第5話 毒に沈む蜜月、朱き警告の残響

​ 朝の光は、残酷なほどに均一だった。

 新宿の街を等しく照らす陽光が、雫のアパートの薄いカーテンを突き抜け、埃の舞う室内を白茶けた色彩で塗りつぶしている。

​ 如月遥は、キッチンの狭いスペースに立ち、コンロにかけた小鍋を見つめていた。

 トントン、と小気味よいリズムで野菜を刻む音が、静まり返った部屋に響く。立ち上る湯気は、コンソメの柔らかな香りと共に、この部屋に欠落していた「生活」という名の潤いをもたらしていた。

 だが、その穏やかな音色とは裏腹に、遥の瞳は一切の揺らぎなく、奥の寝室の扉を見据えていた。

​「……ん」

​ 微かな衣擦れの音。

 遥はすぐに火を止め、おたまを置いて寝室へと向かった。

 

 ベッドの上で、星神雫が上体を起こしていた。

 昨夜、遥が着せ替えた大きめのTシャツが、彼女の細い肩から無防備にずり落ちている。乱れた銀灰色の髪の間から覗く肌は、朝の光の中でもなお、硝子細工のように透き通っていた。

​「おはようございます、雫さん。……よく眠れましたか?」

​ 遥はベッドの端に腰を下ろし、自然な動作で雫の額に手を当てた。

 雫は一瞬、肩を跳ねさせたが、すぐに諦めたように力を抜いた。遥の手のひらから伝わる体温。それが自分の体内の毒を薄めてくれるような錯覚に、彼女は抗えずにいた。

​「……遥。私、いつまで寝ていたの」

​「もう十時ですよ。学校は……私が適当に理由をつけておきました。今は、体を休めるのが先決です」

​ 遥の手が、雫の頬を滑り、耳たぶを愛しむように撫でる。

 雫は視線を落とした。彼女の左腕には、昨日遥が巻いた白い包帯が痛々しく残っている。その下の「呪い」は、今も静かに彼女の命を啜り続けているはずだった。

​「……どうして、そんなに優しくするの。昨日も言ったでしょう。私は……」

​「怪物? いいえ。あなたは、私だけの特別な人です」

​ 遥は雫の言葉を遮り、彼女の細い指を一本ずつ、丁寧に絡めていった。

 指先から伝わる、雫の微かな震え。それが、彼女が自分を必要としている証拠のように思えて、遥の胸の奥は甘い熱で満たされる。

​「朝ごはん、作りました。食べられそうですか?」

​「……少しだけなら」

​ 食事の間、二人の間に流れる時間は、奇跡のように穏やかだった。

 雫は、遥が口元まで運ぶスープを、躊躇いながらも受け入れていく。その咀嚼する音、飲み込む際の喉の動き。その一つ一つを、遥は飢えた獣のような眼差しで記録していた。

 

 雫が、ふと机の上に置かれた自分のスマートフォンに目をやった。

​「……何か、連絡はなかった?」

​ 遥の心臓が一瞬、鋭く跳ねた。

 昨夜、燐から届いたあの警告。

 

「いいえ。何も。……それより、今は自分のことだけを考えてください。外の世界なんて、どうでもいいんです」

​ 遥は微笑みを絶やさず、雫の唇に付いたスープを指先で拭った。

 雫は、その嘘に気づく様子もなく、ただ疲れ切った瞳で遥を見つめ返していた。

​ ――その日の放課後。

 

 遥は雫をアパートに残し、一人で新宿の街へと繰り出していた。

 雫のための滋養強壮剤や、お気に入りの紅茶、そして彼女の肌を優しく包むための新しいタオル。買い物袋が一つ、また一つと増えていくたびに、雫を自分だけの檻に閉じ込める準備が整っていくようで、遥の足取りは軽かった。

​ だが、その高揚感は、伊勢丹前のスクランブル交差点で遮られた。

​「……よう、お嬢ちゃん。随分と楽しそうじゃねえか」

​ 背後からかけられた声は、弾丸のように鋭かった。

 振り返ると、そこには昨夜の魔法少女――燐が立っていた。

 燃えるような赤髪を適当にまとめ、スカジャンを羽織った彼女は、周囲の着飾った買い物客の中で、隠しきれない野生的な殺気を放っている。

​「燐さん。……何かご用ですか?」

​ 遥の声から、一切の感情が消えた。

 燐は苛立ったように自らの首を鳴らし、遥の目の前まで歩み寄る。その距離、わずか数センチ。

​「昨夜、雫にメッセージを送った。……返信がねえのは、お前が消したからか?」

​ 交差点の信号が青に変わり、人々が二人の間を波のように通り過ぎていく。

 だが、そこだけが隔離された戦場のような緊張感に包まれていた。

​「……何のことでしょうか」

​「しらばっくれんな。お前の瞳、気に入らねえんだよ」

​ 燐が遥の胸倉を掴み、近くの壁へと叩きつけた。

 ドサッ、という鈍い衝撃。買い物袋から、雫のために選んだ高品質の茶葉の缶が転がり落ちる。

​「雫は優しい。優しすぎて、自分にすがりつく奴を撥ね除けられねえ。……でもな、お前がやってるのは『介護』じゃねえ。……『毒』だ」

​ 燐の金色の瞳が、殺意を孕んで燃え上がる。

 

「あいつは魔法少女だ。命を削って、化け物共を殺し続けて、いつか壊れる運命なんだよ。お前みたいな一般人が、その『崩壊』を特等席で眺めてんじゃねえよ! 雫が死ぬ時、お前は一緒に地獄へ行けるのか!? できないだろ! だったら、今すぐ消えろ!」

​ 燐の指先に、微かな火花が散る。

 普通の人間なら、恐怖で腰を抜かすような圧倒的な魔力の威圧。

​ だが、遥は笑った。

 

 壁に押し付けられたまま、声もなく、肩を揺らして。

​「……何がおかしいんだよ」

​「……燐さん。あなたは、魔法少女だから、彼女を守れると思っているんですか?」

​ 遥が顔を上げた。

 その瞳に宿っていたのは、暗い底なしの穴のような、純粋な狂気だった。

​「あなたが戦うたびに、彼女は傷つきます。彼女を戦場に連れ出すのは、あなたたち魔法少女という存在そのものです。……彼女を壊しているのは、私じゃなくて、あなたたちの方じゃないんですか?」

​「なんだと……っ!」

​「私は、彼女が壊れても構いません。動けなくなって、魔法も使えなくなって、誰からも見捨てられて……。そうなった時、彼女の隣にいるのは、魔法も使えない、何の力もない、私だけなんです」

​ 遥の指先が、自分の胸を掴んでいる燐の手首に、そっと触れた。

 冷たい笑みが、遥の唇に刻まれる。

​「死ぬ時に一緒に行けるか? ……ええ、もちろんです。彼女が望むなら、私はいつでもこの命を差し出しますよ。でも、彼女は望まない。あの人は優しいから、私を置いていこうとする。……だから、私が『行かせない』ようにするんです」

​ 燐は、ゾクリと背筋を凍らせた。

 目の前にいるのは、ただの非力な少女のはずだ。魔力もなく、武器もない。

 だが、その意志の質量は、これまで戦ってきたどんな魔物よりも重く、粘り気を持っていた。

​「……お前、本気で……」

​「雫さんのスマートフォン、新しい番号に変えておきますね。もう、あなたたちの『汚れ』を、あの人に届けないでください」

​ 遥は、燐の力を振り払い、地面に落ちた茶葉の缶を拾い上げた。

 衣服の埃を払い、再びいつもの「如月遥」の顔に戻る。

​「さようなら、燐さん。……次の戦い、死なないように気をつけてくださいね。あなたが死ねば、雫さんの悲しみが増えてしまいますから」

​ 遥は一度も振り返ることなく、駅の方へと歩き出した。

 

 残された燐は、震える自分の手を見つめていた。

 

「……あいつ、魔法少女よりずっと……狂ってやがる」

​ その時、新宿の空を不気味な赤黒い雲が覆い始めた。

 日常の喧騒の下で、新たな「非日常」が鎌首をもたげる。

 

 遥は、夕闇に染まる街を見上げ、優しく目を細めた。

 

(早く帰らなきゃ。……雫さんが、寂しがっているわ)

 

 彼女の手の中にある買い物袋には、雫を繋ぎ止めるための新しい「鎖」が、たっぷりと詰め込まれていた。

​(つづく)

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