置き去りにした朝
朝凪 つばき
第1話
朝が終わっていない感じがした。
夕方に差し掛かっているはずなのに、身体のどこかがまだ朝のままで、時間だけが先に進んでいるような感覚が抜けない。徹夜明けのせいだと分かってはいたが、分かったところで戻るわけでもなかった。
駅へ向かう途中、最近できたカフェが目に入った。テラス席があって、白いテーブルが外に並んでいる。薄手のコートを腕に掛けたまま歩いていたが、着るほどでもない気がして、そのままにしていた。肩に掛けたバッグが、歩くたびに軽く揺れる。
財布を確認しようとして、足を止める。
カバンの中は相変わらず散らかっていて、指先にいくつもの感触が当たる。定期、スマホ、メモ帳。メイクポーチの柔らかい感触に触れ、その奥で仕事用のペンが引っかかった。邪魔になって、一度だけ外に出す。
落としたくなかったので、駅前の花壇の縁に、きちんと置いた。
花壇には、小さな花が、いくつか咲いていた。
そのとき、不意に祖母の声を思い出した。
「ちゃんとやりなさい」
叱るようでも、励ますようでもない声だった。胸の奥が、少しだけ重くなる。
冷たい空気を押し出すように、暖かい風が一度、通り過ぎた。
視線を落とすと、足元を、白い影が静かに横切った。
影が通り過ぎたあとで、置いたはずのペンが見当たらないことに気づく。
一瞬、どうでもいいと思いかけた。もし安いボールペンだったら、きっと追いかけなかった。そういうものは、今までにも何本も失くしてきた。
でも、それが祖母からもらったペンだと思った瞬間、身体が先に動いた。
白い影を追って、駅前のほうへ足を速める。声は出なかった。返してほしいと思ったのか、落としたと思ったのか、自分でもよく分からない。ただ、追いかけなければいけない気がした。
駅前の人の流れの中で、影が止まる。
白いネコを腕に収めている男性がいた。しゃがみ込んで、なだめるようにしている。その手元に、見覚えのあるペンがあった。
「これ、落としました?」
そう言って差し出される。私は息を整えながら受け取った。指先に触れる感触も、重さも、間違いない。
「ありがとうございます。……それ、大事なものだったので」
自分でも、少しだけ声が遅れたのが分かった。
お礼のつもりで、反射的に、男性の腕の中のネコを撫でた。
白くて、思ったより温かかった。それだけのことだった。
その直後、腹の音がした。どちらのものだったのか分からない。男性が少し笑って、駅前のほうを指した。最近できたカフェの話をしていた気がする。気づけば、私たちはテラス席に座っていた。
腰を下ろしたとき、ようやく呼吸が整った。追いかけていたときの緊張が、遅れてほどけていく。男性の顔が、さっきより近くで見える。眉の形や、目元の線まで、はっきり分かる気がした。
そのときになって、白いネコの姿が視界に入った。
テーブルの脚の近くで、丸くなっている。
テラス席には、風が通っていた。
寒くはないが、長く座っていると、身体の輪郭が少しずつ曖昧になるような風だった。
注文を済ませ、カップが置かれる。
コーヒーの匂いは、思っていたよりも軽かった。苦いはずなのに、深く吸い込む気にならない。喉をすっと通り抜けていく。
何か話そうとして、言葉を探す。
男性が先に口を開いた気がする。仕事のことだったか、ネコのことだったか。内容はすぐに形を失ってしまうが、そのときは、ちゃんと聞いていたはずだ。相づちも打った。笑った記憶もある。
電車が一本、通り過ぎる。
低い振動がテーブルの下を抜け、カップがかすかに鳴った。音が大きいわけではない。ただ、意識の端に残る。
もう一本、電車が通る。
男性の表情が、少しだけ読み取りにくくなる。笑ったのか、困ったのか、その違いが曖昧だ。疲れているだけだと思って、深く考えない。
会話は続いていた。
続いていたはずなのに、どこからどこまでが相手の言葉で、どこからが自分のものだったのか、境目が分からなくなっていく。意味は伝わっているのに、形が残らない。
三本目の電車が通ったころ、男性の顔は、輪郭だけを残していた。
見えてはいる。けれど、そこにどんな表情があったのかを掴めない。視線を合わせているのに、焦点が合っていない感じがした。
会計のとき、店員が一度だけ注文を確認し直した。
合っているかどうか、私にも確信がなかった。新人なのだろうと思って、そのまま流す。訂正するほどの違和感でもない。
席を立つとき、時間がどれくらい経っていたのか分からない。
短かった気もするし、思ったより長かった気もする。ただ、立ち上がった瞬間、何かを置いてきたような感覚だけが残った。
店を出た瞬間、男性の顔は、もう定まらなくなっていた。
名前を聞いたかどうかも分からない。聞いた気はするのに、音が残っていない。
駅で別れ、私は反対方向の電車に乗った。座った途端、強い眠気が来る。揺れに身を任せているうちに、意識が途切れた。
次に気づいたときには、最寄り駅だった。
改札を抜け、外に出る。
駅の外は、空気が少しだけ軽い。
理由は分からないが、胸の奥に溜まっていたものが、歩くたびに薄れていく気がした。
昼の生暖かさを洗い流すようにひんやりとした風が通り抜けた。
薄手のコートを羽織る。
そのまま、家に足を向けた。
玄関のドアを開け、靴を脱ぎ、しばらくそのまま立っていた。電気をつけるのを忘れていたことに気づくまで、少し時間がかかった。
部屋は、昼の名残を引きずっている。上着を脱ぎ、椅子にかける。カバンを床に置いて、ファスナーを開けた。
中に、祖母のペンがある。
失くしていない。ちゃんと戻ってきている。
取り出して、机の上に置く。
いつもと同じ形なのに、手のひらに残る感触が、少しだけ違う気がした。軽くなったというほどではない。ただ、以前ほど重くない。
財布を開くと、レシートが数枚溜まっていた。
いつもなら、そのまま閉じる。だが、その日は一枚だけ指に引っかかる。白い紙だった。
ノートを開く。
家計簿をつけようと思ったのか、数字を書くだけの場所が欲しかったのか、自分でもはっきりしない。祖母のペンで、金額を書く。
一行、書く。
次に何を書くつもりだったのか、分からなくなる。
しばらく考えてから、合計を出すのをやめた。
ノートを閉じる。レシートは、そのまま挟まれている。店の名前を見る気にはならなかった。
ソファに座る。
徹夜明けのはずなのに、身体は思ったより静かだった。疲れていないわけではない。ただ、どこかが抜けている。
祖母のことを思い出そうとする。
顔は浮かぶ。声も、だいたい分かる。
それでも、胸の奥に刺さっていたはずのものが、少し遠い。
理由は分からない。
分からないままで、いい気がした。
遠くで、電車の音がした。
それに合わせて、体がわずかに揺れたような気がする。
置き去りにした朝が、何だったのかは、もう確かめようがなかった。
置き去りにした朝 朝凪 つばき @Tsubaki_Asanagi
★で称える
この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。
カクヨムを、もっと楽しもう
カクヨムにユーザー登録すると、この小説を他の読者へ★やレビューでおすすめできます。気になる小説や作者の更新チェックに便利なフォロー機能もお試しください。
新規ユーザー登録(無料)簡単に登録できます
この小説のタグ
参加中のコンテスト・自主企画
関連小説
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます