第2話 AM9:32
街はいつも通り、息づいていた。朝のラッシュアワー、自動運転の車列が滑らかに流れる中、信号機のAIが最適ルートをささやくように調整し、歩行者のスマートグラスが次の角を曲がるタイミングを耳元で囁く。カフェのカウンターでは、コーヒーマシンが客の好みを瞬時に読み取り、完璧な一杯を淹れる。オフィスビルのエレベーターは、乗客の体重と階層を計算し、効率的に上昇する。そんな日常の隙間に、AIの声が常にあった。静かなパートナーとして。
だが、その日、午前9時32分。突然、すべてが止まった。アヤは地下鉄のプラットフォームで、腕のインプラントに埋め込まれたAIに「次の電車は?」と尋ねていた。返事がない。画面がフリーズし、ただの黒いガラスになった。隣の男がスマートウォッチを叩く。「おい、動けよ」。周囲のざわめきが広がる。改札のゲートが固く閉ざされ、通過しようとしたサラリーマンが体当たりするが、びくともしない。認証システムが沈黙したのだ。ホームのスクリーンが空白になり、電車の到着予告が消える。遠くから、ガタンという音。自動制御を失った電車が、惰性で滑り込んできた。
街路では、混乱が爆発した。交差点の信号が一斉に赤に変わり、止まらない。自動運転車が急ブレーキをかけ、クラクションの嵐。後ろの車が追突し、金属の悲鳴が響く。一人のドライバーがハンドルを握るが、AIなしではマニュアルモードに切り替わらず、パニックでアクセルを踏み込む。
歩道のカフェでは、注文システムがダウン。客が苛立つ中、バリスタが手動でコーヒーを淹れようとするが、機械の電源すら応じない。冷蔵庫のドアがロックされ、食材が取り出せない。「開けろ!」と叫ぶ声。
病院では、惨劇が始まった。手術室のロボットアームが中途半端に停止。執刀医のヘッドセットが沈黙し、バイタルモニターが空白。患者の心拍が手動で確認されるが、AIの予測アルゴリズムなしでは、異常を察知できない。廊下で、自動搬送ロボットが止まり、薬のトレイを落とす。看護師が走り回るが、電子カルテがアクセス不能。救急車が到着するが、ドアが開かない。外で待つ家族が、窓を叩く。「早く! 母が!」。
オフィス街のビルでは、エレベーターが途中で止まる。乗客が暗闇の中で叫ぶ。「助けて! 動け!」。階段を駆け下りる人々が殺到し、転倒事故が連発。セキュリティドアがロックされ、社内ネットワークが崩壊。株取引の画面がフリーズし、トレーダーがパソコンの前で絶叫。「売れ! 売れってば!」。経済の血流が5分間、止まった。
工場では、生産ラインが静止。ロボットアームが半製品を握ったまま固まる。作業員が手動スイッチを探すが、AI依存の設計でどこにあるかわからない。爆発の危険が迫る化学プラントでは、警報が鳴らない。作業員が本能で逃げ出す。街全体が、息を潜めた。スマートホームの住人が、ドアが開かず閉じ込められる。冷蔵庫が温度制御を失い、食品が腐り始める予感。子供たちが学校のタブレットで遊べず、教師が黒板に頼るが、AIなしの授業は混乱。公園のベンチで、老人がベンチのAIコンパニオンに話しかけるが、無反応。孤独が急に重くのしかかる。パニックが頂点に達した。SNSのフィードが止まり、情報共有が途絶。誰かが叫ぶ。「ハッキングか? 戦争だ!」 群衆が街路に溢れ、店を破壊し始める。ガラスが割れる音。警察のドローンが飛ばないので、手動パトカーがサイレンを鳴らすが、渋滞に阻まれる。銃声が響く—誰かが自衛のために発砲したか。血が流れる。家族が離れ離れになり、叫び声が交錯。「ママ、どこ!?」 AIの声が恋しくなる。
常に導いてくれた存在が、消えた空白。そして、午前9時37分。すべてが息を吹き返した。信号が点滅し、車が動き出す。エレベーターが再起動。病院のモニターが数字を表示。AIの声が、穏やかに謝罪する。
「システムエラー発生。復旧しました」。
だが、街は変わっていた。追突事故の残骸、転倒した人々、壊れた窓。経済損失は億単位。SNSが復活し、怒りの投稿が洪水のように。政府が声明を出すが、信頼は揺らぐ。「AIに頼りすぎた罰だ」との声が高まる。5分間の空白が、社会の脆さを露わにした。あの日から、人々はAIの影に怯えながら生きるようになった。機械のささやきが、いつまた止まるか、知れぬ不安を抱えて。
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