NECK ROVER

春酒兎(はるしゅと)

第0章 始まりの灯火

朝の教室は、少しだけ騒がしい。


窓際の席。

私はいつもそこから、校庭とクラスの空気をぼんやり眺めている。


話に無理に入らなくても、

ここにいることだけは許されている。

そんな距離が、ちょうどよかった。


「梓、今日放課後どうする?」


紗千が机に肘をついて、いつもの調子で聞いてくる。

ゆるくウェーブのかかった髪が、朝の光を受けて揺れた。


「んー、まだ決めてない」


そう答えると、

隣の席から、椅子がきしむ音がした。


「……ハラミ」


低く、短い声。

工藤くん――みんなから“むっちゃん”と呼ばれている彼は、

それだけ言って、また黙った。


意味はたぶん、

「今日の昼は焼肉の話をしている」だけ。


でも、それで通じてしまうのが、このクラスだった。


後ろの方が、少し騒がしい。


「爆くん、うるさい」


冷静な声が飛ぶ。

石神達也――“カミヤ”。


事件が起きる前に現れて、

なぜか全部をいいタイミングで解決してしまうから、

そんなニックネームがついた。


ツンツンした髪に、少し青が混じった黒。

難しい顔をしているけれど、

目だけは、いつもよく動いている。


「別に暴れてねーし」


そう言いながら笑うのは、爆遊矢。

長い髪を揺らして、やたら距離が近い。


「なぁ梓、今日も一緒に――」


「爆くん、距離」


達也が短く言う。

それだけで、場の空気が少し落ち着いた。


……いつも、こうだ。


私は、

特別じゃない。


勇敢でも、強くもない。

何かを背負っている自覚もない。


ただ、

この教室が好きで、

この時間が、当たり前に続くと思っていただけ。


少なくとも、

そうであってほしいと思っていた。


ふと、胸の奥が、ちくりとした。


理由はわからない。

何かを忘れている気がして、

でも、思い出せない。


――大丈夫。


そう自分に言い聞かせて、

私はノートに視線を落とした。


その時だった。


窓の外で、

光が、揺れた。


白くて、遠くて、

なぜか懐かしい光。


見つめていると、

胸の奥に、あたたかいものが灯る。


これは、何?


名前も、意味も、わからない。

それでも、確かにここにある。


――もしもこの灯火が消えたら、

私は、どこへ行くんだろう。


そんな考えが浮かんだ瞬間、

チャイムが鳴った。


いつも通りの、日常の音。


誰も、気づいていない。

この日が、

“最後の静かな朝”になるなんて。


私はまだ知らない。


この灯火が、

世界の裏側へ、

私を連れて行くことを。


そして、

あの教室には、

もう二度と戻れなくなることを。

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