乙女ゲームは馬狂いによって成立しませんでした 後編
「まぁ、そんな感じで――家出じゃなくて、正確には国出、ってところかな」
そう言って肩をすくめるのは、雪のように白い長髪を背で束ね、藤色の瞳を細めた男装の麗人だった。
端正な顔立ちに浮かぶ微笑みは、どこか艶やかで、それでいて隠しきれない満ち足りた幸福を滲ませている。
かつて一国の命運を背負わされていた女の顔ではない。
今そこにいるのは、ただ自分の人生を取り戻した者の顔だった。
「国を出たくなる気持ちはわからなくもないが……結果的に、それがあの国の滅亡への第一歩になったわけだな」
やや複雑そうに視線を向けるのは、帝国の皇太子――ジュラ・ラー・ラピスラズリ。
帝室の血を示すような、夜空に星を散りばめたかのような濃紺の瞳と、蒼黒の髪を持つ中性的な美青年だ。
彼の言葉に、彼女は一瞬だけ肩を揺らし、すぐに小さく鼻で笑った。
「あんな国、潰れて当然さ。馬も人も、まともに育てる気のない場所だった」
言い切ったあと、彼女は視線を前方へと向ける。
そこには、緑のターフと、出走を待つ白馬の姿があった。
「それより――ちゃんと目に焼き付けておけよ。私のシトリンが、世界一になる瞬間を」
歌うような声音。
その横顔は、今までジュラが見た中で、最も上機嫌だった。
彼女は一片の不安も疑念も抱いていない。
白馬が勝つことを、微塵も疑っていなかった。
「おいおい、レースはまだ始まってもいないぞ」
ジュラは苦笑しながらたしなめる。
だが、その口調に本気の心配はない。彼自身もまた、シトリンの敗北を想像できなかったからだ。
「シトリンが負けるわけがないだろう?」
即答だった。
「今までだってそうだ。他が弱かったから本気を出さなかっただけなのに、着差がどうだとか、あの馬には負けるだろうとか……外野は好き勝手言う。でも――」
彼女の視線が、まっすぐ白馬を射抜く。
「今日は違う。このレースは、あの子の強さを見せつけるために用意された最高の舞台だ。最高のメンバー、最高の条件。その中で勝ってこそ、伝説の名馬になる」
息を吸い、吐く。
「あぁ……楽しみで仕方がない」
緊張よりも、期待。
不安よりも、確信。
ジュラはその様子を見て、ふっと肩の力を抜いた。
「このレースなら、どんな名手でも緊張するものだと思っていたが……楽しみ、か」
小さく笑って、頷く。
「それなら、心配は無用だな。――行ってこい。勝ってこい」
「もちろんだよ!」
その声は軽やかで、迷いがない。
やがて、少し先の未来で“伝説の名馬”と呼ばれることになる白馬に、
“希代の若き名手”と謳われる女が跨る。
人と馬が呼吸を合わせ、意志を重ねる。
緑のターフへと向かって――人馬一体となって、翔る。
「アイリス! 勝ったら、俺の願いを一つ叶えてくれ!」
不意に投げられた声に、彼女は振り返った。
「それ、普通は逆じゃないのか?」
呆れたように言いながらも、口元には笑みが浮かんでいる。
「まぁ、今日の私は機嫌がいい。馬をよこせ、なんていうアホな願いじゃなければ、聞いてやるよ」
「その言葉、忘れるなよ!」
皇太子が声を立てて笑う。
それを聞いた彼女は、シトリンと揃って不思議そうに首をかしげた。
――馬は主に似るのか。
そんなことを考えて、ジュラはますます可笑しくなった。
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