あの日の君が好きだった ー成人式での再会ー

春山純

あの日の後悔

「真希、ちょっと袖上げてくれない?あ、岸さんでもいいから」


 今思えば、深井さんはそう言ったんだろう。でも、その時の僕は彼女がなんと言ったのか聞き取れなかった。


 年内最後の家庭科の授業は、調理実習だった。パンケーキを作ることになっており、多くの生徒が胸を弾ませている。僕としても、パンケーキ作りは楽しみだった。中3ということもあって受験勉強に追われる中、それを忘れられる貴重な時間だ。偶然学年1の美人と名高い、深井夏澄と同じ班になったことも、楽しみを増幅させていた。

 

 深井夏澄は髪が綺麗で、清楚で、目がぱっちりとしていた。静かめな人だけど、時折見せる笑顔には惹かれるものがあった。成績は真ん中ぐらいだった気がする。部活は確か陸上部で、長距離をしていると聞いた。僕は寝ていることが多くてあまり覚えていなが、確か朝礼でも表彰されていたんじゃないかな?

 

 話は戻るけど、パンケーキ作りは楽しかった。僕が生地をフライパンに入れるのが下手で、丸い形にならなかったこと。偶然ミッキーマウスのような形になったパンケーキを見て、笑ったこと。深井さんも笑っていたこと。受験が近いからか、マスクをつけていた彼女が、食べるときはマスクを外していて、久々に彼女の綺麗な顔を見れたこと。

 

 でも一番忘れられないのは、彼女が自分の分の皿を洗っていた場面だ。腕まくりしていたはずの袖口が落ちてきて、濡れてしまうと思ったのだろう。


「真希、ちょっと袖上げてくれない?あ、岸くんでもいいから」


 今思えば、深井さんはそう言ったんだろう。でも、その時の僕は彼女がなんと言ったのか聞き取れなかった。


 あ、袖を上げればいいんだ。ぼんやりしていた僕がそう理解した瞬間には、同じ班の高橋真希が、深井さんの袖をまくってあげていた。


 学年1の美人、深井夏澄に触れる絶好の機会を逃したーーー

 

 その記憶は今でも忘れられない。一度だけ席替えで隣になったとき、ポーカーフェースの僕は表情を変えなかった。


「深井と隣になって何も思わんの、お前だけだよ」


 友達にはそう言われたけど、本当は僕だって嬉しかった。嬉しかったけど、どうせ彼女の好意を引くなんてことが、地味な僕にできるはずがない。だったら、彼女の2個後ろくらいの席から、彼女を眺めている方がずっと幸せだとさえ思っていた。


 深井夏澄に触れる絶好の機会を逃したことだけが、あの場面を忘れられない理由ではないと思う。深井夏澄に、深井夏澄自身に触れてもいい人間だと、認められたように感じたのだ。

 

 いやいや、考えすぎではないか。

 ただ、僕がそのとき高橋真希より近くにいたからかもしれない。

 僕に助けを求めるくらい、袖が落ちてきそうだったのかもしれない。

 

 そう思っていても、あの時彼女の袖をまくれていたら、、、という後悔は消えない。第一志望の、地元の大学に落ちたこと以上に、後悔していると言っても過言ではない。大学生になって、地元の大学に落ちた僕は家を出た。地元に帰ってくるたび

 に、深井夏澄の影を探している。彼女は高校で、市外の私立高校に行ったと聞いた。中学を出てから、一度も会っていない。

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