第10話 工事現場の幽霊
その夜も、早太子さんは買い物に出ていて、僕と好海さんは二人だけで話していた。
「私は、合宿所から二人に助け出してもらったけれど、櫂さんも早太子さんに助けられたことはある?」
「あるよ。出会ってすぐの時に、実はストーカーの女子に付き纏われたことがあって。」
好海さんに早太子さんの話ができる日が来たことが嬉しくて、僕は饒舌になった。
「最後には包丁を持って玄関前に立ってたんだ」と、僕はその時のことを思い出して、改めてゾッとした。
「早太子さんが居なかったらどうなっていたか分からない」と独り言のような言い方になってしまった。
「その時に、早太子さんが幽霊の姿を見せて、澄玲さんを失神させて、彼女の中の念を吹き飛ばしてくれたんだ。」
僕は好海さんが「良かったね」と言ってくれると思ったのだ。
けれどもそうはならなかった。その話を聞いた時、好海さんはしばらく無言だった。
そして「その女の人は、今はどうしているの?」と言った時の好海さんの表情は、忘れられないものになった。
まるで病気の母親のお見舞いに来た子供のような顔だった。不安で、真剣で、どこかに強さを秘めた人の顔だった。
「櫂さんの幸せの為に、早太子さんが悪い心を吹き飛ばしたとして、その澄玲さんという女の人は、今は幸せになってるのかな?」
僕には、好海さんの言っていることが少し分かった。これまでも自分自身、そのことを考えたことがあったから。それでも、好海さんの真意を聞きたいと思った。
「どうして、そう思うの?」と僕は訊ねた。
「だって、櫂さんの幸せの為に、他の人が不幸のドン底に落ちて良い理由はないでしょう? それにそんな幸せじゃ、ダメだと思う。別に櫂さんだけの話じゃなくて、誰だってそうでしょう? 自分が良い生活をする為に、人を不幸にしていたら、そんなのは幸せはダメでしょ?」
僕は後ろから突き飛ばされたようなショックを受けた。ずっと気になっていたことではあったけれど、僕の懸念の輪郭はボンヤリとしていて、ようやく今、その意味が見えてきた気がしたのだ。
自己中なのは女の人じゃなくて、僕の方じゃないか。
そうだったのだ。早太子さんは、間違いなく僕の幸福の為だけに存在している。だから、そのためのシワ寄せが、他の人の人生に向かっても、その部分は早太子さんのアンテナには引っかからないだろう。早太子さんがそんなことを気にすることはない。そういう意味で、早太子さんは自己中な存在だった。僕の幸福を強く願った翠さんも同じだ。そしてその意思を全身に受けて、嬉しく思うだけで、きちんと不審な点に向き合わなかった僕も。
いや、翠さんと早太子さんの場合は、仕方がないと言うべきだ。
翠さんが死ぬ間際の一瞬の念が、この世に残って、早太子さんとなったのだから。
だからあとは、生きている僕が、周りを丁寧に見回して、きちんと考えて、調整しなければいけなかったのだ。幸福が僕だけに偏るのを防がなければいけなかったのだ。
僕は考え込んでしまった。
「どうしたの?」
「ありがとう。好海さんの言ってくれたこと、僕は微かに気にしてはいたんだけれど、でもちゃんと考えてこなかったんだ。」
僕は自分が今考えたことを好海さんに話した。
「今までどんなことがあったの? 早太子さん、櫂さんの為にどんな風に頑張ってくれたの?」
好海さんの質問は僕の心を穏やかに包み込んでくれた。
僕は、好海さんに助けてもらって、今こそ自分を振り返らなければいけない。
僕は、澄玲さんのこと、寧音さんを怖がらせた男こと、合宿所の二人の悪党、八井田さんを苦しめたごま塩頭の巡査のことも一緒に説明した。
好海さんの言う通り、僕の幸福の為に早太子さんが念を吹き飛ばした澄玲さんは、その後、新しい希望を手に入れているのかどうか、心配だった。
寧音さんに付き纏った男は、反省してまともに生きるようになっただろうか。
合宿所の二人の悪党も、下半身にダメージを受けて、その後、改心出来たのか。真っ直ぐに生きる道を見つけることが出来ただろうか。
ごま塩頭の巡査は、懲戒免職になった。家族があっただろうに、その人たちは皆どうなってしまったか。本人は、その後前向きに生活出来ているのだろうか?
みんな、僕の幸福の陰で、踏み台にされてはいないだろうか?
こうして好海さんと向き合っていると、僕は自分の幸せの裏側に、暗い部分がたくさん残されていて、それがシクシクと痛むのだった。
その部分と向き合わずに放置して、このまま歩いてゆくことは出来ない。
「ね、この話、みんなでした方が良いよ。」と好海さんは言った。
「早太子さんは早太子さんの仕事をしただけ。だから何も悪くない。でも、私たちは、生きているから、人のことも考えられるようにならないといけない。でしょ?」
「その通りだと思う。そう、みんなで話して、アドバイスをもらった方が良いかもしれないね。藍田さんにも来てもらって、今度、ご飯食べながら話そうか。」
「うん、そうしよ!」
その日の夜、藍田さんに連絡をした。
折り返し、ファミレスから電話があった。
「相談、て何でしょうか。どんなことでも、サディスト藍田にご用命ください。」
いつも通りの藍田さんは、サプリメントのように僕を元気づけてくれた。
僕は、澄玲さん以来の早太子さんとのことを藍田さんに話した。
早太子さんのファン第一号を自称する藍田さんには、いつか話してあげたいと思っていた話だ。藍田さんは目を潤ませながら聞いてくれた。
「凄いです。櫂さんと早太子様との出会いのエピソードのような超レアな事実が知ることが出来て、こんなに幸せなことはありません。ちなみに、この話は、他に知っている人はいますか?」
震える声でそう聞かれた時には、しまったと思った。まず誰よりも藍田さんに最初に話してあげなければいけなかった。
「もちろん、まだ誰も知らない話です。」
好海さんに協力してもらって、話を合わせておかないといけない。
「そうですか。信頼をして頂いて、光栄です。」
ごめんなさい、藍田さん。
「分かりました。今週の木曜日が非番の日なので、櫂さんのお仕事が終わった頃にお伺いしてよろしいですか?」
「お待ちしています。早太子さん、いいよね?」
「藍田さん、お待ちしています。いつもいつも、難しい相談ばかりで、ごめんなさい。」
「早太子様、そんな風に仰らないでください。早太子様の為に最善を尽くす、これが私の幸福の糧なんですから。」
というわけで、藍田さんは木曜日の夜、アパートに来てくれた。好海さんは勉強があるということで、この日は欠席だった。
藍田さんはケーキの手土産を持って現れた。自分と僕とで食べる分だ。早太子様には、ネイルシールを各種買ってきてくれた。
「早太子様、皆さんからのリスペクトを獲得する為には、これからの幽霊は美しくあらねばなりません。手始めに、ネイルを飾りましょう。使い方は後ほど伝授して差し上げます。よろしいですか?」
「陽子さん、私は皆さんに正体を知られてはいけないんですよ。公安とのトラブル以降は特に。それに、ネイルシールは使ったことがありますよ。キャバ嬢に扮したときがあって。」
「はい。その件についてはワタクシも熟知しております。当事者なので。でも、私の夢は、サディストという名のファンクラブが将来設立されて、私がその初代のしきりになることなんです。私が早太子様をコーディネートして差し上げたいんです。」
両手を胸の前で合わせながら天井に向かって言う藍田さんを見ていると、もうどんな反論も出来なくなる。早太子さんもニコニコしながら黙ってしまった。
「まあ、頂いたケーキを食べながら相談を聞いてもらいましょう」と僕は言った。
「はい、喜んで。」
居酒屋の店員さんのように元気よく言うと、藍田さんは勝手知ったるキッチンに立って、お皿とフォーク、それに冷蔵庫から麦茶を出してきた。それからは食べながら飲みながらの話になった。
「櫂さんと好海さんは、早太子様に撃退された方々のことを心配されているのですね。」
「その人たちが今どうしているのか、その様子さえ分かれば、まずは良いかなと思っています。でも、もし、荒んだ生活になっていたら、そのままにしていて良いのか、っていう問題も出てきますよね。何かが出来るものか、どうか、よく分からないですけれど。」
「そうですよね。確かに自分たちの幸せが他人の不幸を踏み台にしている、なんていうのは、あまり気持ちの良いものではありませんね。」
「早太子さんがどう考えているか、僕はまだ聞いてなかったけれど、どう思う? これは僕たちの、持てる者の勝手な思いなのかな。」
「早太子様は、念の方ですから、邪念に取り憑かれた人のことは、あまりお考えになっていないのではないかと想像しますが。」
早太子さんは少し考えてから言った。
「私は、櫂さんの幸福の実現というところに照準が当たっている存在です。その他の人については、櫂さんの幸福との関わりでしか関心がありません。」
「ですよね。早太子様はそれで良いのだと思います。しっかりしなければいけないのは、櫂さんたちがおっしゃるように、人間社会に生きている私たち人間なのだと思います。櫂さん好海さん、お二人の考え方は正しいように思います。」
藍田さんは頷きながら僕に向かって言った。
「さてと、そうなるとまずは・・・それぞれ、一人一人の現状を知らなければなりませんね。澄玲さんという方は、会社を辞められたのですね?」
「この間、会社に確認をしたのですが、僕とのことがあった直後のタイミングで、一身上の都合ということで自主退職したそうです。今何をしているかは会社も知らないそうです。」
「ですよね。住所は分かりますか?」
「住所は知らないんですけれど、携帯の番号は、もらったのをそのまま持っています。」
「それをお借り出来れば。住所は私が調べます。」
僕は押し入れの中の引き出しから、一筆箋に番号の書かれた紙を見つけてきて藍田さんに渡した。何となく捨てられなくて取っておいたのが幸いした。
「小さな、綺麗な文字ですね。この方、どこで道を間違えてしまったのでしょう。とても自分を人に押し付けるような方が書いた文字のようには見えませんね。」
「僕もそう思います。だから初めのうちに油断してしまいました。まさかあんな風になるとは思わなかった。」
「あとは、寧音さんにつきまとった男ですが、何か手がかりはありますか?」
「好海さんを通じて、もしかしてスマホの番号が残っていないか聞いてもらったんですけれど、すぐに削除してしまったということでした。」
「そりゃそうですよねぇ。汚らわしい、嫌な思い出でしょうから。」
「その人なら、私は会っていますので、駅で見つけて後を付けることが出来ます」と早太子さんが言った。
「早太子様のお手を煩わせてしまうのは、ワタクシは本望ではないのですが、手がかりがない場合は、お願いしなければならないかも知れません。」
「大丈夫ですよ。私は幽霊なので、まったく負担に感じませんから。」
そう言って早太子さんは怪しく笑って見せた。早太子さんはそれだけの仕草でも、結構迫力があるのだ。
「ああ! 心強いお言葉です。もー、ラブです! 早太子様!」
その怪しい微笑まで、藍田さんにとっては栄養剤らしい。サディスト陽子全開になってしまった。両目から星がキラキラとこぼれ落ちそうだ。
「合宿所の二人の悪党と塚越巡査は警察の
やっぱり藍田さんに相談して良かった。
澄玲さんは
狭い小さな世界で生きていた人だ。小心で、人付き合いが下手で、あの文字のような純粋な子供のような心を持った人だったのかも知れない。
日曜日、藍田さんが調べてくれた住所に、テニススクールをお休みして僕と好海さんは変装して出かけた。
藍田さんから僕は冴えない大学生のようなボサボサしたカツラと黒縁メガネを借りた。何かのオタクに見えたので、中学生の頃に使っていたボロボロで見栄えのしないリュックを背負ってみた。ピッタリだった。
好海さんはウェーブの掛かった触覚のある茶髪のカツラと丸眼鏡。こちらはどう見てもアニメオタクだった。
二人でお互いを見合って大笑いしてしまった。
藍田さんに言わせれば、人間は、対象が何かの概念にすっぽりと嵌まってしまうと、もうそれ以降はあまり注意を払わなくなるそうだ。
「時盛櫂と全く接点のない概念の中に隠れるんです」と藍田さんは言った。
澄玲さんは、一時は時盛櫂に夢中になった人だ。その視線からうまく隠れられるか、僕は少し心配だったけれど、藍田さんの用意してくれたグッズを身につけて鏡を見ると、自分とは思えなくてホッとした。
藍田さんは自分が澄玲さんのスケジュールを調べましょうかと言ってくれたが、藍田さんにも仕事があるし、これは僕たちの問題だからと言ってお断りした。
朝から澄玲さんのアパートの前をウロウロと何度も行き来した。二階の澄玲さんの部屋のベランダ側の雨戸が開いたのは七時だった。ベランダに澄玲さんが出てきて、洗濯物を干し始めた。
八時になるとトートバッグを肩に下げて澄玲さんが出てきた。僕たちはその後を付けた。
澄玲さんは十分ほど歩いてから、駅にほど近いデイサービスの看板のあるビルに入っていった。どうやら福祉関係の仕事をしているらしい。
仕事の中身も、生活の質も、何も分からなかったけれど、澄玲さんがご老人の為の仕事をしているということが分かって僕は嬉しかった。好海さんも同じ感触だったから、僕たちは満足して帰ってきた。
藍田さんは合宿所の二人の悪党についても調べてくれた。彼らに復讐した女性は自死だったが、その背景には二人の乱暴があったから、彼らに対する求刑は懲役五年だった。二人とも全く争う姿勢がなく、一審判決をそのまま受け容れる方向で審理中だった。
刑務所内では二人とも車椅子の利用を希望していた。おそらく認められるだろうというのが検察側の予測だった。二人とも模範囚となって、職業訓練を真面目に受けるという強い意志を語っていた。一人はパソコンを使った事務仕事の学習を希望していた。もう一人は大型一種の運転免許を取って、トラック野郎になりたいと語っていた。
出所後の道が険しくなるのは当然のこととして予想されるが、「あの二人なら、支援制度を活用して何とでもやっていけそうだな。これまではずいぶんヤンチャな生き方をしてきたみたいだが、その昔の姿からは全然想像出来ない、全くの別人になってるよ。裁判中も、亡くなった女性の供養のことを二人とも頻りに気にしてるって、付いている両方の弁護士が口をそろえて言ってたよ」というのが、藍田さんが話を聞いた刑事の言葉だった。
病院にも江沢京子さんの幽霊が追いかけてゆくだろうと早太子さんは言っていた。そこで何があったかは分からないけれど、二人が心を入れ替えざるを得ない、何かがあったのだろう。きっと江沢京子さんは浄化されたに違いない。
それからもう一人、塚越巡査については、失職後、奥さんとは離婚をしていて、本人は警察関係者が経営する警備会社に拾ってもらい、真面目に勤務をしているそうだ。子供が二人あったが、一ヶ月に一回面会出来るようにしてもらっているそうだ。警察勤務をしている間はあまり子供たちの面倒を見てこなかったこともあって、現状では子供たちと過ごす時間が唯一の楽しみになっているそうだ。
皆、早太子さんの薬が良く効いたということだろうか。
しかし、一人だけ心配な男がいた。高塚寧音さんに付き纏った男だ。
早太子さんが駅に張り込んで、すぐに見つけて住所も特定した。その日、帰ってきた早太子さんは眉根を険しくしながら「嫌な臭いを感じました」と言った。
となると好海さんを危険に近づけるのは得策ではない。
僕と早太子さんとでこの後は対応しようということになった。
男のアパートの表札は「今野」とあった。
藍田さんに調べてもらうと
早太子さんが、今野は近いうちに必ず動くと言うので、僕は溜まっていた有給休暇を四日間連続で取得した。
夜の七時頃、早太子さんが駅の改札を見張り、僕が彼の家路の途中に立った。
四日目、男は家とは反対の方角に歩き始めた。早太子さんから「逆方向に歩き始めました」と声が届き、僕はすぐに走った。アドレナリンがドクドクと湧き出てきて心臓が高鳴った。早太子さんに追いつくと、今野がその前を歩いている。さらにその前にOLらしい女性の後ろ姿が見えた。今野がロックオンした女性か。長い髪、ノースリーブの服から見えるの白い肩、引き締まったウェストと腰の丸み、「女性」という抽象的な記号がバッチリ揃っている。
早太子さんの隣に並びながら、「どうしたらいい?」と聞いた。
「おそらく今日はあの女性の家までの経路を確認するだけでしょう。その上で、いつどのタイミングでどんな風に動くかを計算するはずです。」
「まだ監視を続けないといけないね。」
「櫂さん、私はここで別行動にします。以前、今野の前に立ったことがあるので、まあ顔を見られたというのとは違いますが、変に勘の良い男だったらいけませんから、念のために隠れます。よろしいですか?」
「分かった。ルートの様子をよく見ておくよ。」
早太子さんはすぐに消えた。僕は一人で今野の後を付けた。十分も歩くと女性は小さなマンションのエントランスに消えた。スマホでオートロックを解錠しているように見えた。
今野は、玄関付近を見回してから立ち去った。今野をやり過ごして見送った後、僕も同じように玄関の様子を観察した。
天井に監視カメラが付いている。エントランスの自動ドアを入ったところ、共有部分へ入る扉の手前にタッチパネルが設置してある。同じ空間に宅配ボックスとメールボックスが並んでいる。小さいがセキュリティのしっかりしたマンションのようだった。
マンションから駅までの道を引き返しながら、周囲の環境を写真に撮って記憶した。樹木の茂った公園といった、夜に危険が潜むような場所は見当たらなかった。一カ所、工事現場があった。ビルの建築現場なのか、囲いに覆われていて中が見えない。道路の反対側の隅に立って、緑溢れる街並みが描かれた囲いの写真を撮っていたら、通用口から今野が出てきた。ギクッとしてスマホを見るフリをしながら駅から離れる方向に歩き始めた。振り返ってみたが、特に見咎められたという様子はなかった。
「ここを使う気か?」と独り言を言ったら、「そのようですね」と隣に早太子さんが現れて僕は飛び上がった。今日はやけにドキドキする場面が多い。
「ビックリした。脅かさないでよ。」
「明日、同じ時間に櫂さんは駅で待っていてください。私はこの建築現場の中に隠れます。」
「そこでとっちめてやるんだ?」
「今回は女性に危険が及ばないように、充分に気をつけなければいけませんから、何が出来るか、現場を見て予習をしたいと思います。」
「真面目な高校生か」と言って僕は笑った。
「何か準備するものはある?」
「また、撮影用のビデオカメラをお願いします。証拠映像が必要になるケースも考えなければいけないでしょう。」
そう言ったときの早太子さんの内心の懸念に、僕は気付くことはなかった。
「了解です!」
むしろ明日を楽しみにするような軽い気持ちで返事をした。
翌日、僕は駅の改札に立った。
それほど待つことはなかった。前日とほとんど同じ時間にあの女性が改札を出てきた。その後を今野が続いた。今日は前日には持っていなかったやや大きめのショルダーバッグを肩から提げている。
建築現場に近付いたところで、僕は物陰に隠れた。間髪を入れずに今野は振り返った。危ないタイミングだった。
胸をなで下ろす間もなく、今野がスルスルッと女性に近づき、ショルダーから何かを取り出して女性の腰の辺りに押し付けた。身体がぐらりと傾いた女性を抱きかかえるようにして、今野は工事現場の通用口に消えた。電気が弾けるような音がしたから、スタンガンを使ったのかも知れない。
僕は通用口に駆け寄り、中の様子を窺った。
後で早太子さんが設置したビデオカメラの画像を見ると、この時今野は、身体の自由が利かなくなった女性の口にガムテープを貼り、両腕を後ろ手に固定していたのだった。
恐怖に見開かれた女性の目を映像で見た時、僕はその場に踏み込むべきだったのか? と本気で後悔した。
外から耳を澄ませていると、シャッター音と今野の声が微かに聞こえた。
「良い子だ。大人しくしていれば無事に家まで送ってあげますよ。」
それから今野は女性の服を剥しにかかった。
ガムテープの奥から漏れる悲鳴が聞こえていた。
早太子さん、もういいでしょう? 助けてあげて・・・
通用口の外で僕はジリジリとしていた。
ここからは早太子さんのビデオ映像の通りに書く。
今野が半裸になった女性の写真を撮り始めた時だ。早太子さんが怨の声を発したのは。
オ・・オ・・オ・・
「ナニッ!」
今野はこの声を憶えていた。尻餅をついて、がらんどうの上空を見上げた。そこには早太子さんが蒼い光に包まれて宙に浮いて今野を見下ろしていた。
オ・・オ・・オ・・
「イマノ マダ コンナコトヲ シテイルノカ」
ヒーッ! という悲鳴を上げて今野は逃げだそうとしたが、身体が動かない。それどころか見えない力が彼の両手両脚を掴み、空中に吊り上げた。
「ヤメロー」
今野の声は弱々しく、気絶するのではないかと思われた。
「コノママ テアシヲ モギトロウカ ニドト ワルイキヲ オコサヌタメニ」
早太子さんの髪の毛が、ウヨウヨと広がり始めた。
「ヤーメロー」
両手両脚に絡みつく早太子さんの髪の毛が、今野の身体の血管を締め付けていた。
「オマエノ ウスギタナイ ネンヲ ステロ」
見る見るうちに手足が腫れていった。血流が止まっているのだ。
「ネンヲ ステロ」
早太子さんの白い目が光った。
「ウググググ・・・」
僕はこの時、通用口の中に飛び込んだ。今野はここまでだと思ったのだ。早太子さんの登場で気を失っていた女性の服を直してあげて、口を塞ぎ両腕を固定していたガムテープを取り除いた。そうして通用口の方に彼女を運んで戻ってきた。
早太子さんと今野の様子には何の変化も起きていなかった。まだ早太子さんの髪の毛は今野の四肢を摑んだまま、ギリギリと締め付けている。
早太子さんの髪の毛が今度は今野の両耳に絡みついた。
「オマエニハ キクミミガ ナイ」
そう言うやいなや、ブチッという音と共に今野の両耳が引き千切られた。
ギャッという悲鳴。しかし「ヤメロー」という今野の声にはやはり変化がない。
「オマエニハ テモアシモ イラナイ」
そう早太子さんが言ったとき、僕はハッと気が付いて叫んだ。
「早太子さん! 違う! 今野は病気なんだ。今野の行動は邪念のせいじゃない! 病気のせいなんだ! 今野に必要なのはお仕置きじゃなくて治療なんだ!」
早太子さんの髪の毛の動きが止まった。
ドサッと今野の身体が地面に落ちてきた。
早太子さんも地上に降りて、元の早太子さんに戻った。
今野は地面に這いつくばってヒーヒー言いながら泣いていた。
両耳が千切れたところからはダラダラと血が流れ落ちている。
「今野の念が変わらなかったんでしょう?」
「はい。もう死んでもらうしかないのかと思いました。」
危ないところだった。
「良かった。多分、病気なんだよ。そのことを警察に話して、ここから先は警察に任せた方が良いよ。」
僕たちは藍田さんに連絡を入れた。すぐさま公安部が駆けつけた。やはり公安部はお見通しで、僕たちの行動を見守っていたらしい。
加害者は警察病院に、被害者また別の病院に、それぞれ収容された。女性の方は特にゲガは無かったが、心の傷が癒えるのを待つ必要があった。一生消えない傷にならないことを祈った。
今野は両耳を千切られたが、外科手術で再建してもらった。なぜ耳が千切れたかは問われなかった。今野は幽霊に襲われたと主張したが、弁護士も含め大きく取り上げられなかったのだ。
被害者の女性が、幽霊の登場について否定したことも大きかった。女性は直感的に、あの時の幽霊が自分を救ってくれたのだと理解したのかもしれない。
所轄の警察側へは公安部からの圧力もあったようだ。
スマホの解析や家宅捜索で、他に数名の被害者があったことが判明した。計画的犯行で、あり責任能力は充分に想定出来るということで、被害者たちの証言の同意も得られてこれらの事件はすべて立件されることになった。ただ、治療行為の必要性は配慮してもらえそうだった。
早太子さんは藍田さんとともに伊角警視総監に呼び出され、叱られた。
あまり単独行動をしないでくれよな。何かあったら、その時はなるべく公安部に一報を入れてくれないと困る。邪魔はしないから。な? 藍田くんも頼むぞ・・・と。
それだけだった。
はげ頭で、どちらかと言うと反社にしか見えない伊角さんだったが、その日は異常に穏やかな口調だったそうだ。そこがまた怖かったと藍田さんは言っていたけれど。
こうして、僕と好海さんの懸念はほぼ払拭された。
「これから先は、どんな時も人のことを疎かにしないように心掛けます。」
僕は三人の前で、右手を挙げて誓って見せた。
「櫂さん、ワタクシも、自分の立てる計画の中に、きちんとその要素を盛り込めるように努力いたします。」
サディスト藍田さんも心強い決意表明をしてくれた。
早太子さんは何も言わなかった。ただ、僕と好海さん二人を交互に見ながら微笑んでいるだけだった。その視線は開け放たれた窓から虫たちの声を乗せて入ってくる夜風のように涼やかだった。
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