CURSED TO LIVE
くおん
エピソード00 最果ての呪い
太陽と月が、決して水平線から完全には沈まぬ地がある。
人の祈りも欲望も届かぬ最果ての地。
海が深い山々を包み込み、山々は海を睨み返すようにそびえるその中央に、ひとつの巨大な寺があった。
寺は山そのものを穿ち、無数の洞穴・柱・通路が重なり合い、まるで“生きた要塞”のように沈黙している。
かつては祈りの場だったのだろう。
だが今は誰も寄り付かない。
風すらも敬遠するように軌道を変え、麓の獣でさえその山を決して越えなかった。
理由は、誰も明確には知らない。
ただ、誰もが“帰ってこない”とだけ知っていた。
寺の最深部――厚い石材の床のさらに下。
そこは本堂の地下に隠された、秘されたはずの空洞だった。
その中心に“それ”は立っていた。
ヒトの形をしている。
だが、そうと呼ぶのはためらわれるような姿だった。
右半分だけが、かろうじて人の肌の形を保っている。
左半分は黒く光沢のある液体が硬化を繰り返し、ひび割れ、崩れ、また固まり、溢れ、再び固まっていた。
全身が“壊れかけの器”のようで、それでもなぜか……生きている。
呼吸のたびに顎がわずかに動く。
そのたび、薄い光を放つ壁の発光装置が影を揺らす。
黒い樹脂のような皮膜が、呼吸と同期していた。
――アクマ。
その名は、世界のどこかで囁かれてきた“呪われし存在”の呼称だった。
しかし彼の右半分には、まだ“彼”の面影があった。
温和な少年の眼差しを残した、穏やかな右目が、ただ静かに閉じられている。
だが、それを知る者はひとりしかいない。
サクラは、その地下空洞にいた。
黒衣でも白衣でもない。
影に染まった色の、旅装に似て旅ではない装束。
こうした任務のために特化された、音も匂いも持たない“無”の衣。
彼女の顔には一切の表情がなかった。
感情も記憶も意識も、鼓動すらも、奥底へ沈めている。
怒りも悲しみも迷いも、ひと欠片でも残っていれば死ぬ相手。
それを知るからこそ、彼女は心を“消して”いた。
……出来なければ、一瞬で終わる…
しかし、怯えは一切ない。
ただ事実だけを理解し、それに沿って動くだけ。
このアクマを暗殺しなければ、ヒサマが“アクマ”になってしまう。
その一点だけが、サクラを動かしていた。
――サクラはこのアクマがヒサマそのものだとは知らない。
その無知が、世界の悲劇を加速させていた。
太陽がわずかに沈み、月もまた地平ぎりぎりに半身を隠し、長い長い薄明かりの時間が過ぎた。
発光装置が、ふ、と瞬いた。
その“一瞬の影”に、サクラは飛び込んだ。
天井から無音のまま落ちる。
抜き放ったのは共に戦ってきた愛刀、月影(つきかげ)。
影を斬るために鍛えられた、軽すぎるほどの太刀。
狙うは首。
狙えるのはその一度だけ。
しかし、彼女が落下しきるより先に。
アクマの全身が、ぐしゃりと音を立てて動いた。
硬化した黒い液体が一斉に砕け散り、幾千もの破片が宙に飛び、アクマはサクラを迎え撃つように両腕を広げた。
左拳が闇の質量そのものとなって、サクラを叩き潰すほどの速度で迫ってくる。
逃げる間もない。
来る――!
と思った瞬間。
空間が、止まった。
いや、止まったのは“アクマの拳”だけではない。
時間でも、音でも、光でもなかった。
止まったのは、“死”だった。
サクラが無へと落とし切った殺意――それを臨界まで凝縮した状態。
それは、サクラの殺意を空間に固定するもの。
サクラにしか出来ないそれを”技”として名付けるのなら、”死刻”と呼ばれている。
アクマはその“殺意”に反応してしまったのだ。
ヒトとしての本能の残滓が、死を察知した。
拳は空を裂き、サクラは影のように滑り込む。
気付いたときにはもう。
月影は、アクマの首に深々と突き立っていた。
アクマの右目が、ぱちりと開いた。
その瞳は、まるで懐かしいものを見たようだった。
深い孤独を抱えながら、それでも優しさを忘れない少年の目。
そして、震える唇から細い声が漏れた。
「……サクラ……」
刹那。
天井、壁、床――あらゆる場所の幾何学模様が光った。
光ではない。
音でも匂いでも空気でもない。
“存在そのもの”が、サクラへと襲い掛かる。
光がサクラの皮膚を貫いた。
音が骨に染み込んだ。
空気が臓腑を食い破った。
サクラという存在の内側で、世界を構成するあらゆる要素が混ざり合い、結合と分離を繰り返し、形を変え、概念を変え、意味を変えながら、不老不死という名の “在り方”へと収束していく。
悲鳴は出ない。
出せない。
声帯が空気に融けていた。
世界がサクラの中へ押し寄せ、サクラが世界の形を狂わせていく。
その異常な光景の中心で、アクマ――ヒサマは微笑んだ。
「……生きて……忘れて……いい……でも、どうか……サクラ……幸せに……」
それは――“死に続ける者”が残せる、たったひとつの祈りだった。
闇と光が収束し、爆ぜ、世界が裏返る。
◆
サクラは目を覚ました。
頬が濡れていた。
大量の涙が、寝ている間に流れ落ちた跡が残っている。
なぜ泣いているのかわからなかった。
胸の奥で、誰かの声が響いたような気がした。
何かを失ったような痛みだけが残り、理由だけが抜け落ちていた。
サクラは空洞となった胸のまま、ぼんやりと空を見上げた。
太陽と月は、今日も水平線に沈みきらない。
世界は何事もなかったように続いていた。
ただひとつ、サクラが人ではなくなったことだけを除いて――。
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