店主と割れた樽

この街の酒場は、朝も開いている。


もっとも、酒を出すわけじゃない。

朝は、掃除と仕込みと、昨日の後始末だ。


俺は今、床を拭いていた。


「そこ、まだ黒いぞ」


店主の声。


「これ、取れない汚れじゃないですか」


「昨日の葡萄だ。

 甘いのは、後に残る」


納得したくはないが、理屈は分かる。


樽の近くで、布を絞る。

指先が、少し赤い。


「慣れたな」


「何がですか」


「こういうの」


そう言って、店主は空の樽を転がした。


「前は、もっと動きが固かった」


自覚はない。

だが、確かに、最初よりは楽だ。


「仕事、嫌じゃないです」


そう言うと、

店主は意外そうな顔をした。


「酒場だぞ」


「酒場ですから」


それで十分だった。


昼前になると、客が一人入ってきた。

昨夜の吟遊詩人ではない。


普通の旅人だ。

荷物が多くて、顔が疲れている。


「水、ありますか」


「ある」


店主が答える前に、

俺がコップを出していた。


「あ、ありがとうございます」


礼を言われるほどのことでもない。


「ここ、しばらく滞在してるんですか」


旅人が聞く。


「今のところは」


「いい街ですね」


「まあ……悪くはないです」


嘘でもない。


夕方になると、

酒場は少しずつ賑わい始めた。


俺は、皿を運び、

床を避け、

話しかけられたら、適当に返す。


それだけだ。


だが、不思議と、時間は早い。


「今日は、もういい」


店主が言った。


「賃金は?」


「酒と飯だ」


「充分です」


店主は、鼻で笑った。


「そう言う奴が、一番長居する」


それは、どうだろう。


グラスを受け取り、

葡萄の涙を一口。


昨日より、少し軽く感じた。


「……働いたあとの酒は、違いますね」


「当たり前だ」


店主は、当然のように言った。


「何もしてねえ酒は、

 すぐ裏切る」


意味は、半分くらい分かった。


俺は、グラスを置く。


この街に、もう一晩くらいはいてもいい。


そう思えたことに、

少しだけ驚きながら。

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