鏡開きと恋のぜんざい~無愛想な和菓子職人はスランプ作家を甘く溶かす~

藤宮かすみ

第1話「寒空と無愛想な職人」

 吐き出した息が白く染まり、瞬く間に冬の空気に溶けていく。一ノ瀬湊は悴んだ両手をコートのポケットに深く突っ込み、石畳の坂道を登っていた。一月上旬の風は頬を刺すように冷たい。だが、東京のビル風のような荒々しさはなく、どこか凛とした静謐さを孕んでいた。

 祖母が遺してくれた古い日本家屋の整理という名目で、この街に来てから三日が経つ。本当の理由はただの逃避だ。次から次へと消費されるだけの記事を書くことに疲れ、言葉が紡げなくなっていた。空っぽになった頭と心を抱え、湊はあてどなく散策を続けている。

 ふと、甘く香ばしい匂いが鼻先を掠めた。

 小豆を煮る匂いだ。それも、とびきり丁寧に炊かれた極上の餡の香り。

 湊は無意識のうちに匂いの元へと足を向けていた。路地を一つ曲がると、古びた、しかし手入れの行き届いた木造の店舗が佇んでいる。看板には流麗な筆文字で『月光堂』とあった。

 観光客向けの派手な店ではない。地元の人間だけが知る名店、といった趣だ。ガラス戸越しに見えるショーケースには、季節の和菓子が宝石のように並んでいる。

 ここでなら、何かが変わるかもしれない。根拠のない予感に背中を押され、湊は重厚な引き戸に手をかけた。

 カラン、と古風な鈴の音が店内に響く。

「いらっしゃいませ」

 奥から聞こえたのは、予想していたような老婦人の声ではなく、低く、腹の底に響くような男の声だった。

 暖簾を分けて現れた人物を見て、湊は思わず息を呑む。

 背が高い。

 白い作務衣に身を包んだその男は、和菓子職人というよりも、まるで修行僧か武道家のような鋭い雰囲気を纏っていた。黒髪は短く刈り込まれ、眉は意志の強さを表すように太い。何より、その瞳が恐ろしいほどに澄んでいて、射るような強さがあった。

「あ、あの」

 湊は気圧され、言葉に詰まる。

 男――高遠蓮は、無言のまま湊を見下ろした。怒っているわけではないのだろうが、その無愛想さは客商売としてはいかがなものかと思うレベルだ。

「注文は」

 短く問われ、湊は慌ててショーケースに視線を落とす。

 色鮮やかな練り切りや、ふっくらとした大福が並んでいる。その隅に、小さな鏡餅が飾られていた。一月七日を過ぎ、松の内が明けたとはいえ、まだ店先に飾られているそれは、ひび割れ一つなく、神聖な白さを保っている。

「えっと、その……どら焼きを二つと、あと、この練り切りを一つください」

「……はい」

 蓮は表情一つ変えず、注文された菓子を取り出す。その手つきは驚くほど繊細だった。ゴツゴツとした大きな掌が、壊れ物を扱うように優しく和菓子を包んでいく。そのギャップに、湊の目は釘付けになった。

「手、大きいですね」

 言ってしまってから、湊は自分の軽率さを悔いた。初対面の、しかもあんなに怖そうな相手に何を言っているんだ。

 案の定、蓮の手が一瞬止まる。

 ゆっくりと顔を上げ、蓮は怪訝そうに眉間にしわを寄せた。

「……邪魔ですか」

「えっ、いえ! 違います! そうじゃなくて、その、あんなに繊細な細工をするのに、随分と立派な手だなと思って……魔法みたいだなって」

 湊は必死に取り繕う。だが、それはお世辞でも何でもなく、本心だった。蓮の指先から生み出される菓子たちは、どれも命が吹き込まれたかのように美しい。

 蓮はわずかに目を見開き、それからすぐに視線を逸らした。耳の端が、ほんのりと赤くなっているように見える。

「……四百八十円です」

 話題を打ち切るように、蓮は金額を告げた。

 湊は財布から小銭を取り出し、トレイに置く。蓮の指先が湊の指に触れた瞬間、温かい熱が伝わってきた。外の寒さで冷え切っていた湊の手とは対照的に、蓮の手は仕事の熱を帯びていた。

「ありがとうございます」

 商品を受け取り、湊は逃げるように店を出る。

 心臓が妙に早鐘を打っていた。怖かったからだろうか。それとも、あの手の温かさに驚いたからだろうか。

 店の外に出ても、小豆の甘い香りがまだ鼻腔に残っている。

 湊は紙袋の中のどら焼きを見つめた。

 あの職人、名前は何というのだろう。

 なぜだか無性に気になり、湊はもう一度だけ振り返る。ガラス戸の奥、蓮がじっとこちらを見ているのが見えた気がした。だが、すぐにその姿は暖簾の奥へと消えてしまう。

「……取材、申し込んでみようかな」

 つぶやきは、白い息となって空に溶けた。

 書けないと思っていた。もう書きたくないと思っていた。けれど、あの職人の手を見た瞬間、湊の中に眠っていた「伝えたい」という欲求が、小さな火種となって燻り始めたのだ。

『月光堂』の高遠蓮。

 その名を知るのは、もう少し先のことになる。だが、この出会いが湊の止まっていた時間を動かす歯車になるとは、この時の彼はまだ知る由もなかった。

 冷たい風が吹き抜ける。湊はコートの襟を立て、どら焼きの温かさを抱きしめるようにして歩き出した。その足取りは、来る時よりもほんの少しだけ軽くなっていた。

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