第9話 殺し屋にしては文学的な発言だな。

ハードボイルド・セブン

エピソード2. 大洗

第9話




日光は車から降りるとすぐに長い脚を大きく動かして海水浴場に向かってまっすぐ進んでいった。最も近く迫ってくる波の先端が靴の先まで届く寸前まで海に近づいた日光は、ようやくその場で立ち止まり赤見の方を振り返った。赤見は日光よりもゆっくりとした足取りで砂浜を歩いてきていた。


「先輩!水平線を見てください!こんなに広々とした場所は久しぶりですね!先輩もそうでしょう?わあ、広すぎて、俺が消えてしまいそうですよ!」


日光は普段より一段高い声で叫んだ。『殺し屋にしては文学的な発言だな』とつぶやきながら、赤見は日光の隣に立って周囲を見回した。


「観光スポットだと言ったとしてはに誰もいないな。」

「それは今日が一様平日だし、今は夏のピークシーズンにはやや早い時期、何より俺たちが朝早く出発しましたからね。まだ客が来るには一時間くらいかかりますよ。」

「こんなところに来たことないってのに、よく知ってるな。」

「こんなのはただの常識です。よく見れば先輩はあまり知らないようですね。」


特に間違った言葉ではなかったので、赤見はその言葉を聞かなかったふりをして流した。代わりに、赤見は冷たい海風で日光の短い前髪と黒いスーツのジャケットが乱れ飛ぶのを少しぼんやりと見つめていた。


日光は飾らないまま楽しそうに見えた。いたずらっぽく歯を見せて笑う姿や、わざとらしくいやらしく笑う姿とは全く違っていた。心の底からすっきりとしたような、ほっとした表情をして、規則正しく揺れる波の流れを優しい目で観察していた。肉食動物のように鋭く研ぎ澄まされた凶暴な目つきや、切り裂くために持ち上げられた一振りの剣のような危険な雰囲気も、今はなぜかその威力を十分に発揮できていなかった。誰がこの穏やかな青年を殺し屋だと想像できるだろうか?


「お前、海が好きか?」


赤見が突然思い出したことを口にしたが、日光は赤見の予想に反して首を振った。


「先輩と一緒に来た海が好きです。」


その答えには特に返す言葉がなく、赤見は口を閉じた。


「少し歩きましょうか。」


日光は赤見が同意や拒否の表現をする前に、先に海岸沿いを歩き始めた。私は今こいつと何をしているのか。赤見は遅れて後悔の念が湧いたが、何も言わずに日光の後を歩いた。


数分間、静かに海だけを見つめながら歩いていた日光が突然後ろを向いた。


「さっきは俺の話を聞かせてくれたから、俺も先輩の話を聞く権利があると思うんですけど。」


風と波の音が混じり合う日光の低い声にはどこか音楽的な響きがあった。赤見はなぜかくすぐったくなった耳を掻いた。


「嫌なら?権利だなんて、生意気だ。」

「あ、先輩!本当にひどいですよ。少しくらい生意気でも許すって言ったのに。」


赤見はその低く男らしい声を軽率に高く上げながら子供のようにわがままを言う日光が少し面白かった。


「聞いても面白くないだろう。」

「催眠術師の過去の話が面白くないわけないですよ。映画なら絶対に見に行く。」

「そう要約すれば、そうかもな……。実際に上映されたら興行は失敗するだろうけど。」

「お願いですよ。どうせ俺は今日先輩を救うために自殺するんだから、どんな秘密でも構わないじゃないですか。」

「はあ、お前、意外と卑怯な面があるな。」

「殺し屋に今さら何言ってるんですか?教えて下さい、先輩。ねえ?ねえ?俺の最後の願いです。」

「最後の願いがもう二つ目じゃないか……。」


赤見は一瞬空を見上げ、ためらった後、過去の記憶を視線の先でなぞり始めた。誰にも明かしたことのない暗い事件が、赤見の時間を悲惨に埋め尽くしていた。赤見は常に、自分が激しく揺さぶられて破裂寸前の炭酸飲料の缶のようなものだと思っていた。この圧迫感を誰かに吐き出せれば、確実に消えてしまうかもしれない日光は適した相手だ。話したい。話して楽になりたい。その衝動が赤見の全身を支配した。


湿った砂浜を続いて歩きながら赤見が口を開いた。


「催眠術ができることに気づいたのは、5歳の頃だったかな。」

「ああ、5歳先輩、かわいかったですよう。あの頃は今と違って頬もふっくらしていたでしょうね?」

「そんな風に一つ一つ気持ち悪いツッコミを入れるなら言わないよ。」

「黙ります。」


日光は口にチャックを閉めかける真似をした。赤見は首を横に振って話を続けた。


「初めて催眠術をかけた相手は母親だった。おやつをもっと食べたいとこねたんだけど…… 普段と違って母親はその願いを聞いてくれたんだ。母親は教師で教育に厳しい人だったのに、次から次へと私のわがままを聞いてくれた。父親はそんな母親に注意したけど、やがて父親も私の願いを全て聞き始めた。何かおかしいと気づいたのは、その後、些細な理由で母親に怒ってしまった時だった。その時は幼い心で、母親が消えてしまえばいいと、叫んだ。」


赤見は唾を飲み込んだ。ここから話が少し過激になる。赤見は日光の顔をちらりと見たが、日光は特別な表情をしていなかった。赤見は自分が日光にどんな反応を望んでいるのか分からなかったが、日光の無表情に不思議なことで安心する自分を感じた。


「その後の母親の行方は分からない。父親は母親を探そうと努力したが、結局母親はどこにも見つからなかった。私は自分が『かあさんが消えてほしい』と言ったから母親が消えたのだと父親に言った。私はごめんなさいと、許して下さいと懇願した。もちろん父親は許してくれた。」


赤見はズボンのポケットに突っ込んだ両手を握りしめながらびくびくしていた。何かを握りしめていなければならないような気分だった。


「3日後、父親にかけられた催眠が解け、私は相手が催眠にかかっている時に記憶を消す暗示を与える裏技を使わなければならないことをまだ知らなかったため、父親は私が普通の子供ではないことに気づいたようだった。あまりにも幼かったため記憶ははっきりしないが、雪がすごく降っていたことから推測すると、私が住んでいた場所は北海道だっただろう。父親は私を列車に乗せてどこかに送った。どこかと言う理由はそれが本当にどこでもいいからだった。その後、私はあちこちの養護施設を転々として過ごした。この点は日光、お前と少し似ているかも。高校までは通うことができたが。」


赤見は特に理由もなく首を縦に振った。


「勉強とか、何にも集中できなかった。学校では何度か教師やカウンセラーが付き添ったけど…… 催眠術については、二度と誰にも話さないことに決めた。そして、こんなものが与えられたなら、与えられたものなら、食べられてしまうよりは利用することに決めたんだ。最初は情報屋と派手に紹介するには貧相だった。私は同級生から秘密を聞き出し、それを口実にお金を奪い、奴隷のように扱った。催眠術の効果は一時的だが、弱みを握れば手間をかけずに従わせられる。」


赤見の歩みが止まり、日光もその隣に止まった。


「その後はただ時間がうんざりするほど過ぎていき、今に至った。規模は大きくなっただけでやっていることは同じ。」


にっこりと笑う赤見のほほに日光の大きな熱い手のひらが当たった。赤見は目を大きく開いた。突然引き寄せられた赤見の額が、日光の堅い胸に優しくぶつかった。赤見は背中を包む日光の腕を感じ、すぐに彼を押し返そうとしたが、過酷な仕事で鍛えられた日光の力には敵わなかった。


「何……!」

「一度だけ。今だけでも。」

「……これが三度目の最後の願いなのか?」


日光はさらに強く赤見を抱きしめ、返事の代わりに頷いた。赤見はため息をついた。


「お前に同情される理由はないけど。気持ちが悪い。よく考えてみれば、私よりもお前の人生がずっと不幸だ。」

「不幸の対決をしようと? 俺が勝ったら何をしてくれますか?」

「一体私から何を得ようとするつもりか? 私は既にお前にたくさんのことしてあげた。もう何もしてやらない。引け。」


赤見が催眠術で命令したため、日光は腕を解き一歩後退した。両手のひらを見せるように腕を上げて、にやにや笑う顔が憎らしかった。


「先輩はもう少し食べなきゃ。痩せすぎだ。そして運動もした方がいいですよ。多分、俺が新生児だった時より筋肉が不足しているかもしれません。」

「そんなこと……。」


そんなことは不可能だ。赤見はそう言おうとしたが、彼らに向かって猛烈に突進してくる黒い自動車を発見し驚いて固まった。一方、日光は少しも動じず、舌を鳴らして赤見の前を塞いだ。


「ああ、こうなるかもしれないとは思っていたが。面倒なことになりましたね。」

「何? どういうこと?」


ベンツは日光の前で砂を激しく巻き上げながら急停止した。止まったベンツの運転席から眼鏡をかけた女性が飛び出すように降りた。日光は赤見に少し待って下さいと頼み、ベンツの主人の女性の方へ歩いて行った。


耳たぶを軽く包む長さの整然と手入れされた黒髪。やや冷たい印象の整った顔立ち。スリムな体型を引き立てるオーダーメイドのネイビーのパンツスーツ。手首で光る高級時計。普段通り完璧に手入れされた黒崎ひまわりだ。


一つだけ不思議なのは、ひまわりが鼻の先まで覆う銀縁の眼鏡をかけていることで、通常彼女は日光の前ではコンタクトレンズを使うため、おそらく急いで出かけたに違いないと日光は推測した。


日光がひまわりに近づくにつれ、彼女からは高級ブランドの香水のような、爽やかで柔らかい香りが漂ってきた。初めて会った18歳の頃には、こんなに外見に気を使う奴ではなかったのに。ひまわりはなぜか年を重ねるごとに、何というか、スタイルが良くなった。情報屋という職業にしてはあまりにも派手な感じかな。


「マサピ!」


ひまわりが叫んだ。マサピ?後ろで二人の男女を見守っていた赤見は片方の眉を軽く上げた。


「やあ、久しぶりだな、ひまちゃん。よく見つけたな。すごい、すごい。」

「情報屋を軽視するな。それより引退って何?私に一言も言わずにこんなところで暇そうに……!蓮君には言ったって……!」

「ああ、お前じゃなくてあいつに取引先を譲ったからからか?あいつは初心者にしては結構才能があるだろ。磨けばすぐ宝石になるさ。放っておくのはもったいないからさ。」


日光は185cmの自分より20cmほど背の低いひまわりの肩に腕を回すため、腰を曲げて顔を近づけて小声で囁いた。赤見は自分から背を向けている二人の男女に気づかれないように静かに彼らに近づいた。


「そして当然にひまちゃんにも言おうとしたよ。でもその前に重要な予定が入ったからさ。俺のスケジュールはいつも流動的じゃん。全部理解してるよね?」

「理解するまでもない。マサピのせいだよ。絶対に私に先に知らせるべきだった。」

「ごめんなさいって。久しぶりなのにずっと怒ってるのか?」

「怒ってるんじゃなくて心配してるのよ。マサピが引退説みたいな噂を流すのを放置してるから……。」

「それ噂じゃない。」

「何?」

「本当に辞めるけど。殺し屋。」


ひまわりは言葉を失ったように青ざめた顔で固まり、突然日光を押し退けて赤見に指を差した。


「あのダサいおじさんと関係あること?」

「まあ、そうならそうだろう。」


赤見はひまわりが自分をダサいおじさんと表現したことに日光が反論しなかったため、少し かっとなったが、やはり指摘する雰囲気ではなかったので黙っていた。ひまわりは赤見を睨みつけた。眼鏡の向こうの二重まぶたが深い美しい目が、無視できない敵意を宿らせて光った。


「二人は何?なぜ抱き合っていたの?まずそれを説明しなさい。」

「あ、見たの?」


赤見は彼女に催眠術をかけなければならない状況なのかどうか分からず、イライラしてきた。とりあえず日光の知り合いで、日光が対処中らしいから我慢すべきか。しかし、日光は平然と笑いながら勝手に赤見の腕を引っ張り、腕を組んだ。


「この方は、俺が世界で一番尊敬する赤見先輩。今後は殺し屋なんかはやめて先輩の下で一生働くよ。」


何だって?と赤見が驚く間もなく、ひまわりが額を押さえて砂浜に倒れた。赤見は最初から催眠術をかけておけばよかったと後悔した。

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