだけ力を取り戻したように、ごくゆっくり、ごくゆっくり首を傾けた。
まず目に入ったのは、枕の上に散った一房の白い髪。その下にイノリの顔がすぐ近くにあった。
ぐっすり眠っていた。睫毛が静かに伏せられ、顔色はやはり少し白く、さっきの低い咳のせいで目尻にまだ淡い湿り気が残っている。
起きているときはいつもやわらかくて穏やかに見えるあの金色の目が、今は閉じていて、呼吸が軽く上下する輪郭しかない。昼間よりもっと静かで、もっと無防備。
ルキがぽかんと見つめた。
胸のあの、さっきまで灼けるように張っていた狼狽が、不思議とふっとゆるんだ。自分でも気づかないうちに、唇がもう先に、ごくごく浅い弧をひとすじ描いていた。
あの笑みはとても淡い。ほとんど一瞬で消える。朝霧の中からひそかに漏れた一筋の薄い光のように、誇示もなければ自覚もなく、けれどたしかにその顔に浮かんでいた。
ああ……この顔か。
この顔が、目を開けていられないとき傍にいてくれた。この顔が、みっともなくてどうしようもないときも目をそらさなかった。この顔が、もう元の姿に戻った後でも、まだ何の警戒もなくこちらを腕に入れて、夢の中ですら背中を叩いていた。
ルキの目の底に浮いたあの笑みに、ふいにごくかすかな酸味が混じった。
つらいのではない。どこにも逃げられないと追い詰められてから初めて、心のいちばん深い場所から一滴ずつ滲み出してくるやわらかさに近い。
元に戻ったら、この数日の全部もいっしょに終わるのだと思っていた。抱かれたことも、あやされたことも、人の背中に守られたことも、全部、魔法が切れたら一緒にどこかの、口にしてはいけない隅に引っ込むべきだと。
けれど今、分かった。そうではなかった。
イノリが抱いていたのは、ずっと「小さくなったあの子」だけではなかった。
この気づきが遅すぎて、重すぎた。重くて、逃げる気すらばかばかしくなった。
ルキがイノリの寝顔を静かに見つめていた。とても長い時間。あの肩の後ろに載った手が、夢の中でもう一度ごく軽く叩いた。
それがもともと頼りなかった最後の一本の線を、ぷつりと叩き切った。
ルキが目を伏せた。呼吸をとても軽くした。それから、もう固まったまま抱かれているのではなく、ゆっくり、体の向きを変えた。
動作がとても遅い。眠っている人を起こすのが怖いかのように。掛け布が二人のあいだできわめてかすかな衣擦れを立て、夜の色もこの小さな音に合わせてほんの少し揺れた気がした。
ほんとうに向き直ったとき、二人の距離はもうごくわずかしかなかった。イノリの額がほとんどルキの顎に触れ、呼吸が温かく鎖骨の下に落ち、髪が胸元にそっとかかっている。
ルキがうつむいてイノリを見た。指が音もなく一度握られた。
次の瞬間、手を上げた。
押しのけるためでも、遮るためでもない。
ほとんど不器用と呼べるほどの慎重さで、ごくそっと、イノリの肩の後ろに降ろした。そしてゆっくり、ゆっくり、こちら側へ引き寄せた。
今までとはまったく違う姿勢。
もう縮こまって抱かれている側ではない。誰かの腕の中でおとなしく収まっている側でもない。腕がもとの長さと力を取り戻して、今はそっと回せば目の前の人をしっかり囲える。
イノリの額がルキの胸元にそっと当たり、呼吸が寝間着越しにひとつずつ漂ってきて、やっと止まれる場所を見つけたように静かだった。
ルキが抱いていた。最初はまだ少しぎこちない。こういう動作そのものを一から学び直すかのように。けれどすぐに腕が少しずつきつくなった。
力任せではない。とても安定した、とても自然な力で、人をこちら側に引き寄せる。声のない確認のようでもあった。
この静けさと雨音しかない夜に、初めてほんとうに、もう一人の人間を自分の腕の中に護すことを学んだような。
うつむいた。顎がイノリの髪のてっぺんにそっと触れた。あのやわらかい感触が落ちてきて、ルキが目を閉じた。胸に残っていた最後の狼狽と乱れが、ようやく少しずつ沈んでいった。
◆◇
窓の外の雨がいつの間にか止んでいた。
空はまだすっかり明けてはいない。ただ遠い東のほうに先に淡い白が透けている。その光が窓辺を越えて、しずかに部屋に入り、まずベッドの片隅を照らし、それから少しずつ枕元へ這い上がっていった。
イノリはまだ眠っている。朝の光が閉じた睫毛に落ち、蒼白い頬に落ち、ほどけた一房の白い髪に落ちて、全身をとても軽く、とても穏やかにしている。朝霧の中でいちばん先に太陽に触れられた花のように。
ルキは動かなかった。ベッドの壁側に半分もたれたまま、掛け布をかぶり、体の大半はまだ退ききらない影の中にある。
イノリを抱く腕だけがしっかりと収まっていて、夜がまだ完全には明けていないのに、もう先に何かを腕の中に留めてしまったかのよう。
光がイノリに落ちている。二人が重なる掛け布の端にも落ちている。もう少し奥は、ルキに馴染んだ暗のまま。
けれど今度は退かなかった。
ただうつむいて、朝の光の中のあの静かな寝顔を見て、長いこと黙ってから、やっとごくそっと唇を曲げた。
そして少し近づいて、二人のあいだでしか聞こえない声で、低く低く言った。
「おはよう、イノリちゃん。」
窓の外の空がまだ少しずつ明るくなっている。
そしてルキは、手を離さなかった。
◆◇
作者の言葉:
第二巻もここまで読んでくださって、本当にありがとうございました。
ここまで一緒に歩いてきてくださったこと、それだけでもう十分すぎるほど嬉しいです。いつも応援してくださる皆さまのおかげで、私はこうして書き続けることができています。皆さまの存在に、何度も元気と勇気をもらいました。
それから、今回は特に hassekさん、ワアアさんとraifa41さんにもお礼をお伝えしたいです。
毎回すぐに追いかけて読んでくださって、しかも温かい応援まで残してくださって、本当にありがとうございます。お三人の感想には、いつもたくさん励まされています。
第二巻の物語は、ひとまずここでおしまいです。
……と言いつつ、実はもう手元のストックがあまりありません。前に少し触れた第四巻まわりのことも、今のところ進みがあまりよくなくて、自分の先延ばし癖が本当に憎いです。
ちゃんと最後まで書きたい気持ちはずっとあるので、どうにか頑張ります。毎日更新に慣れてくださっている方には、少し心配をかけてしまうかもしれません。本当にすみません。
第三巻は、ここまでより少しだけ空気が変わってくると思います。
ずっと穏やかで順調なままでは、どうしても張りつめる感じが生まれにくいので、ここから先は少しだけ波のあるお話になるかもしれません。
でも、それはずっと続くものではありません。私自身、やっぱり美しいものや、救いのあるお話がとても好きです。なので、そのあたりは安心して見ていただけたら嬉しいです。
このあとは少しだけ、これまでの篇を整理したり、見直したりする時間を取ろうと思っています。
そこまで長くは空けずに、また更新に戻ってこられるはずです。
あらためて、ここまで読んでくださってありがとうございました。
これから先も、見守っていただけたらとても嬉しいです。
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