夜の僕たちの話
いすず さら
今は夜
第一章
それでも朝は来てしまう
疲れた、と思った。
悲しいわけでも、辛いわけでもない。理由を探せばいくらでも並べられそうなのに、どれも違う気がして、結局「疲れた」という言葉だけが残った。
笑って、話して、泣くふりをして、今日も生きた。
それだけで十分だと、世界は言う。
明日になれば朝が来て、希望とか始まりとか夢とか、明るい言葉が無遠慮に窓から入り込んでくる。
――うん、それでいい。
それでいいはずなのに。
僕には、そんな朝は来ない。
目覚ましは鳴る。太陽も昇る。街も人も動き出す。
でも、僕だけが取り残されている。
朝が始まりじゃなく、ただの「継続」でしかないことを、誰も気にしない。
こんな気持ちを誰かに振り撒くつもりなんてなかった。
話す気もなかった。
なのに、頭の中で言葉が溢れて、溜まりすぎて、どこにも行き場がなくなっていた。
最低だ、と思う。
僕の全部が最低だ。
人生なんて、努力ひとつでどうとでもなる。
そんな幻想を、僕も信じていた。
信じていたからこそ、疑問が生まれる。
――じゃあ、僕の人生は?
答えは、拍子抜けするほどつまらなかった。
よくある、予算も愛も足りないSF映画みたいだ。
生き延びただけの主人公が、大人になって、人が増えて、物は増えて、でも肝心なものは手に入らない。
次は心でも買えればいいのに。
そう思った瞬間、自分の心が安っぽいレプリカに見えて、吐き気がした。
理由なんてない。
意味もない。
ただ、手のひらから幸せが零れ落ちていく感覚だけが残る。
「そんなことで病むなよ」
誰かの声が、記憶の奥で響く。
心が持たないから?
そうだね、と頷いてみる。
でも、じゃあ聞かせてほしい。
あなたに、何がわかる?
寄り添うふりをして、励ますふりをして、
それは良心? 親切?
違う。
それは偽善だ。
他人に他人の痛みがわかるわけがない。
結局、僕らはただの他人だ。
――こんなこと言ってるから、だめなんだろうな。
わかっている。
それでも吐き出さなきゃ壊れてしまう。
抱えたままじゃ、いつか音を立てて崩れる。
他人なんて気にせず、
「辛い」「苦しい」って言える勇気が、ほんの少しでもあったら。
もしかしたら、何かは変わっていたのかもしれない。
人って、なんだろう。
心から愛せる人を見つけられたなら、それは幸せなことだ。
でも第三者の「よかったね」は、本人の人生を軽々と通り過ぎていく。
そこに至るまで、どれだけ人を好きになって、裏切られて、利用されて、消えていったか。
人は欲深い。
その欲は、時々心ごと飲み込む。
それなのに、人は大切な誰かのためなら、自分を犠牲にできる。
一番大切なはずの自分を、簡単に投げ捨ててしまえる。
僕には、わからない。
きっとこの先も、わからない。
いつか出会えたら、変われるのだろうか。
そんな期待すら、もう疲れた。
わからない。
わからないよ。
形に残したかった。
思い出になんてしてやるもんか、そう思っていたのに。
気づけば全部、詩になって消えていく。
心より大切なものなんて、あるのだろうか。
全部捨てて、逃げ出したい。
夜の全部が欲しい。
朝なんて、来なくていい。
――もうずっと、おかしいんだ。
生き方ひとつ、考えられない。
過去だけが遠すぎて、どこにも行けない。
あの時、ああすればよかった。
ああしなきゃよかった。
どれだけ願っても、戻れない。
何もしなかった。
なのに欲だけは一人前だ。
努力が向いてないことくらい、わかってる。
人生に名前をつけるなら、「希望」じゃない。
何年経ったのかも、もうわからない。
目蓋を落として、
蓋をして、
夜が明けないまま、眠れたらいいのに。
今日はここまでにしよう。
第二章では、**「誰にも見せなかった言葉」と「語りかける存在」**が現れる。
この物語は、救いを急がない。
壊れそうなまま、生きている時間を、ちゃんと書く。
第二章
誰にも見せなかった言葉
夜は、優しいふりをする。
音を吸い込み、光を鈍らせ、世界の輪郭を曖昧にしてくれるからだ。
朝倉恒一は、スマートフォンの画面を伏せたまま、ベッドに横になっていた。
眠れるわけがない。
目を閉じても、暗闇の奥で言葉が動き続けている。
――逃げてもいい。
誰かがそう言った気がした。
でも、それは他人の声だった。
他人の言葉は、どこまでいっても借り物だ。
彼は体を起こし、机に向かった。
古いノートパソコンの電源を入れる。
立ち上がりの遅さに、なぜか安心した。すぐに世界が始まらないのが、今はありがたかった。
画面は白い。
何も書かれていない。
それなのに、書きたいことだけが、胸の奥で暴れている。
「誰にも見せない」
そう呟いてから、キーボードを叩いた。
文章は整っていなかった。主語も、意味も、順序もない。
ただ感情だけが流れ落ちる。
――僕は普通じゃない。
――みんなとずれてる。
――努力ができない。
――何もしていないくせに、欲しいものだけは多い。
画面に並ぶ言葉は、どれも見覚えがある。
何度も心の中で繰り返してきた、裁判の判決文みたいだった。
「許してほしい」
その一文を打った瞬間、指が止まった。
誰に?
何を?
自分を、だろうか。
許すという行為が、彼にはよくわからなかった。
許すって、何をどうしたら成立するのだろう。
「仕方なかった」と言えばいいのか。
「よく頑張った」と嘘をつけばいいのか。
そんな簡単な言葉で、この重さが消えるなら、もう消えている。
画面を閉じようとした、そのときだった。
通知音が鳴った。
心臓が跳ねる。
こんな時間に、連絡をよこす人間はいない。
いないはずだった。
恐る恐る画面を見る。
知らない名前。
知らないアイコン。
――「まだ起きてる?」
短い一文。
それだけで、呼吸が浅くなる。
間違いかもしれない。
スパムかもしれない。
でも、なぜか無視できなかった。
「起きてます」
送信してから、後悔が遅れてやってくる。
何を期待しているんだ、と自分を叱った。
すぐに返信が来た。
――「よかった。夜に話せる人を探してた」
夜に、話せる人。
その言葉が、胸のどこかに引っかかった。
――「理由は聞かないで。今はただ、誰かが起きてるって知りたかった」
恒一は、少し考えてから返した。
「僕も、理由は話せません」
しばらくして、相手はこう返してきた。
――「それでいいよ。理由なんて、後からついてくる」
不思議だった。
否定も、励ましも、なかった。
わかったふりもしない。
ただ、そこにいる。
それだけなのに、胸の奥で固まっていたものが、ほんの少し緩んだ。
「夜が好きなんです」
気づいたら、そう打っていた。
――「わかる。夜は、嘘をつかなくていい」
その一文を読んだ瞬間、目が熱くなった。
嘘をつかなくていい場所。
演じなくていい時間。
恒一は、ノートパソコンの白い画面を思い出した。
誰にも見せなかった言葉たち。
最低だと断じ続けた、自分自身。
「逃げたいです」
送信ボタンを押すまで、時間がかかった。
――「逃げたいって言えたなら、それはもう逃げ始めてるよ」
優しすぎない言葉だった。
救おうともしない。
ただ、現実をそのまま置いてくる。
画面の向こうにいる誰かの存在が、
この夜を、ほんの少しだけ違うものに変えていた。
朝は、まだ来ない。
でも、夜の底で、言葉が消えずに残っている。
それだけで、今は十分だった。
第三章
名前のない距離
相手の名前は、最後まで聞かなかった。
正確には、聞けなかった。
名前を知ると、相手が「現実」になってしまう気がした。
年齢や職業や住んでいる場所。
そういう輪郭が生まれた瞬間、この夜が壊れてしまう気がしたのだ。
――「名前、聞いてもいい?」
相手から先に、そう送られてきた。
恒一は画面を見つめたまま、しばらく動けなかった。
拒む理由はない。
でも、名乗る理由もなかった。
「朝倉です」
苗字だけを打ち、送信する。
自分でも卑怯だと思った。
けれど、それ以上差し出せるものがなかった。
――「じゃあ、朝倉くん」
その呼び方が、妙に現実的で、少し怖かった。
――「私は……今は、名前なしでいい?」
画面越しの相手も、同じ場所に立っているらしい。
名乗らないことを選んだ、その距離感が、不思議と心地よかった。
「はい」
それだけ返す。
会話は、途切れ途切れだった。
何かを共有しているわけじゃない。
同じ方向を向いているわけでもない。
ただ、同じ夜に起きている。
――「朝倉くんは、何が一番怖い?」
突然の問いだった。
恒一は笑ってしまいそうになった。
怖いものなんて、ありすぎて一つに絞れない。
考えた末、こう打った。
「このまま、何も変わらないことです」
送信してから、胸がざわつく。
こんなこと、誰にも言ったことがなかった。
――「変わりたい?」
「わかりません」
正直だった。
変わりたいと願う一方で、
変わることで今の自分が完全に否定される気もしていた。
――「変われなかった自分を、責め続けてきた?」
その一文を見た瞬間、呼吸が止まった。
画面の向こうにいるのは、
エスパーでも、救世主でもないはずなのに。
「はい」
短く返す。
それ以上書けなかった。
――「じゃあさ」
少し間が空いてから、メッセージが届く。
――「責めるのをやめたら、何が残ると思う?」
恒一は答えられなかった。
責めることで、かろうじて自分を保ってきた。
自分を殴り続けることで、「まだ終わっていない」と思いたかった。
それをやめたら、何が残る?
空っぽだ。
何もない。
「何も残らない気がします」
――「それ、悪いことかな」
即答できなかった。
空っぽは、怖い。
でも同時に、可能性でもある。
――「空っぽなら、これから何かが入る余地がある」
希望、という言葉は使われなかった。
だからこそ、その一文は重くなかった。
恒一は、ふと自分が書きかけていた文章を思い出した。
夜を買いたいと願ったこと。
心がレプリカだと思ったこと。
過去に戻れないと嘆いたこと。
「人って、どうして誰かのために自分を犠牲にできるんでしょう」
それは、ずっと胸に引っかかっていた問いだった。
――「たぶん」
相手は、少し考えてから返してきた。
――「その人の中に、自分の一部を見つけたからじゃないかな」
自分の一部。
他人なのに、他人じゃない。
境界が曖昧になる感覚。
恒一は、ゆっくりとキーボードを打つ。
「僕は、自分のことがわからないんです」
――「うん」
否定しない。
「何を守りたいのかも、逃げたいのかも、わからない」
――「それでも、今こうして言葉にしてる」
「それに意味はありますか」
少しだけ、弱気な問いだった。
――「あるよ」
即答だった。
――「少なくとも、この夜は、独りじゃない」
その言葉に、胸の奥が静かに震えた。
朝は、まだ遠い。
でも、夜は確かにここにある。
名前のない距離。
正体のわからない誰か。
それでも、恒一は初めて思った。
――この夜なら、少しだけ、守ってみてもいい。
第四章
逃げ場所のかたち
夜は、いつもより静かだった。
静かすぎて、耳鳴りが自分の存在を主張してくる。
画面の向こうの相手は、しばらく何も送ってこなかった。
恒一はその沈黙を、怖いとは思わなかった。
急かされないことが、こんなにも楽だとは知らなかった。
――「朝倉くん」
やがて、文字が浮かび上がる。
――「逃げ場所ってさ、見つけるものじゃないと思う」
逃げ場所。
その言葉に、胸がわずかに反応する。
「どういう意味ですか」
――「気づいたら、そこにあった場所」
相手は、淡々と続けた。
――「頑張らなくてもいい場所」
――「ちゃんとしてなくてもいい場所」
――「説明しなくても、責められない場所」
恒一は、息を吐いた。
そんな場所、思い当たらない。
「僕には、ありません」
――「今までは、ね」
その一文が、なぜか引っかかった。
――「でも今、ここでこうして話してる」
――「それも、ひとつの逃げ方だよ」
逃げる。
その言葉は、ずっと否定されてきた。
逃げるな。
向き合え。
乗り越えろ。
そう言われるたびに、何もできなくなっていった。
「逃げるって、負けじゃないんですか」
送信した瞬間、自分が子どもみたいだと思った。
それでも、消さなかった。
――「負けかどうかを決めるのは、他人だから」
――「でも、生き延びるかどうかを決めるのは、自分」
生き延びる。
その言葉は、妙に現実的で、綺麗じゃなかった。
――「壊れそうなときに逃げるのは、戦略だよ」
恒一は、画面を見つめたまま動けなくなった。
逃げることが、戦うことと同じ場所に置かれたのは、初めてだった。
「僕は、自分を許せません」
気づけば、そう打っていた。
――「何を?」
「何もしなかったこと」
「何も変えられなかったこと」
「それなのに、欲しかったこと」
文章は、箇条書きみたいに短くなった。
――「許せないままでもいいと思う」
意外な返答だった。
――「無理に許そうとすると、自分に嘘をつくことになる」
「じゃあ、どうしたら」
――「許すんじゃなくて、手放す」
手放す。
――「“あのときの自分しか存在しない”って考えを」
恒一は、過去の自分を思い浮かべた。
何もせず、立ち止まり、後悔ばかりしている自分。
「それでも、過去は消えません」
――「消えないよ」
即答だった。
――「でもね、過去は居場所じゃない」
その言葉は、静かに、確かに刺さった。
どこよりも遠い場所は、過去。
戻れない場所。
留まり続けるほど、今が痩せていく場所。
「僕は、普通じゃない」
恒一は、ぽつりと打った。
――「普通って、誰の基準?」
「みんなの」
――「“みんな”は、ここにはいない」
その一文を見た瞬間、視界が滲んだ。
ここには、いない。
裁く人も、比べる人も、正解を押し付ける人も。
「泣いてもいいですか」
送信した直後、涙がこぼれた。
許可を求める必要なんてないのに。
――「いいよ」
たった三文字。
恒一は、声を殺して泣いた。
嗚咽も、叫びもない。
ただ、静かに、長く。
夜は、まだ終わらない。
でも、この場所では、仮面をつけなくていい。
逃げ場所は、完成された場所じゃない。
壊れかけの自分が、壊れきる前に立ち寄れる場所。
恒一は、初めて思った。
――逃げてもいい、と自分に言える夜があってもいい。
第五章
朝に名前をつけるなら
夜は、永遠じゃない。
それが救いなのか、残酷なのか、恒一にはまだわからなかった。
カーテンの隙間が、わずかに白み始めている。
朝が近い。
世界がまた、何事もなかった顔で動き出す時間。
画面の向こうの相手も、それを感じ取ったのだろう。
――「そろそろ、夜が終わるね」
恒一は、少しだけ間を置いて返した。
「終わってほしくないです」
正直だった。
このまま、何も決めず、何者にもならず、夜の底に沈んでいたかった。
――「うん。でもね」
――「終わるから、夜は逃げ場所になれる」
終わらない場所は、居場所にはならない。
その言葉の意味が、少しだけわかった気がした。
――「朝倉くん」
相手は、いつもより丁寧に呼んだ。
――「私は、もう少ししたら、ここを離れる」
胸が、きゅっと縮む。
「もう、話せないんですか」
――「話そうと思えば、話せる」
――「でも、ここに留まり続けたら、この夜が“現実の代わり”になる」
それは、優しさだった。
そして、別れでもあった。
恒一は、必死に言葉を探した。
引き止めたいわけじゃない。
ただ、この時間が嘘じゃなかった証が欲しかった。
「あなたは……何者なんですか」
しばらく、返事は来なかった。
やがて、文字が現れる。
――「ただの、夜を生き延びてきた人」
それで、十分だった。
――「朝倉くんは、これからどうする?」
どうする。
答えられるほど、強くはない。
「たぶん、何も変わりません」
――「うん」
否定されなかった。
「でも」
恒一は、深呼吸して続けた。
「壊れそうになったら、逃げます」
「逃げてもいいって、言ってあげます」
「自分に」
それは、小さな宣言だった。
世界を変える力なんてない。
でも、生き延びるには、十分な言葉だった。
――「それでいい」
――「それができる人は、ちゃんと生きてる」
朝の光が、部屋に差し込む。
夜は、静かに役目を終えようとしていた。
――「名前、最後に聞いてもいい?」
恒一は、そう送った。
少しだけ迷ってから、返事が来る。
――「名前はね、必要になったときに持てばいい」
――「今は、まだ夜だから」
画面が、静かに閉じられる。
会話は、そこで終わった。
恒一は、スマートフォンを置き、窓の外を見た。
朝だ。
希望でも、始まりでも、夢でもない。
ただの朝。
それでも、昨夜とは違う。
胸の奥に、言葉がひとつ残っている。
――逃げてもいい。
――壊れる前に。
人生に名前をつけるなら、
まだ「希望」じゃない。
でも、恒一は思った。
「未完」なら、まだ歩ける。
そうして彼は、今日も生きる。
笑えなくても、泣けなくても。
夜を知ったまま、朝の中へ。
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