エピソード03 白銀の薬師
風には、冬の名残がまだあった。
山道を歩くサクラの頬を掠める冷気は、細い刃のように肌を切る。
これは、ただの任務のはずだった。
いつものように歩き、いつものように斬り、いつものように去る――
そのはずだった。
だが、風の奥から落ちてきた声が、彼女を止めた。
「……シノビ衆のクノイチ、サクラだな?」
姿は見えない。
木々の間に潜む影から、声だけが流れる。
サクラは返事の代わりに、水筒の栓を静かに外し、水を一口だけ含んだ。
それは“聞いている”という合図。無駄を排した暗号。
「本来なら寺へ回される依頼だが、急ぎだ。時間がない」
それだけで十分だった。
任務内容は刹那に理解された。
この先にある “エウダ村”にいる白銀の薬師と呼ばれる男を斬れ。
村人をおかしくしている薬の出どころを断て。
サクラは水筒の蓋を閉じ、静かに歩みを再開した。
いつもの任務より、一歩だけ速い足取りで。
◆
村へ入った瞬間、空気がおかしいと分かった。
――静かすぎる。
遊ぶ子どもの声がない。
動物の気配がない。
家屋から洩れる生活音もほとんどない。
歩いている村人は、誰もが同じ速度で、同じような表情だった。
感情の影が一切ない、きれいすぎる無表情。
男も、女も、老人も、子どもまでもが、まるで、 “誰か” に作られた玩具のように歩いている。
……薬による抑制。感情を鈍くしているの?
目の焦点が合っていない。
歩き方が一定。
呼吸すらも均一で、個性の欠片がない。
その群れの中心に、 “彼” がいた。
白い髪。
血の気の薄い横顔。
薬袋を抱え、慈悲深いとも錯覚する穏やかな手つきで、小瓶を配っている。
だが……
受け取る村人の顔が、一様に濁っている。
……白銀の薬師
サクラは悟った。
この男自身も限界ギリギリで立っている、と。
◆
到着したその夜、サクラは村へ忍び込み、家々の観察を始めた。
薬を受け取った村人は、すぐに動作が鈍くなる。
眠るような瞳のまま畑を耕し、倒れても誰かが支えることもない。
倒れた本人も文句一つ言わず、ゆっくりと立ち上がるだけ。
まるで、疲労も痛みも感情も、全部抜け落ちてしまったように。
……あの薬、痛みも苦しみも奪うのか…
だが、それは人としての “核” までも奪っていた。
翌日、薬師が薬を配っている間に、サクラは彼の家に潜入した。
整理整頓された清潔な室内。
だが、一箇所だけ異質な空気を放つ場所があった。
――小さな祭壇。
木箱を開くと、色褪せた少女の髪飾り。
その下には、分厚い帳面。
開くと、震える筆跡で綴られた文字。
『セイコを助けられなかった』
『痛みで泣く妹を見て、俺は何もできなかった』
『あの老人がもっと早く来てくれていれば……』
ページをめくるほど、胸が締めつけられる。
妹のセイコは風土病に侵され、皮膚はただれ、呼吸するだけで悲鳴をあげるほどの痛みに苦しんだ。
薬師は村の誰よりも必死に薬草を集め、配合を試し、孤立しながらも研究を辞めなかった。
だが、すべて失敗。
村は彼を奇人扱いした。
それでも、諦めなかった。
そんな絶望の最中――
『老人が現れた。薬学学校の先生に似ていた。いや、同じ人物なのかもしれない。痛みを抑える薬を教えてくれた。だが、セイコには間に合わなかった』
……薬学学校の老人……?
サクラの眉が、ほんのわずかに動く。
……ウラカタ衆の “外部協力者” の特徴に似ている……でも薬師本人は気づいていない…
最終ページには、掠れた筆跡。
『せめて誰かの痛みだけは止めたかった。それだけなんだ』
サクラは帳面を閉じた。
……哀れむ必要も、許す理由もない。そして…この男は駒だ。誰かに使われている。
◆
満月の夜。
薬師はサクラが現れるのを、待っていたように微笑んだ。
「……やっと来てくれたね」
月光に照らされた顔は、疲れきった人間そのものだった。
「質問があります」
サクラの声は限界まで冷えている。
「あなたに薬を教えた老人は誰なんです?」
「……薬学学校の先生だった人だよ。名前も顔もあいまいだけど……あの人がいなければ、俺は何もできなかった。…ウラカタ……? いや、そんな名は聞いたこともない」
サクラは確信した。
薬師は何も知らない。
「老人はどこへ?」
「分からない。教えるだけ教えて、消えた。でも……正直、恨んでいるんだ。あの薬は、セイコには効かなかった。なのに……村の人には効いた」
サクラの目に、月が映る。
「違う。感情を奪っただけ」
「……そうだろね…」
薬師の瞳が揺れた。
その揺れは、月よりも脆かった。
「殺してくれ。俺は、……セイコに謝りたい…」
薬師の脳裏に、死に際のセイコの姿が鮮明に思い出される。
痛い、痛い、おにいちゃん…痛い…
涙を流しながら、兄に助けを求める妹。
もう…いやだ…もう…いやだよ…もう……殺して…おにいちゃん
その声は、痛みによってすでに壊れかけていた。
瞼を開けることもできなくなっていたセイコが、涙があふれる目を兄に向けた時、兄は妹の首を絞めていた。
……痛みがない世界を作りたかっただけなんだ……俺は間違っていた…セイコ…俺はお前を殺してしまった……ゴメンなセイコ…
そんな薬師の懺悔を待っていたかのように、サクラは息を一つだけ整えて一歩で間合いを詰めた。
一閃。
銀髪が月に浮かび、血が静かに夜へ落ちた。
薬師の表情は、ようやく痛みから解き放たれた子どものように穏やかだった。
◆
任務のあと、サクラは薬師の部屋にもどり、帳面と薬袋、薬草をすべて焼却した。
炎は静かに薬師の罪と過去を飲み込み、黒い煙だけが空へ消えた。
しかし、一点だけ気になるところがあった。
カルテには風土病と書いてあった。しかし、兄と妹が暮らしていた村に、そんな風土病の記録はないのだ。その証拠に、その村の誰も風土病を患ってはいない。
全身に痛みが走る風土病があるのは、もっと北の雪深い山岳地帯なのだ。それも、今ではある栄養素の欠乏が原因と判明している。
なら、その病気をケイコに感染させた者がいるのではないか?
サクラの脳裏にウラカタ衆の存在がチラついた。
◆
三日間、サクラは村を離れず、回復の経過を観察した。
初めに正気を取り戻したのは幼い子だった。
「……なんで、ずっと眠かったんだろう……」
皆、薬を飲んでいた数日の記憶が曖昧で、まるで夢から覚めたように戸惑っていた。
サクラは屋根の上から静かに見つめる。
……戻っていく。元の暮らしへ…
胸の奥に、小さな灯がともる。
それは、暗殺者に似つかわしくないほど温かい灯りだった。
……よかった。本当に
次は主婦だった。
「…あ、あれ…?」
彼女は畑の前で立ち尽くし、しばらく空を見上げたあと、かすれる声でつぶやいた。
「……私、何でこんなに……痛ッ!」
感情の戻りは、痛みの戻りでもあった。
手のひび割れを見つめ、震え、ようやく涙が落ちた。
その涙を合図にしたかのように、村はゆっくりと“息を吹き返し始めた”。
泣き声。
怒鳴り声。
笑い声。
思い思いに噴き出す、生の音。
それらのすべてが、三日前まで完全に消えていたものだ。
……戻っている
サクラは、村の外れの小高い場所からその様子を見ていた。
ただ見ているだけの、冷え切った表情のまま。
けれどその胸の奥底で、微かな波が揺れた。
気配も音も消したクノイチが、三日も同じ場所に滞在することなど本来あり得ない。
だがサクラは帰らなかった。
“任務を果たすため” ではなく、 “正気を取り戻した彼らの姿を、確かめるため”。
◆
四日目の朝。
村に風が吹いた。
春の前触れを告げる、やわらかな風。
サクラは馬小屋の影に立ち、村人たちを遠くから観察していた。
昨日とは違い、村全体にざわめきがある。
生活音が戻り、鍬の金属音が響き、子どもたちが走り回る声まで聞こえる。
その中で、幼い少年が母に抱きついていた。
「お母…こわかった……ずっと、夢の中にいるみたいで……」
「大丈夫、大丈夫よ……」
母の震える手。
子の震える声。
……これでいい
サクラの喉の奥で、わずかな息が漏れた。
ため息でも、安堵でもない。
そのどちらにも似た、ほとんど無音の呼吸。
◆
村を離れる直前。
サクラは誰にも気づかれず、薬師の墓を作った。
石を積むだけの、簡素な墓。
そこに名前はない。
だが、サクラは掌に小さな髪飾りを置いた。
薬師の祭壇にあった、妹セイコの髪飾り。
……本当は、ここに置くべきじゃない。これは、彼が一生抱えていく “罪の象徴” だ…
そう考えた。
考えた……が、サクラは髪飾りを置いた。
「……せめて」
風に溶けるほどの声。
「――痛みのない場所へ、行けたのなら」
祈りではない。
赦しでもない。
ただ、任務の最後に残る、微かな感情の揺れ。
それすらサクラは自覚していなかった。
◆
サクラは再び山の影へと消え、気配を完全に断った。次の任務が、すでに彼女を待っている。
サクラの瞳に、淡い月光の残滓が揺れた。
その感情が何かを、彼女自身は知らない。
ただ、風がそれをさらっていく。
冷えた山道へ、サクラの影が静かに伸びた。
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