しあわせ

1

 肺の奥が、焼けるように熱い。

 吸い込む空気は湿り気を帯びていて、まるで肺の中に直接雨が降り込んでいるようだった。アスファルトを叩く自分のサンダルの音が、不規則なリズムで耳の奥に突き刺さる。右、左、右、左。逃げろ、逃げろ、逃げろ。心臓が肋骨の内側を激しく叩き、全身の血が警報を鳴らしている。

 朝の駅前は、薄汚れた青色に塗りつぶされていた。昨夜、律と一緒に忍び込んだプールの水の色。あの時はあんなに優しかった青色が、今は私を窒息させるための冷たい檻の色に見えた。

 改札の近く、点字ブロックの端に、あの日からずっと私を守ってくれた背中があった。律だ。

 彼は少しだけ猫背になって、リュックの紐を指が真っ白になるほど強く握りしめている。その指先がわずかに震えているのが、遠目からでもわかった。彼は不安なんだ。私を待っているんだ。昨夜、プールの中で私の腰を支えてくれたあの熱い手の温もりが、今も肌に残っているような気がして、私の胸は張り裂けそうなほど痛んだ。

 けれど、その光景を汚すように、不吉な影が駅の周囲を埋め尽くしていた。

 一台、また一台。回転灯を消した白と黒の車両が、音もなく獲物を囲むように路地を塞いでいく。

 階段の踊り場に立つ、不自然に姿勢の良い男。閉まった売店の横でスマホを眺めるふりをして、こちらを値踏みするような鋭い視線。柱の後ろに隠れるようにして無線に囁く、制服の警官。

 彼らの腰には、私を捕まえ、自由を奪い、あの暗い場所に引き戻すための銀色の輪っかが光っていた。


 ……ああ。バレちゃったんだ。全部、壊れちゃうんだ


 言葉なんてろくに知らなくても、身体が理解していた。あいつらは、私を「排除すべきゴミ」として探している。

 律のママ。律を完璧な箱に閉じ込めようとしていたあの怖い人や、律が教えてくれた「正しい世界」の大人たちが、私を泥棒だと決めつけている。律という名の宝石を盗み出し、汚した、忌まわしい泥棒だと。

 もし、今ここであの背中に駆け寄って、律の手を握ったらどうなるだろう。

 律はきっと笑ってくれる。でも、その瞬間に大人たちが一斉に襲いかかってくるだろう。

 そうなれば、律は「さらわれた可哀想な被害者」ではいられなくなる。私と一緒に逃げた、私と一緒に汚れた、「共犯者」というレッテルを貼られてしまう。

 律は、あっち側の人間だ。

 字が書けて、計算ができて、いつか誰かの病気を治すような、立派な未来を持っている人だ。

 私みたいに、雨が上がれば誰にも思い出されずに消えていく、名もなき水たまりのような人間じゃない。

 律が昨日、あんなに楽しそうに語ってくれた「普通」の明日。誰かに褒められ、誰かに必要とされる人生。それを、私の存在ひとつで汚していいはずがなかった。

「……だめだよ、律。君は、そっちにいちゃいけない」

 私は、改札へ向かおうとした足を、無理やり地面に縫い付けた。

 あと一歩踏み出せば、律に触れられる。彼の匂いを嗅げる。

 でも、その一歩が律の人生を真っ黒に塗りつぶす。

 私は、自分の内側から湧き上がる「会いたい」という悲鳴を、喉の奥で噛み殺した。

 くるりと背を向ける。律の見えない方へ。駅の輝きとは反対側の、暗くて、ジメジメして、誰も私を見向きもしない路地裏の深淵へ。

 

 ごめんね、律。

 海、いけなくなっちゃった。

 君が教えてくれた「一足す一は二」なんて、どこにもなかった。

 私がいなくなれば、君はまた「一」に戻れる。完璧で、正しい「一」に。

 私は狂ったように駆け出した。

 律を独りぼっちにするために。

 律を、あの光の当たる「正解」だけの世界に、無理やり返してあげるために。

 

 涙が風に流されて、耳の後ろへ飛んでいく。

 駅のホームから響く始発列車の音が、私と彼の境界線を引く、冷たい鐘の音のように聞こえていた。

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