梅雨どきのアネモネ
久環いろは
にげだす
1
視界の端で、シャープペンの芯が音もなく折れた。
三度目だ。無意識に指先に力が入りすぎているらしい。僕は小さく息を吐き、ペンケースから替え芯を取り出す。その一連の動作すら、誰かに監視されているような気がして、僕は背筋を伸ばし直した。
放課後の教室。窓の外は、今にも泣き出しそうな鈍色の雲が低く垂れ込めている。
部活動に向かう連中の騒がしい足音や、意味のない笑い声が、湿り気を帯びた空気の中に充満していた。
「律、今日さ、駅前にできたパンケーキ屋行かね? 女子も何人か誘ってるんだわ」
肩を叩かれ、僕は顔を上げた。そこには健太が、いかにも「正しい青春」を謳歌しているような、屈託のない笑顔で立っていた。
「……悪い。今日は塾の講習が早めにあるんだ」
僕は、喉の奥に貼り付いていた「正解」を吐き出す。
嘘ではない。ただ、その塾も、講習も、僕の人生という名のスコアにあらかじめ書き込まれた義務に過ぎない。
「うわ、マジか。相変わらずストイックだなー。お前の親御さん、教育熱心だもんな。俺なんか、こないだの模試の結果見せたら『生きてりゃいいよ』って笑われたぜ」
健太が笑い、周りの連中も「お前の親、最高だな」と同調する。
その瞬間、僕の胸の奥で、冷たい澱のようなものが沈殿していくのを感じた。
彼らが口にする「親への不満」は、いつだって健全な愛の上に成り立っている。
期待を裏切っても、失敗しても、最後には笑って許される場所がある――。
彼らにとっての「普通」は、僕にとっては喉から手が出るほど欲しい、けれど決して手が届かない、ガラス越しの聖域だった。
「律はいいよな、将来安泰だろ。医者だっけ? 弁護士だっけ?」
「……さあ、どうだろうね」
僕は、いつものように曖昧な微笑みを顔に貼り付けた。
僕の人生には、最初から選択肢なんて存在しない。
母さんの理想を完璧に演奏することだけが、この家で僕に許された唯一の生存戦略だ。一音でも外せば、そこにあるのは「教育」という名の凄絶な罵倒と、人格を否定するほどの沈黙。
「じゃあな。勉強、頑張りすぎんなよ」
友人たちが去っていく。
静まり返った教室で、僕はもう一度、折れた芯を拾い上げた。
彼らと同じ制服を着て、同じ言葉を使い、同じように笑う。けれど、僕だけが目に見えない透明な壁の向こう側に閉じ込められている。
ふと窓に目をやると、一粒の雨がガラスを叩いた。
それは瞬く間に数を増やし、世界の輪郭を激しく塗り潰していく。
――もう、限界だ。
重い鞄を肩にかけ、僕は教室を逃げるように出た。
傘を差す気力すら湧かなかった。
校舎を出た瞬間、叩きつけるような雨が僕の頬を打った。
シャツが肌に張り付き、体温を容赦なく奪っていく。けれど、この不快な感触だけが、今の僕にとっては唯一の「本物」のように感じられた。
駅までの道すがら、僕はわざと水たまりの中を歩いた。
泥水が靴の中に染み込んでくる。
「不潔よ」「行儀が悪いわ」という母さんの幻聴が雨音に混じる。
ああ、そうだ。僕は怒られたいわけじゃない。
ただ、この世界に、僕という人間が確かに「苦しんでいる」という証拠が欲しかっただけなんだ。
玄関の扉を開けると、そこには僕を窒息させるための、完璧に整えられた「地獄」が待っていた。
「おかえりなさい、律。十五分遅かったわね」
リビングから、母さんの静かな、けれど逃げ場のない声が響いた。
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