第15話 揺らぎの中で
■中規模事案・発生と初動
最初の異変は、
結界の揺らぎとしてではなく、
森の奥から立ち上がる、嫌な気配として現れた。
鳥の鳴き声が、途中で途切れる。
国境に接する森。
結界の縁が、軋むように歪んだ直後、
魔物が、ほとんど同時に複数体、出現する。
数は多い。
種類も揃っていない。
本来なら、
揺らぎを感知した時点で、
最低限の対応部隊は展開している。
だが、今回は違った。
揺らぎは、検知をすり抜けるように、
ほとんど前触れなく発生した。
魔物の発生地点は、
セシリア村に近すぎた。
森の縁で抑えきれなかった一部が、
そのまま、村の外れへ流れ込む。
避難は、間に合わない。
人が走り、
転び、
叫ぶ。
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■師団の展開
最初に転移したのは、
特別師団の先鋭部隊だった。
森の中で、戦闘が始まる。
特別師団長の指示は、短い。
「ここを抜かせるな。
村へ行かせる数を、一本でも減らせ」
クロトが、前に出る。
魔力を解放し、
踏み込み、
刃を振るう。
一体、倒す。
間を置かず、次へ。
倒す。
止まらない。
特別師団は、
森の中で踏ん張る役目を負っていた。
魔物を、これ以上、村へ流れ込ませない。
部下たちは、それに続く。
陣形を保ち、
魔物を引きつけ、
確実に数を削っていく。
同時に、第三師団が村へ入った。
すでに侵入した魔物の討伐。
そして、村人の救助。
家屋の陰。
倒れた柵。
逃げ遅れた住民。
第三師団は、
戦いながら人を拾い、
後方へ送り出す。
第五師団は、さらに外側へ展開する。
魔物の出現地点。
数の把握。
森と村の境界線。
偵察と状況把握。
次に、どこへ人を回すべきかを見極める役目だった。
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■一時間の停滞
魔法陣による転移は、十名ずつ。
王宮の魔法陣は三基。
一度に送れるのは、三十名。
最低限の人数が揃うまでに、
およそ一時間。
その間、
前線は押し返されながらも、
踏みとどまるしかなかった。
本来なら、
この規模で、
ここまでの被害は出ない。
だが、
初動の遅れが、
戦線を押し込んだ。
騎士にも、負傷者が出る。
医療担当騎士は、
治療に入りたい衝動を抑え、
まずは戦線を保つ。
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■転機
一時間後、
最低限の戦力が揃った。
この時点から、
医療担当騎士が、ようやく本来の役割に入る。
前線で応急処置を施し、
重症度を判断し、
魔法陣へ誘導する。
魔法陣では、
騎士が送られてくるのと同時に、
負傷者が王宮へ送られていく。
送り、
戻り、
また送り出す。
ここから先は、
「十名単位で送る」「戻る」「また送る」
それだけの作業が、延々と繰り返される。
その循環が、
ようやく回り始めた。
偵察が進み、
情報が集まり、
配置が整理されていく。
全体の指示を出しているのは、
特別師団長だった。
森は特別師団。
村は第三師団。
全体把握と調整は第五師団。
役割が明確になるにつれ、
戦場の空気が、少しずつ変わる。
混乱が、制御に変わる。
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■魔法陣の周囲
四時間後、
魔物は、完全に制圧された。
だが、
魔法陣の周囲には、
送り出されるのを待つ者、
手当を受ける者が、
折り重なるように横たわっていた。
医療担当騎士たちは、
誰も声を荒げてはいなかった。
判断基準は、分かっている。
訓練も、重ねてきた。
それでも、
魔法陣へ送る順番を告げるたび、
一瞬だけ、指が止まる。
こちらは、まだ呼吸がある。
だが、向こうの方が、
処置を急ぐべきだ。
分かっている。
それでも、
目の前の人間を「後」に回す感覚は、
何度経験しても、慣れない。
医療担当騎士の一人が、
視線を横に流す。
「……こちらから、先に送ります」
問いかけるような声だった。
少し離れた位置で、
状況を見ていた年長の医療騎士が、
短く頷く。
「妥当だ」
それだけで、
判断は動く。
魔法陣が光り、
医療担当騎士1名と傷病者9名が消える。
残された者の視線が、
一斉に、次の判断を待つ。
別の医療担当騎士が、
息を一つ整え、
自分が付き添う、傷病者9名の名前を呼びあげる。
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■結界制御室
結界制御室は、静かだった。
外の混乱が嘘のように、
空気だけが、張り詰めている。
桜は、結界の中枢に立っていた。
揺らぎは大きい。
これまで経験したことのない質ではない。
だが、量が多い。
森の一角で起きた歪みが、
連鎖するように広がり、
結界全体を、じわじわと削っている。
桜は、呼吸を整え、
修正に入った。
縫い合わせる。
補強する。
裂け目を広げないよう、
力を流し続ける。
派手な変化はない。
だが、止めなければ、
確実に悪化する。
時間の感覚が、薄れていく。
額に汗が滲み、
指先が、わずかに痺れる。
それでも、桜は手を止めなかった。
「……まだ、大丈夫」
自分に言い聞かせるように、
小さく呟く。
結界の外では、
魔物が出現し、
騎士たちが戦い、
村が混乱している。
直接その様子は見えない。
だが、空気の重さだけは、
はっきりと伝わってきた。
ここを離れれば、
揺らぎは一気に広がる。
それだけは、避けなければならない。
桜は、限界を計りながら、
力を注ぎ続けた。
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■引き継ぎ
二時間が過ぎた頃、
身体の奥で、はっきりとした感覚が生まれた。
これ以上は、無理だ。
たぶん、力をうまく使えず、
ただ体力だけが消耗していくことになる。
桜は、ゆっくりと息を吐いた。
「……ここまでが、限界です」
そばにいたリエットへ、静かに声をかける。
「引き継ぎます」
桜は、短く頷いた。
揺らぎの中心。
補強を重ねた箇所。
注意すべき流れ。
必要なことだけを伝えると、
リエットはすべてを受け取り、
迷いなく結界に向き合う。
「事態が収まるまで、
私が維持いたします。ですから……」
その言葉の続きを、
桜は聞かなくても分かっていた。
――次へ向かってください。
それだけで、十分だった。
桜は、結界から手を離す。
一気に、身体が重くなる。
立ってはいられる。
まだ、働ける。
結界の補強を引き継ぐ直前、
リエットが、心配そうな表情を浮かべた。
「どうか、無理だけはなさらずに」
桜は、深く頷く。
リエットが、結界の補強に集中する背中を、
一瞬だけ見つめてから、
桜は、制御室を後にした。
扉を開けた瞬間、
外の空気が、重くのしかかる。
廊下の先で、担架がすれ違った。
血の匂いが、わずかに漂う。
――始まっている。
桜は、歩みを止めなかった。
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■医療の立ち上がり
結界の対応が続く中、
王宮と城下町では、別の動きが始まっていた。
非常招集を受けた人々が、
時間差で、次々と集まり始める。
王宮診療所の医師と看護師。
国立病院の医師と看護師。
城下町の診療所に勤める医療者たち。
それだけではない。
王宮付きの介護人。
普段は医療に関わらないが、人の世話に慣れたメイドたち。
そして、怪我人を担架で運ぶ役割を担う、
王宮内の男手――体力のある者が選抜されている。
誰もが、現場に足を踏み入れた瞬間に理解する。
人手が、圧倒的に足りていない。
それでも、立ち止まる者はいなかった。
すでに始まっている現場に、
途中から加わる形で、各自が持ち場に入っていく。
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■魔法陣と集積地点
魔法陣による搬送は、10名単位だった。
負傷者9名につき、
医療担当騎士が1名、必ず同行する。
魔法陣が起動し、
9人の負傷者と1人の医療担当騎士が、
光の中へ消える。
到着後、負傷者たちは、
そのまま診療所へ入ることはない。
まず、第1診療所の外に設けられた、
所定の集積地点へと運び出される。
同行してきた医療担当騎士は、
9名分の状況を簡潔にメモへ書き留め、
それぞれの傷病者の身体に貼り付けて、引き継ぎとした。
搬送者――王宮内の男手が、
患者をすべて運び出したのを確認すると、
医療担当騎士は、再び魔法陣を起動する。
次の負傷者を迎えに行くためだ。
送り、戻り、
また送り出す。
その循環が、絶え間なく続いていた。
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■初期対応地点
集積地点には、
すでに多くの負傷者が横たわっている。
ここで、トリアージが始まった。
全体の指示を出しているのは、エルンストだった。
「トリアージを開始する」
初期トリアージを担うのは、
クラウスをはじめとする内科系の医師たちだった。
外科医師は、
診療室内に患者が搬送次第、処置や手術に入らなければならない。
そのため、
全身状態の把握と優先順位の判断は、
初めから内科医に任されている。
短い一言で、現場が動き出す。
原則として、判断は医師が行う。
人手が足りない場所では、
看護師もトリアージに加わった。
処置をしながら、
視線と一言で情報を共有する。
迷う症例が出た場合は、
予定通り、もう一人の医師の判断を入れる。
それでも、判断は簡単ではない。
正解が分からないまま、
次の判断を迫られる。
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■人の手
介護人とメイドたちは、
治療には関わらない。
だが、彼女たちの役割は、はっきりしていた。
水を運ぶ。
血で汚れた顔を拭う。
毛布を掛ける。
震える手を、そっと握る。
不安がる傷病者のそばを離れず、
誰かが必ずいる状態を作る。
それだけで、
「放置されていない」という感覚が生まれる。
一方、軽傷と判断された者たちは、
そのまま村に残された。
基本的には医療担当騎士が手当てを行い、
足りない人手を、同じ村の者同士、
あるいは医療担当ではない騎士たちが補う。
医療担当騎士の指導を受けながら、
傷の手当てが行われていた。
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■振り分けと搬送
トリアージの結果が出るたび、
負傷者の行き先が決まっていく。
重体、重症と判断された者は、
第1診療所内へ。
中等症の者は、
第2、第3診療所へ。
重体、重症、中等症――
それらすべての移動を担うのは、
医療関係者ではない男手だった。
城内や城下で非常招集された者たちが、
簡易の担架を使い、
集積地点と各診療所を往復する。
動きは速くない。
だが、確実だった。
負傷者を揺らさないこと。
それだけを、全員が共有している。
魔法陣から集積地点へ。
集積地点から、それぞれの診療所へ。
二段階の搬送が、
途切れることなく続いていた。
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■判断の重さ
医師、看護師、村にいる医療担当騎士たちは、
それぞれの持ち場で動き続ける。
混乱はない。
叫び声も、怒号もない。
ただ、余裕がない。
判断は、確実に積み重なり、
同時に、消耗も積み重なっていく。
それでも、医療は止まらなかった。
この時点で、
現場は、確かに回っている。
誰かが欠ければ、
すぐに綻びが出る。
そんな均衡の上で、
現場は、ぎりぎりの状態を保っていた。
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