オッカムの剃刀
佐久村志央
第1話
トラブルというのは、しばしば生き物のように集団行動を取る。超音波だか赤外線だかヨーデルだかどんな方法を使っているのか全く分からないけれど、確実に仲間を呼び寄せている。
思えば子供の頃から、RPGに出てくるモンスターの中で、すぐに倒さないと仲間を呼び寄せる技を使ってくる奴がダントツに苦手だった。やっとの思いで敵の体力を削ったのに、その一ターンで一気に戦況をひっくり返されるのだ。その絶望感ったら!
……どうしてこんなことを考えたかと言うと、現在進行形で私の元にトラブルが集合しつつあるからだ。
一月某日、私は焦っていた。
とある小説投稿サイトでは、毎年冬に大々的に開催されるコンテストがある。今回その中で、とある部門の募集がアナウンスされたのだ。それは人気作家の名を冠していて、候補作はその人の審査を受けることができるという。
一時期「ゆとり世代は甘やかされて育ったので競争を嫌う」なんて言説がまことしやかに語られたこともあったが、まあ私個人に照らせばそれも大きく間違っていないような気もするが、そんな私もこの時ばかりはとにかくやらねばならぬと思った。胸の裡に眠っている、ししゃもくらいの闘争心に盛大に火をつけた。それはもう張り切った。
しかし人生というのは得てして理不尽なものである。
その頃巷ではインフルエンザが猛威をふるい、我が家の三人の子供たちは落語家が壇上に上がるような律儀さで順番交代に倒れた。ちなみに真打ちは私自身だ。看護および療養期間をフルに使って仕事を離れて、こうなると一種の自分探しの旅である。
そうこうしているうちにもう一月半ばというわけだ。締切は近い。
今度こそ追い込みをかけるぞと兜の緒を締めた私だったが、今度は洗濯機が突然動かなくなった。確かに購入したのは十年以上前。そろそろ寿命ではある……とはいえ、できれば事前にもうちょっと「そろそろ限界ですよ」的な兆しを見せてくれても良かったのではないか。
愚痴を言っても仕方がない。新しい洗濯機が届くまでは、桃太郎の冒頭よろしく「お母さんは風呂場へ洗濯(手洗い)にいきました」のスタイルで乗り切ることになる。
現代人の可処分時間は限られている。既にコンテストに割ける時間はもう僅かだ。さあどうなる私、どうする私。
朝、そんな風に頭の中でテトリスのようにタスクを組み合わせながら郵便受けを覗くと、朝日を受けてきらりと輝く剃刀が入っていた。
――ああ、トラブルはトラブルを呼ぶ。
その極め付けがこれというわけだ。
私は遅い朝ごはんにしようとトーストとゆで卵を持ってダイニングテーブルにたどり着いたところで疲れてしまった。おもむろに肘をつき、文字通り頭を抱える。
目の前には剃刀。惚れ惚れするほど鋭利な剃刀。
今日ほど夫がここにいない事を恨めしく思った事はない。ねえあなたどうして行ってしまったの。可愛い妻と育ち盛りの子供を置いて。
剃刀を見た時に脳裏によぎったことがある。
奇しくもその日は、人気アイドルが握手会で襲撃されたニュースを見たばかりだった。その凶器が剃刀だと報道されていたのだ。剃刀は時に道具という領分を超え、ただ悪意を具現化した存在になる。
こんなことを理論主義者(またの名を『若い頃の夫』とも言う)に聞かれたら「物事を考える時に余計な情報を仮定するべきではない」なんて――これは『オッカムの剃刀』という定説らしい。剃刀だけに、ってやかましいな――説かれそうだ。けれど、ニュースを知ってしまったからには剃刀と悪意を結びつけるなと言う方が無理な話だと思う。
ため息をついた私の足元に、飼い犬のアレックスがじゃれついてきた。悪戯盛りのヨークシャーテリアである。スリッパがよだれまみれになっているが、これでも彼なりに私を元気づけようとしてくれているのだ。気持ちはありがたいけれど、今は静かに考え事をさせてほしいのでおやつのホネホネ棒でしばらく黙ってもらう。
問題は、えっと、そう剃刀だ。
今ある材料を適切に使って理論を組み立てよう。うちのポストに剃刀。アイドルの握手会に剃刀。この二つの方程式から導かれるのは……なるほど、私がアイドルであるということだ。
アイドルと聞くと、絢爛な衣装を身にまとい歌ったり踊ったり、あなただけに笑いかけたのだと思わせるようなテクニックを駆使して観客の情緒を上下左右に揺さぶる、あの罪作りな職業を思い浮かべる。しかし本来の言葉通りに理解するならば、アイドルとは“偶像”なのである。
愛なのか憎しみなのか、または罪か救いか、他者が私を介して何かを見た時点で私は偶像となる。ブレーメンの音楽隊の影は窓越しに巨大な怪物になったが、私の背後の影が何になったのか私にはわからない。つまり私自身が気が付きもしないうちに誰かの信仰の対象にされている可能性はあるのだ。だとしたら、私もアイドルだと名乗って差し支えないだろう。
そこまで考えたところで、私のふくらはぎをアレックスの鼻先が優しく掻いた。優しい子だ。おやつをあげようね。
さて、つまり、だから……そう、信仰だ。
信じる、というのは社会的な振る舞いに見えてその実、かなり利己的な行いだ。
人間は誰だって多面的なものだ。私だって、家族に見せている顔と友人に見せる顔は決して重ならない。そのどれか一つを見てその人物を評することなんてできるわけないのに、「信じる」という行為はその一面に、己の判断を全ベットしているのだ。そういう意味では、生まれながらのギャンブラーである。
私に限って言えば、自分にもわからない部分が多すぎる。私は人から「あなたは優しい人ね」と言われても、自分の中のどこを探そうが優しさを示すパーツは見つからない。窓から射す光は家の中の全てを照らすわけではないように、自分からは影になって見えない部分があるに違いない。
もし「いつも優しい貴女の言うことだから」という根拠でもって私の与太話を信じる人が居るとしたら、それは私の責任では負いきれない。その人が勝手に私を信じただけなんです、と言って逃げ出すだろう。なるほど詐欺ってそういうことなのかもしれない。
私自身でも見えていない部分に何かを見、あまつさえ信じると宣言されるようなことになれば、それはもはやその対象は私でもないのではないか。では何かとなると……神、だろうか。
アレックスがくぅん、と可愛らしい声を私を呼んだ。ふと見るとお気に入りの船のおもちゃを咥えている。船とは言ったが、長らくお気に入りだったので遊び過ぎて原型を留めてはいない。新品の頃は中央を押し込むとピィと鳴ったのだが、その音も久しく聞いていない。けれどアレックスの尻尾はちぎれんばかりに揺れていた。彼の魂胆は分かっている。おもちゃを持って来てやったからおやつをもう一つくれと言っているのだ。仕方がない子だね。
それで、何だったかというと……そう、神だ。
神はいつ生まれるんだろう。最初から神として生まれるわけではないような気がする。
例えば、誰かが私(に何を見たかはさておき)を信じたとして、それが一人から二人、十人、百人千人と増えたとして、それでも私は神ではない。私が人間である限り、神ではない。
それなら、多くの人に信仰された私という肉体が失われた時、代わりに神が生まれるのかもしれない。それはありえそうだ。私の優しさを信じた誰かが神を作るというのはなかなか愉快だ。やさ神と名付けよう。
だとすると、私は死ぬまでこの「優しさ」とやらを大切に持ち続けるべきだろう。と、ここで困ってしまう。私は私の何が優しさを形作っているのか分からないのだ。
用いる言葉だろうか? 表情だろうか? もしやこのモヤシ体型だろうか?
私が何かの事故で声を失った時、私は優しくなくなるのだろうか。いや、言葉ではない気がする。
盲目の人は私を冷酷だと思うだろうか。急に体重が百キロを超えたら優しくなくなるだろうか。
私のパーツを一つづつ交換してみたが、何を取っても私が私でなくなる決め手にはならない。このアレックスのおもちゃが船の形でなくなってもアレックスのお気に入りであり続けるのと同じで――つまり『テセウスの船』ということか。船だけに、ってやかましいな――私は私である限りその性質が変わるようには思わない。
いや私はこんなことを考えていたんじゃかったはずだ。私の空想はしばしば制御不能に自由に飛び回り、山を越え空を駆ける。
アレックスがまたおやつをねだっている。いや、もしかして私のトーストとゆで卵を狙っているのか?
だから……この剃刀は私を神にたらしめるための存在で……窓の外から覗いた私は卵を運ぶ船で……。
ああ、なんだかアレックスに邪魔されるたびに思考の糸が絡まってしまう気がする。まるで条件反射――『パブロフの犬』とも言う。犬だけに、ってやかましいな――。
その時、テーブルの上でスマホが振動を始めた。電話だ。
頭の中の宇宙を泳いでいた意識が現実に戻る。
スマホを手に取ると、画面に出ている名を見て私はハッと息を呑んだ。見間違えようもない。夫の名前だった。
どうして夫の名前が?
私は震える手で、スマホを耳に当てた。
「……もしもし?」
「ああ、もしもし。久しぶり」
その声が予想よりもずっと穏やかなものであったことで、私の心臓は次第に落ち着きを取り戻していた。
「何かあったの?」
「いや、それがさ。こっちの生活が落ち着いてきたと思ったら髭剃りが壊れちゃってさ。慌ててネットで剃刀注文したら間違えてそっちの住所に送っちゃったみたいで」
「あぁ……」
手元に目を落とす。剃刀は「そうなんですよ」とでも言いたげに静かに私を見ている。
夫が遠方の地方都市で単身赴任を始めてから数ヶ月。出発する日には「緊急事態でもないと電話はしないから」なんてシャイな性格という説明ではフォローしきれない冷淡な宣言をしていたのに。それを信じ切っていたせいで、私はさっき心臓が止まるかと思ったのに。
最初の通話がこんな内容だと誰が想像したのか。
「届いてるよ、こっちに」
出所が分かってしまえば、プラケースに整然と並ぶ剃刀は美しくすらあった。カーテンの隙間から漏れる日の光を鋭く打ち返し私を切り付ける。
「あーやっぱり。てか俺、前から思ってたんだけどさあ、なんかトラブルってトラブルを呼ぶよな」
そうね、という私の返事も待たずに、夫は電話の向こうで豪快に笑い、挨拶もそこそこに一方的に通話を切った。
無意識のうちにため息が出た。
――私は、今後は夫の言葉を信じないことに決めた。
オッカムの剃刀 佐久村志央 @shio_ok
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