08 森へ②

 百合子は最初のうちこそ、枝を踏み付けて音を鳴らす度にビクついていた。普段ならからかってくるであろう保が何も言わないのは、命が懸かった真剣な状況だからなのか、あるいは彼自身も強い恐怖を感じているからなのかは、判断が難しかった。

 そのうち慣れてくると少しずつ心に余裕が生まれ、枝葉に手足を傷付けられる怒りの方が勝ってきた。上手く避け切れない場合は、懐中電灯や金属バットの先で乱暴に払い除ける。


「ああもう、いっそ燃やしたい!」百合子は口を尖らせた。


「油断すんなよ?」保は少々呆れたように言いながら、石ころを蹴飛ばした。


「わかってるよ。ねえ二人共、ライター持ってない?」


「なっ!?」


「持ってないわ、残念ながら」絵美子は振り向かずに答えた。「でも百合子のその気持ち、よくわかるわよ」


「あ、あるわけないだろそんなもん!」


 何故か動揺する保が気になったが、百合子は言及しないでおいた。



 一本道をひたすら歩き続けても、肝心の〝あいつ〟どころか、虫一匹の気配すら感じられなかった。


 ──一体いつまでこんな調子が続くの?


 百合子は隣の保をチラリと見やった。珍しく愚痴を溢さずにいるが、その表情からは若干の疲労と、それ以上に苛立ちが感じられた。


「ねえ絵美子、これ本当に──」


「止まって」


 言うや否や絵美子は立ち止まり、両手を広げて後ろの二人の足も止めさせた。


「絵美子? どうし──」


「しっ」


 ──……!!


 三人が耳を澄ますと、何処からか低い唸り声のようなものが聞こえてきた。百合子と保の金属バットを握る手に、自然と力が入る。

 唸り声は徐々に近付いて来る。保が振り返って絵美子に背をくっ付けるようにしたので、百合子もそれに倣った。


「おい、この声は何だ。獣か?」


 保はほとんど囁くように尋ねたが、絵美子は無言だった。

 唸り声はすぐ間近に感じられるようになった。


「やだ、怖いよ」


「落ち着け星崎。〝あいつ〟を三枚おろしにしてやるんだろ?」


「ボコボコって言ったの!」


 百合子がつい大きな声を出したその時だった。

 一際大きな唸り声が響いたかと思うと、保に近い木々の間から、巨大な真っ黒い煤の塊のようなものが飛び出し、三人の頭上を覆った。よく見ると真ん中に一つの穴が空いており、そこから舌舐めずりするような音が聞こえた。

 百合子と保は煤の化け物を見上げたまま、互いに身を寄せ合った。至近距離から光を当てられても、煤の化け物は一瞬僅かに怯んだだけだった。


「え、絵美子!」


「大丈夫よ、落ち着いて」


 振り向いた絵美子は冷静にそう言うと、携帯をスカートのポケットにしまい、拝むように両手を合わせた。


「お、落ち着けって言われても──」


 絵美子の形も色もいい唇から、呪文のような言葉が吐き出された。


 パンッ。


 それが終わると、絵美子は拝むように手を打ち、乾いた音を響かせた。するとその直後、煤の化け物は唸り声からは想像出来ないような甲高い悲鳴を上げ、身を捩らせるようにしながら雲散霧消した。


「もう大丈夫よ」絵美子は微笑んだ。


「あ、有難う……」


「助かった」


「どういたしまして。ねえこれ、この後も持っててもらっていいかしら」絵美子は携帯を保に差し出した。「後ろから上手く照らしてね」


「お、おう、わかった」保は何度も頷いた。


「絵美子、今の何だったの? 幽霊?」


「半分はね。もう半分は〝あいつ〟の力……魔法みたいなものかしらね。ちょっとその辺は私もよくわからないのだけれど、混ざっていたわ。悪趣味なやり方よ」


 三人があまり進まないうちに、今度は四方八方から複数の囁き声が聞こえてきた。


「ま、またさっきのみたいな?」


「……名前を呼んでやがる。望月の」


 百合子は耳を澄ました。


「──子」


「絵美子」


「不吉……娘……」


 囁き声は、先へ進むにつれてはっきり聞こえるようになってきた。


「あれは呪われているよ」


「気味が悪い」


「絵美子ちゃん誰と喋ってるのお?」


「望月って知ってるか? 見た目はいいのに頭ヤバい感じの!」


「変わってる子よねえ」


「愛情不足かしら」


 自分が悪口を言われたような気分になり、百合子は顔をしかめた。


「ちょっと見た目がいいからって」


「アタシのカレに色目使ってんじゃねーよ」


「キミ可愛いよねえ! 付き合ってよ。ねえ待ってよ無視しないでさあ」


「付き合うなら望月絵美子だろ! 顔も体をいいじゃん。不思議ちゃん? いいよ別にヤれるなら!」


 保は舌打ちした。「おい望月……何だよこいつらは」


「そうね、いい加減やかましいわね」


 パンッ。


 絵美子が再び手を打つと、ほとんどの声が止んだ。


 パンッ。


 今度は完全に聞こえなくなった。


「ふざけやがってクソが……」


 保は忌々しげに毒突くと、気遣うような視線を絵美子の背中に投げかけたが、中傷された本人は何事もなかったかのように歩き続けている。


 ──絵美子……。


 百合子は、胸の辺りに締め付けられるような痛みを感じた。あれらの声全てが、絵美子が実際に耳にしてきたものだとしたら。


 ──性格悪過ぎ。


 金属バットを強く握り直す。


 ──やっぱり〝あいつ〟は、ボコボコじゃ足りない。三枚おろし!


 立ち止まった絵美子に危うくぶつかりそうになり、百合子は我に返った。


「どうやら着いたみたいね」

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