滅びよ、夏よ。

鋼鉄狸(めたるたぬき)

滅びよ、夏よ。

 真夏。

 私、今西由佳〈いまにしゆか〉が、エアコンの故障した灼熱地獄(自室)から居間に避難して涼んでいると、母がやって来て言い放った。

「ゆかちゃーん、悪いんだけどしばらくお外に出ていてちょうだい」

 母よ、何を言っているのだ。私は自分の耳を疑った。

 本日の最高気温は三十六度と天気予報で言っていたはずだが、あろうことか〈外に出よ〉だと。

 その要求はさすがに一線を超えている。かような灼熱の大地に娘を放り出して、熱射病で息絶えてしまったらどうするのか。

 何を思っての発言かは知らぬが、その要求を呑む事は断じて出来ない。私は無視を決め込む事にした。

 冷凍庫に入っている真ん中で折れるソーダバーが私を呼んでいる。それをかじりながら〈笑っていいとも!〉を観るのだ。

 母よ、お昼は冷や中(冷やし中華)を作っておくれ。


「はいはい! お母さん花火大会の最終打ち合わせなの! 邪魔だからお外で遊んでらっしゃい! お昼代渡すから」

 母は手をぱんぱんと叩いて私を追い出しにかかった。

「うわああああ」

 母よ、あなたは私が可愛くないのか? 私はあなたが十五年前にお腹を痛めて産んだ一人娘だろう。邪魔とはあまりにも酷い物言いではないか。

 そして、何故自治会の打ち合わせをわが家でするのか? 自治会館は夏休みなのか?


 仕方がないので八月に入っても全く手をつけていない夏休みの宿題を持って、図書館に行く事にした。

 その前に近所の中華料理店で冷や中を頂くとしよう。


 太陽の陽射しは暴力的なまでに私を照りつける。本日の最高気温三十六度、今が正にその時であった。


 夏は嫌いだ。

 暑いのもそうだが、汗で身体がぬるぬるになる事が耐えられない。

 私はこの不愉快なぬるぬるを凌ぐ為に、学校の水泳部に入ってちょっとした大会で二位を獲ったりするくらいなのだ。



「天国はここだったか」

 私は冷房の効いた図書館で机のひんやりを楽しみながら呟いた。この快適さなら宿題も間違いなく捗るだろう。

 おもむろに数学のテキストを開き、てきぱきと問題を解いていると誰かが私に近づいて来る。

「あれ、今西さんじゃん」

「なっ、夏目くうううん!」

 私は思わず立ち上がって叫んだ。その勢いで椅子が後ろに倒れ周囲の冷ややかな視線を浴びてしまった。

 声をかけて来たのはクラスメートで同じ水泳部所属の夏目翔徒〈なつめしょうと〉くんだった。今日もなんと麗しいのだろう。

「宿題してるの?」

 彼は天使のハミングの如き声で私に語りかける。

「う、うん、そうなんだ」

 私はひっくり返った椅子を直しながら言った。

「偶然だね。僕たちもそうなんだよ」

 なんという事だ、私の意中の人が目の前にいる。せっかく冷房で汗が引いたというのに、またぬるぬるしてくるではないか。

 ん、僕たちと言ったか? 僕たちとは?

「夏目くん、やっほー」

 その時、私の背後から小鳥のさえずりの様な軽快な声がした。

「ああ、遅かったね」

 その女子は私と夏目くんの間に図々しくも割って入る。

「うーん、ママにお使い頼まれてちゃってえ」

「そういう時は連絡だよー」

「ごめんなさあい」

 いや、夏目くん? その馴れ馴れしい女は一体何者なのだ?

「あ、この子、村田夏那〈むらたかな〉ちゃん。僕たち付き合ってるんだ」

「彼女でーす」

 私の前で能天気にピースサインを作る彼女を見て愕然とした。実は私は先週、意を決して夏目くんに告白を試みたのだ。その結果は、もう思い出したくない。

 悔しい事に、彼女は私の五倍くらい可愛らしい。化粧も上手だし、ピンク色のふんわりした服がよく似合っている。夏目くんが好きな女の子はこっち方面なのか、無念だが私が勝てる要素は何ひとつ無い。完全な敗北だった。

 気がつくとピースサインが二つになっている。勝ち誇っているのか?

 私は自分でも嫌になるくらいの嫉妬心に苛まれた。ダメだ、もうこの場所にはいられない。

「私、もう帰るね」

 私はテキストと筆記用具をバッグに放り込んで立ち上がった。

「え、外は暑いよ? 大丈夫?」

「うん、大丈夫。用事があるから」

 夏目くん、その気遣いは彼女にしてやってくれ。どうか、末永くお幸せに。

「お疲れ様でーす」

 背後から能天気ピースの声がした。



 これでいい。彼には私みたいな陰気な女より、村田さんの様な積極的で可愛らしい女の子が似合う。

 だが、その祝福とは裏腹に私の眼からは止めどなく涙が溢れた。

 私が失恋だと?

 私は全速力で走った。もう全身ぬるぬるまみれでいい。家に帰ったら直ぐにシャワーを浴びよう。そして真ん中で折れるソーダバーを食べて居間に居座ってやる。

 悔し涙を拭おうと顔に手をやったその時、九時の方向から乗用車が私に追突した。

 激しい衝撃に私は宙を舞い、そのまま傾斜のある草むらに飛び込み転がった。受け身をとる事すらままならない。砂利やコンクリートが皮膚を裂き、骨が軋んだ。

 耳の中できーんという音が響き、血の嫌な匂いが私の鼻腔を満たして行く。

 車が私から急速に離れて行く気配がした。これはひき逃げだ。だが、迂闊にもよそ見をして道路に飛び出したのは私だ。全面的に私が悪い。


 薄れて行く意識の中、私は夏目くんに告白した日の事を思い出していた。

 部活終了時にプールサイドで二人きり。夏目くんは、濡れた身体をタオルで包み、晴れ渡った空を見上げていた。

「夏目くうん」

 私は自分でも引くくらい甘えた声を出していた。そして、最近少し大きくなった胸を両腕で寄せ上げて彼をじっと見つめた。小賢しい事に色仕掛けで彼を落とそうとしたのだ。

 もし彼と付き合う事が出来たら、帰りにパフェを食べに行こう。もちろん彼の奢りだけど、帰り際にお礼のキスをしてあげよう。

 そして夏休み最後の日には、彼の部屋でエッチな事をしよう。とても楽しみだ。

 これは走馬灯? いかん、これは死んでしまうやつだ。そしてこれ以上は、ダメだ、思い出すな。私よ、絶対思い出すな!

 しかし、走馬灯は無慈悲にもあの場面の映像を私の脳内に再生する。

「夏目くん、私、あなたの事が、す、好…」

 大事な事を伝えようとしているのに、緊張のあまり、か細い声しか出ない。

「今西さん」

「はい!」

 その時私は自分の気持ちが言葉を介さなくても夏目くんに通じたのだと思った。おめでたいやつだ。

「言いにくいんだけど、水着から、はみ出しちゃってるね」

 彼は私の股間を指差していた。

「え?」

 何故、この場面をこんな死に際に思い出すのだ? 夏目くん、言いにくい事なら黙っていれば良かったのではないか?

 私はもう告白どころでは無い。そのまま下を向いて更衣室に逃げ込む事しか出来なかった。

 帰宅後、泣きながら部屋中の物をひっくり返した。その時投げつけた辞書がエアコンに衝突し、電源が入らなくなった。そうだ、エアコンを壊したのは私なのだ。


 夏目くんの可愛い彼女よ。君もいずれちぢれ毛がはみ出ている事を彼に指摘されて傷つく事になるだろう。その時は死にゆく私に代わって「お前はデリカシー皆無だな!」と怒鳴りつけて欲しい。


 ごめんなさいお母さん。お母さんが戸棚に隠していた羊羹を昨日食べちゃいました。とてもおいしゅうございました。

 ごめんなさいお父さん。ビデオデッキに入りっぱなしのエロビデオ、気持ち悪くて捨てたの私です。スチュワーデスがとても好きな事は分かりました。

 さようなら、私の青春の日々。

 今西由佳、享年十五歳。お骨は横浜のお墓におばあちゃんと一緒に入れて下さい。

 私は死という冷たい暗闇のプールの中にずぶずぶと沈んで行った。



 ぼぼぼん


 ぼぼぼぼ


 む?

 何処かから聞こえる、何かを叩く様な音。何の音だろう? 私は徐々に意識を取り戻し、暗闇のプールから次第に浮上して行った。

 辺りはすっかり暗くなっていた。

 どうやら生きているらしい。しかし身体が尋常じゃなく痛い。車に撥ねられ全身打撲に腕と脚の裂傷。多分顔面も擦り切れている。鼻血も出た。全治一カ月というところだろうか。

 心身共にずたぼろ。何故この様な目に遭ったのか? 考えるまでもない。〈夏〉め、おまえのせいだ。

「うわああああああん!」

 私は喉が擦り切れそうな声を上げて怒鳴り散らした。

「滅びよ! 滅びよ! 夏よ!」


 ぼぼぼん


 ぼぼぼぼ


 泣き濡れた私の顔を花火たちが一斉に照らす。


 ぼぼぼん


 ぼぼぼぼ


 そういえば今日は花火大会だった。

 咲いては散り、咲いては散り。おまえら、この私の惨めな姿をカラフルに彩りおって。悔しいが面白いじゃないか。


「夏の花火だけは好きでいてやる」

 私は深呼吸をひとつついてから、ゆっくりと身体を起き上がらせた。

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滅びよ、夏よ。 鋼鉄狸(めたるたぬき) @higepo

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