ヤマイ

「ケホッケホッ。」


 子供の頃。俺は風邪とか、体調を崩すことが怖かった。辛かったとか、しんどかったとかではなくて、怖かったんだ。子供なりの中途半端な知識で細菌とか、ウイルスとかを捉えていたから、自分の身体の中で、知らないなにかが蠢いているような、そういう状態になることが怖くてたまらなかった。本当に、背筋を伝う冷や汗が風邪から来るものなのか恐怖から来るものなのかわからなくなるくらい。

 

「ケホッ」

 

 皆にもないだろうか。周りとは違って、自分だけが覚えた、何でもないことに対する恐怖。大人になるにつれて、博識になるに連れて、薄れていく、無知で未知であるが故の恐怖。そういうものが、子供の頃にはあった。だからこそ、俺は風邪とかには死ぬほど気を付けてたし、体調を崩したら絶対安静で、医者の言い付けは必ず守ってた。今となっては、手洗いうがいも適当だし、風邪になっても、薬の服用なんかしょっちゅう忘れる。

 

「ケホッケホッ。ゲホッ。ゲホッ。」

 

 なんでこんな話してるかって?まあふと思い出した話をしたかったのと、俺がどういう気持ちだったのかを伝えたかったからということだ。ちょうど1ヶ月前くらいだろうか。俺は熱を出した。「ケホッ。」喉の様子が変で、咳も出る。俺は少し季節外れの、風邪をひいてしまったようだと思った。社会人になると、風邪というものが、酷く既知のものに思える。だから、大したことないと感じてしまう。ついでに病欠というものが酷く申し訳ないように感じるのは、日本人だからなのだろうか。体調は悪いが、大したことはないと思って、俺はそのまま、会社にいくことにした。

 

「ケホッケホッケホッケホッ。」

 

 咳をする俺に、同僚や上司たちは皆気にかけてくれた。それでも俺は、よくあることなんで、すぐに治りますなんて返して、その日を1日働き通した。実際に、市販の風邪薬で症状はほぼ感じないくらいになった。薬がどう効いているのかなんて知らないが、ウイルスを退治してくれたんだろうとか、そう安心してその日を過ごした。

 

「ケホッ。」

 

 話を少し戻しても言いかな。子供の頃の、怖いものの話。子供の頃って、怖がりで、その癖バカだから、未知のものを勝手に想像で作り出して、勝手に怖がっていた気がする。例えば、学校の七不思議とか、そういうのって、小学校くらいでしか聞かないじゃないか。会社の七不思議なんて、少なくとも俺は聞いたことない。子供の想像力はすごいなんてよく大人になった子供たちが言うけど、今さらになって俺もそう思う。いや、今だからこそなのか。また咳が出始めた。今度は薬では中々止まらない。この頃になって、ふとそんな風に、子供の頃自分が風邪を必要以上に怖がっていたことを思い出した。思い出したせいで、改めて、めちゃくちゃ怖くなってしまった。この頃には、流石に病院にいくかと検討をし始めていた。

 

「ケホッケホッ。ゲホッ。ケホッケホッケホッ。」

 

「ゲホッ。」そう勢いよく咳をすると、口からは真っ赤な液体と、見たことのない黒い虫がペチャという音を立てて吐き出された。一瞬で頭が混乱した。真っ赤な液体が血であることなんて、見た目でも、口の中の気持ち悪い鉄の味でも、容易に判断できる。それは大問題のうちの、問題ではない方だ。問題は、その黒い、蠢いている、虫だった。子供の頃。俺は体調を崩すことが怖かった。自分の身体で、知らないなにかが蠢いているような気がして、本当に怖かった。「オエェ。」自身の出来事に、目の前の光景に、その恐怖に、体調とは別に俺は吐いてしまう。吐瀉物には今度はなにも混じっていない。赤い液体の中の黒い虫は、なおもグネグネと体を動かしている。流石に俺は会社に病欠の旨のメールを送り、すぐに病院へと向かった。

 

「ゲホッ。ゲホッ。ゲホッ。ゲホッ。ゲホッ。ゲホッ。」

 

「うーん。特に内蔵に異常も見られませんし、多分数日間強く咳き込んでいたせいで気道が傷ついてしまって、それで喀血してしまったんですかね。黒い虫は、喀血なんて普通見ないですから、口から血が出されたことに動揺して、なにかと見間違えたんじゃないでしょうか。」

目の前の医者は、酷く難しそうな顔をして、そう話した。そんなはずはないと話したが、二回くらい検査してもらって、異常がないものはないのだからと話された。「ゲホッ。」咳はなおも出るが、黒い虫は愚か、血すら吐かない。俺もなんだか見間違いな気がして、最後は苦笑いをしてすみませんと言った。いくつか薬をもらって、その日は俺はそのまま帰宅した。見間違いだと思った。思っていると自分に言い聞かせた。そうでないと、怖いから。

 

「ゲホッ。ゲホッゲホッゲホッゲホッ。ゲホッゲホッゲホッ。」

 

 ペチャ。血が吐き出される。黒い虫が吐き出される。なんかもう、笑えてきた。病院では異常はないと言われ、咳も普通なのに。家ではこんなおかしいものが自分から吐き出されるのだ。「オェェ。」いつの間にか俺の目には涙がたまっている。怖い。怖い。怖い。自分の体が今どうなっているのか、全くわからない。どうなっているのだろうか。あるいは、どうにもなっていないのだろうか。本当に或いは、俺の妄想というか幻覚というか、そういうものなのだろうか。会社はもう4日休んでいる。昨日、同僚の一人が心配をしてお見舞いに来てくれたけど、血の跡や黒い虫は見せていない。もしも見せて、同僚にも異常と指摘されるのが、自分の身体の未知の異常を事実と認めるのが怖い。もしも見せて、同僚にも認識されないのが、自分の身体の未知の異常が自分にしか認識されない、未知でしかないものとなるのが怖い。「ゲホッ。ゲホッ。」俺の咳はまだ止まらない。

 

「ゲホッゲホッゲホッゲホッゲホッゲホッゲホッゲホッゲホッゲホッゲホッゲホッゲホッゲホッゲホッゲホッゲホッゲホッゲホッゲホッ。」

 

 ペチャ。ペチャ。ペチャ。ペチャ。ペチャ。咳をする度に、鮮やかな血と、どす黒い虫は必ず吐き出された。最近気づいたことがある。咳以外は、体調が悪くないこと。むしろ、お腹がよく空くようになったこと。最近知ったことがある。寄生虫は、種類にもよるが、正しい宿主にいる限り、大概穏やかな生活をするそうだ。正しい宿主まで殺してしまうと、自分も死んでしまうからだそうで。誤った宿主に寄生したとき、初めて迷子に気づいて暴れるのだそうだ。医者がなぜ異常に気づいてくれないのかはわからないが、そういう未知の寄生虫に寄生されたんじゃないかと、俺は思っている。最近、感じるようになったことがある。なら、俺はこの寄生虫を、他人に寄生させる前に、死んだ方がいいのではないのだろうか。俺は怖い。自分の身体の中で、知らないなにかが蠢いているような感覚が。それを、誰かに広めてしまうことが。

 

 日記を書き終えた俺は、台所に向かって、包丁を手にした。


「いやー、それにしても、ホントにそんなことあり得るんですか?」

「俺も信じがたいが、彼の日記と、病院の診療録、それらと行政解剖を照らし合わせた結果がそれくらいしか考えられないのだから、医者の話を信じるのなら、そういうことだろう。」

病院から出てきた二人の男は、そんな会話をする。男たちは、仕事の関係でとある行政解剖に立ち会った帰りだった。遺体がなぜ行政解剖されたのかというと、遺体の近くにあった日記が原因だ。その日記には、子供の頃から風邪が異常に怖かったこと、自分が今、未知の寄生虫に侵されていると考えていることが書かれていた。

「まあ昔から言うだろ?病は気からって。」

「にしてもですよ。普通想像だけで咳が止まらない、風邪が治らない、どころか、気道を出血して喀血するところまでいきますか?」

「まあそんなこと言ったら、人間はストレスで胃に潰瘍を作り、想像で妊娠の症状も起こすからなぁ。それと比べたら軽微なんじゃないか?」

「先輩ってそういうところ適当ですよね。本当に現代医学で発見できない寄生虫だったらどうするんですか。」

「お前は監察医が目を血眼にして隅々まで検査して、なお黒い蠢く寄生虫を逃すと思うのか。」

「思わないですけど。でもこんな日記だと、少しは怖くなりますよ。あーあ。それにしてもこれ、報告書どうするんですか。」

「今日は徹夜だな。」

二人の男の会話は闇に溶ける。そのまま車の運転席と助手席に男たちは乗り込んだ。ふと、一人の男が咳をした。

「ゲホッ。」

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