婚約者に冷遇された令嬢、妹の身代わりに嫁いだら辺境伯に溺愛されました

冬月子

第1話名ばかりの婚約者

王都で開かれた夜会は、まばゆい光で満ちあふれていた。

大理石の床にはシャンデリアの光がきらめき、色とりどりのドレスをまとった令嬢たちが優雅に舞う。貴族の子息たちは笑みを浮かべながら彼女らの手を取り、ピアノとヴァイオリンの旋律が会場を包みこむ。弦の音に笑い声が重なり合うたびに、広間の空気はいっそう甘く、熱を帯びていった。


その中央に立つのは、侯爵家の嫡男――エリック・ウィリアム。

金色に輝く髪が柔らかく額にかかり、澄んだ青い瞳が軽やかに微笑む。

その端正で甘い顔立ちは、見つめられただけで胸の奥がざわめき、思わず息を詰めてしまうほど。その形のいい唇や仕草に、多くの令嬢が頬を赤らめ、夢見るように視線を注いだ。

剣術にも学問にも秀でた才子として名を馳せつつ、人々の羨望を集める存在だった。


――そして、私の婚約者(すきなひと)。


ソフィア・リヒターは、声に出すことなく、胸の奥深くで静かに呟いた。

丁寧に結い上げられた柔らかな栗色の髪に、同じ色を湛えた落ち着いた瞳。整った顔立ちを持ちながらも、華やかさに欠け、どこか「ぱっとしない」と評される容姿。身に纏うのは、いつも慎ましい色合いのドレス。


言葉遣いは正しく、所作も完璧であり、家格や教養は侯爵家に嫁ぐふさわしい淑女だったが、

「真面目すぎる」「地味」「愛想がない」

そんな陰口が、いつも彼女につきまとっていた。


今も、遠慮なく向けられる不躾な視線が、ソフィアの心をえぐる。


「ねえ、御覧になって。相変わらず地味よね、彼女」


「本当だわ……エリック様には不釣り合いよ」


――わかっている。耳に入れたくなくても、聞こえてしまう。


ソフィアは必死に微笑みを保とうとするが、その微笑は、どこか硬く、ぎこちない。笑っているのか、それとも緊張で歪んでいるのか、本人にもわからないほどだった。

エリックは、そんな彼女をじっと見据え、静かに言葉を落とす。その声は温度はなく、棘のように肌を刺した。


「ソフィア、笑顔が固いよ。もっと愛想良く振る舞ってくれ」


ソフィアは小さく息をのむ。彼の青い瞳は氷のように冷たく、婚約者だというのに優しさのかけらもなかった。

ソフィアはこわばった唇を押し上げ、なんとか笑みの形を整えた。


「……はい。気をつけます」


ソフィアの声は、かすかに震えていた。

そのとき――。


「エリック様!」


弾む声とともに、小柄で愛らしい少女が二人の間に駆け寄ってきた。

ソフィアの妹、シャーロットだった。

ピンクのドレスには小花が散りばめられ、明るい金髪の髪を巻いて飾ったその姿は、まさに春の花そのもの。青空のように透き通った瞳はきらきらと輝き、頬は淡く薔薇色に染まる。会場の視線が一斉に彼女に注がれ、その可憐さに思わず息をのむ者もいた。

屈託のない笑顔を浮かべ、シャーロットは迷いなく、まっすぐにエリックのもとへ駆け寄る。


「まあ、シャーロット……」


貴族令嬢が走るなんて行儀が悪いと、ソフィアがたしなめようとするより早く、エリックが先に口を開いた。


「おや、シャーリー。今夜もよくドレスが似合ってるよ」


穏やかな声に、叱責の色はなかった。シャーロットの弾む声や無邪気な姿を、受け止めるかのように柔らかな微笑みだった。


ソフィアは思わず息を飲む。

彼が見せたその笑顔を、ソフィアは最近見ていなかった。


(――どうして、わたしには……。)


胸の奥で、小さな嫉妬と羨望が混ざり合い、じわりと熱を帯びるのを感じた。


「ふふっ、ありがとうございます!  エリック様こそ、誰よりも輝いていらっしゃいますわ」


シャーロットが楽しげにそう答えると、エリックはさらに目を細めて見つめ返した。


「ありがとう、シャーロット。相変わらず嬉しいことを言ってくれるね。……ソフィアも、シャーロットのこういう可愛らしさを見習ったらどうだい」


軽く笑いながら放たれた言葉に、喉が詰まってすぐさま返事が出来なかった。けれど、必死に作り笑いを浮かべて相槌を打つ。


「……っはい、そう……ですね」


絞り出すような声だった。けれど彼は気づいていない。エリックの瞳は、今も妹の方へ向けられているのだから。

やがて、広間のあちこちから、ひそやかな声が上がる。


「ほう。なんて美しい二人なのでしょう。まるで絵画から抜け出してきたようだわ」


「やっぱり、エリック様にはシャーロット嬢の方がお似合いね」


くすくす。忍び笑いが、彼女の耳に鋭く突き刺さる。

ソフィアは俯き、手の中のグラスを強く握りしめた。


確かに、誰の目にも二人は理想的な美男美女で、並んだ姿はまるで絵画の一場面のようだった。


片や、わたしと言えば……。

地味で華やかさに欠け、取り立てて人目を惹く容姿でもない。礼法や学問なら得意だと胸を張れるけれど、それだけ。


エリックの隣で微笑むシャーロットのように、ただ立っているだけで光を放つ存在では決してなかった。

シャーロットが笑えば、エリック様も自然と笑みを返す。二人の間には言葉にしなくても通じ合うような温かさがあり、見ている者に羨望を抱かせる輝きがあった。


その光景に、ソフィアの胸を冷たく締めつける。

まるで最初から決められていた組み合わせであるかのように、二人はお似合いだった。


(……もし、このままわたしを捨てて、エリック様がシャーロットを選んでしまうことがあれば……?)


その可能性が脳裏を過ぎた瞬間、全身が震えた。

愛らしい妹と並ぶ彼の姿は、あまりに自然で、あまりに眩しくて――自分がそこに入り込む余地などないように思えた。


胸の奥で恐怖がざわめく。

それでも、幼い日に初めて彼が向けてくれた笑顔と、あの澄んだ碧眼に映った自分を忘れることができない。

一度でいい。あのときのように、もう一度だけでも、自分を見てほしい――。


彼の隣に立ち続ければ、いつかこの思いは報われるのだろうか。

努力すれば、彼の視線を振り向かせることができるのだろうか。


けれども、答えは見えなかった。


***


舞踏会が終わり、屋敷へと戻る馬車の中。

ソフィアは窓の外に視線を注いでいた。


王都の空に浮かぶ星はほんのひと握りだった。冷たい光は瞬いているのに、どこか遠く、手を伸ばしても決して届かないように思えた。


「エリック様……」


胸の奥で名を呼んだその声は、唇からこぼれることなく、喉の奥で掠れて消える。


「ああ、今夜も本当に素晴らしかったわ、ふふっ」


隣りに座る妹シャーロットは、軽やかに鼻歌を口ずさんでいた。

今夜、彼女はエリックと幾度も踊り、幸せそうに頬を染めていた。婚約者でもない女性と二度以上踊るのは礼を欠くという暗黙の掟さえ、シャーロットの「お願い」という一言の前では意味をなさなかった。

エリックも嫌そうな顔ひとつ見せず、シャーロットの可愛いお願いに微笑んで彼女の手を取った。

その後も、舞踏会の間じゅう、シャーロットの周囲には令息たちが絶えなかった。差し伸べられる手、注がれる熱を帯びた視線。彼女は微笑むだけで人の心を惹きつける。


努力しなくても愛される、シャーロットーー。

その眩しさを、ソフィアは羨むことすらできなかった。


胸の奥に押し寄せる寂しさを、彼女は必死に抑え込む。

自分は伯爵家の長女。侯爵家の嫡男の婚約者。


(愛されなくても、……せめてその立場にふさわしくあろう。)


そう言い聞かせなければ、心が折れてしまいそうだった。

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