エピソード03 白銀の薬師

 風には、冬の名残がまだあった。

 山道を歩くサクラの頬を掠める冷気は、細い刃のように肌を切る。


 これは、ただの任務のはずだった。

 いつものように歩き、いつものように斬り、いつものように去る――

 そのはずだった。


 だが、風の奥から落ちてきた声が、彼女を止めた。


「……シノビ衆のクノイチ、サクラだな?」


 姿は見えない。

 木々の間に潜む影から、声だけが流れる。


 サクラは返事の代わりに、水筒の栓を静かに外し、水を一口だけ含んだ。

 それは“聞いている”という合図。無駄を排した暗号。


「本来なら寺へ回される依頼だが、急ぎだ。時間がない」


 それだけで十分だった。

 任務内容は刹那に理解された。


 この先にある “エウダ村”にいる白銀の薬師と呼ばれる男を斬れ。

 村人をおかしくしている薬の出どころを断て。


 サクラは水筒の蓋を閉じ、静かに歩みを再開した。

 いつもの任務より、一歩だけ速い足取りで。



 村へ入った瞬間、空気がおかしいと分かった。


 ――静かすぎる。


 遊ぶ子どもの声がない。

 動物の気配がない。

 家屋から洩れる生活音もほとんどない。


 歩いている村人は、誰もが同じ速度で、同じような表情だった。

 感情の影が一切ない、きれいすぎる無表情。


 男も、女も、老人も、子どもまでもが、まるで、 “誰か” に作られた玩具のように歩いている。

……薬による抑制。感情を鈍くしているの?


 目の焦点が合っていない。

 歩き方が一定。

 呼吸すらも均一で、個性の欠片がない。


 その群れの中心に、 “彼” がいた。


 白い髪。

 血の気の薄い横顔。

 薬袋を抱え、慈悲深いとも錯覚する穏やかな手つきで、小瓶を配っている。


 だが……

 受け取る村人の顔が、一様に濁っている。


……白銀の薬師

 サクラは悟った。

 この男自身も限界ギリギリで立っている、と。



 到着したその夜、サクラは村へ忍び込み、家々の観察を始めた。


 薬を受け取った村人は、すぐに動作が鈍くなる。

 眠るような瞳のまま畑を耕し、倒れても誰かが支えることもない。

 倒れた本人も文句一つ言わず、ゆっくりと立ち上がるだけ。


 まるで、疲労も痛みも感情も、全部抜け落ちてしまったように。


……あの薬、痛みも苦しみも奪うのか…


 だが、それは人としての “核” までも奪っていた。



 翌日、薬師が薬を配っている間に、サクラは彼の家に潜入した。

 整理整頓された清潔な室内。

 だが、一箇所だけ異質な空気を放つ場所があった。


――小さな祭壇。


 木箱を開くと、色褪せた少女の髪飾り。

 その下には、分厚い帳面。


 開くと、震える筆跡で綴られた文字。


『セイコを助けられなかった』

『痛みで泣く妹を見て、俺は何もできなかった』

『あの老人がもっと早く来てくれていれば……』


 ページをめくるほど、胸が締めつけられる。


 妹のセイコは風土病に侵され、皮膚はただれ、呼吸するだけで悲鳴をあげるほどの痛みに苦しんだ。

 薬師は村の誰よりも必死に薬草を集め、配合を試し、孤立しながらも研究を辞めなかった。


 だが、すべて失敗。

 村は彼を奇人扱いした。

 それでも、諦めなかった。


 そんな絶望の最中――


『老人が現れた。薬学学校の先生に似ていた。いや、同じ人物なのかもしれない。痛みを抑える薬を教えてくれた。だが、セイコには間に合わなかった』


……薬学学校の老人……?

 サクラの眉が、ほんのわずかに動く。


……ウラカタ衆の “外部協力者” の特徴に似ている……でも薬師本人は気づいていない…


 最終ページには、掠れた筆跡。


『せめて誰かの痛みだけは止めたかった。それだけなんだ』


 サクラは帳面を閉じた。


……哀れむ必要も、許す理由もない。そして…この男は駒だ。誰かに使われている。



 満月の夜。

 薬師はサクラが現れるのを、待っていたように微笑んだ。


「……やっと来てくれたね」


 月光に照らされた顔は、疲れきった人間そのものだった。


「質問があります」

 サクラの声は限界まで冷えている。


「あなたに薬を教えた老人は誰なんです?」


「……薬学学校の先生だった人だよ。名前も顔もあいまいだけど……あの人がいなければ、俺は何もできなかった。…ウラカタ……? いや、そんな名は聞いたこともない」


 サクラは確信した。

 薬師は何も知らない。


「老人はどこへ?」

「分からない。教えるだけ教えて、消えた。でも……正直、恨んでいるんだ。あの薬は、セイコには効かなかった。なのに……村の人には効いた」


 サクラの目に、月が映る。


「違う。感情を奪っただけ」

「……そうだろね…」


 薬師の瞳が揺れた。

 その揺れは、月よりも脆かった。


「殺してくれ。俺は、……セイコに謝りたい…」

 薬師の脳裏に、死に際のセイコの姿が鮮明に思い出される。


 痛い、痛い、おにいちゃん…痛い…

 涙を流しながら、兄に助けを求める妹。


 もう…いやだ…もう…いやだよ…もう……殺して…おにいちゃん

 その声は、痛みによってすでに壊れかけていた。


 瞼を開けることもできなくなっていたセイコが、涙があふれる目を兄に向けた時、兄は妹の首を絞めていた。


……痛みがない世界を作りたかっただけなんだ……俺は間違っていた…セイコ…俺はお前を殺してしまった……ゴメンなセイコ…


 そんな薬師の懺悔を待っていたかのように、サクラは息を一つだけ整えて一歩で間合いを詰めた。


 一閃。


 銀髪が月に浮かび、血が静かに夜へ落ちた。

 薬師の表情は、ようやく痛みから解き放たれた子どものように穏やかだった。



 任務のあと、サクラは薬師の部屋にもどり、帳面と薬袋、薬草をすべて焼却した。

 炎は静かに薬師の罪と過去を飲み込み、黒い煙だけが空へ消えた。


 しかし、一点だけ気になるところがあった。


 カルテには風土病と書いてあった。しかし、兄と妹が暮らしていた村に、そんな風土病の記録はないのだ。その証拠に、その村の誰も風土病を患ってはいない。


 全身に痛みが走る風土病があるのは、もっと北の雪深い山岳地帯なのだ。それも、今ではある栄養素の欠乏が原因と判明している。


 なら、その病気をケイコに感染させた者がいるのではないか?

 サクラの脳裏にウラカタ衆の存在がチラついた。



 三日間、サクラは村を離れず、回復の経過を観察した。


 初めに正気を取り戻したのは幼い子だった。

「……なんで、ずっと眠かったんだろう……」


  皆、薬を飲んでいた数日の記憶が曖昧で、まるで夢から覚めたように戸惑っていた。

 サクラは屋根の上から静かに見つめる。


……戻っていく。元の暮らしへ…


 胸の奥に、小さな灯がともる。

 それは、暗殺者に似つかわしくないほど温かい灯りだった。


……よかった。本当に


 次は主婦だった。

「…あ、あれ…?」

 彼女は畑の前で立ち尽くし、しばらく空を見上げたあと、かすれる声でつぶやいた。

「……私、何でこんなに……痛ッ!」

 感情の戻りは、痛みの戻りでもあった。


 手のひび割れを見つめ、震え、ようやく涙が落ちた。

 その涙を合図にしたかのように、村はゆっくりと“息を吹き返し始めた”。


 泣き声。

 怒鳴り声。

 笑い声。

 思い思いに噴き出す、生の音。

 それらのすべてが、三日前まで完全に消えていたものだ。


……戻っている

 サクラは、村の外れの小高い場所からその様子を見ていた。

 ただ見ているだけの、冷え切った表情のまま。


 けれどその胸の奥底で、微かな波が揺れた。

 気配も音も消したクノイチが、三日も同じ場所に滞在することなど本来あり得ない。

 だがサクラは帰らなかった。

 “任務を果たすため” ではなく、 “正気を取り戻した彼らの姿を、確かめるため”。



 四日目の朝。

 村に風が吹いた。

 春の前触れを告げる、やわらかな風。


 サクラは馬小屋の影に立ち、村人たちを遠くから観察していた。

 昨日とは違い、村全体にざわめきがある。


 生活音が戻り、鍬の金属音が響き、子どもたちが走り回る声まで聞こえる。

 その中で、幼い少年が母に抱きついていた。


「お母…こわかった……ずっと、夢の中にいるみたいで……」

「大丈夫、大丈夫よ……」

 母の震える手。

 子の震える声。


……これでいい

 サクラの喉の奥で、わずかな息が漏れた。

 ため息でも、安堵でもない。

 そのどちらにも似た、ほとんど無音の呼吸。



 村を離れる直前。

 サクラは誰にも気づかれず、薬師の墓を作った。


 石を積むだけの、簡素な墓。

 そこに名前はない。


 だが、サクラは掌に小さな髪飾りを置いた。

 薬師の祭壇にあった、妹セイコの髪飾り。


……本当は、ここに置くべきじゃない。これは、彼が一生抱えていく “罪の象徴” だ…

 そう考えた。


 考えた……が、サクラは髪飾りを置いた。


「……せめて」


 風に溶けるほどの声。


「――痛みのない場所へ、行けたのなら」


 祈りではない。

 赦しでもない。


 ただ、任務の最後に残る、微かな感情の揺れ。

 それすらサクラは自覚していなかった。



 サクラは再び山の影へと消え、気配を完全に断った。次の任務が、すでに彼女を待っている。


 サクラの瞳に、淡い月光の残滓が揺れた。

 その感情が何かを、彼女自身は知らない。


 ただ、風がそれをさらっていく。

 冷えた山道へ、サクラの影が静かに伸びた。

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