第13話 紅の献身
それは、瞬きの間の出来事だった。
俊樹の死角から放たれた、紫色の毒液が滴る短剣。
『オモイカネ』の警告音が脳内で鳴り響いた時には、もう手遅れだった。回避行動が間に合わない。
俊樹が歯を食いしばり、痛みに備えたその瞬間。
「俊樹さんッ!!」
悲鳴のような叫びと共に、桃色の影が俊樹の前に割り込んだ。
ドスッ。
鈍く、嫌な音が肉を穿(うが)つ。
「あ……がっ……」
玲花の背中がビクリと跳ね、その小さな体が俊樹の胸に力なく倒れ込んできた。
彼女の左胸――心臓のすぐそばには、柄まで深々と短剣が突き刺さっていた。傷口からは、鮮血ではなく、ドス黒い粘着質の血が溢れ出し、美しい着物を汚していく。
「――れ、玲花?」
俊樹の思考が凍りついた。
目の前の光景が理解できない。いや、理解したくない。
玲花が、口から大量の血を吐き出す。
「げほっ……あ、ぐ……俊樹……さん……無事、ですか……?」
「馬鹿な……なんで……!」
俊樹が彼女を抱き留めると、その体温が急速に失われていくのがわかった。猛毒だ。致死性の毒が、彼女の小さな体を瞬く間に侵食している。
それを冷ややかに見下ろす暗殺者のリーダー。
『チッ、女が盾になったか。だが、次は外さ……』
男が言い終わることはなかった。
「……殺す」
地獄の底から響くような、怨嗟の声。
俊樹が顔を上げた。
その瞳から理性の光は消え失せ、あるのは漆黒の虚無と、制御不能の殺意だけだった。
――権能解放。『タケノミカヅチ(武の神)』・限界突破(オーバーロード)。
バヂチチチッ!!
俊樹の全身から、物理的なプレッシャーとなるほどの闘気が噴出した。
筋肉繊維の一本一本、神経伝達の速度が、人間の限界を遥かに超えて加速する。
「貴様ら全員、細切れにしてやる」
俊樹の姿が掻き消えた。
次の瞬間、リーダー格の男の視界が反転した。
自分の胴体が、遥か下に見える。首を斬られたことすら認識できない速さ。
『な……!?』
残った暗殺者たちが反応する暇もなかった。
俊樹は疾風となり、狭い室内を駆け巡った。
剣を振るうまでもない。
素手で敵の頭蓋骨を握りつぶし、肋骨を引き抜き、内臓をブチ撒ける。
「ギャアアアアア!!」
「バケモ……アガッ!!」
断末魔の合唱。
それは戦闘ではなく、ただの解体作業だった。
毒煙の立ち込める部屋に、鮮血の雨が降る。
五秒。
たった五秒で、二十人近い暗殺者たちは、原形をとどめない肉片となって床に散らばっていた。
「はぁ……はぁ……ッ!」
俊樹は血まみれの手で、最後の敵の首をへし折って投げ捨てると、すぐに玲花のもとへ駆け寄った。
毒煙は、関羽が窓を強引に破壊したことで薄まりつつあった。
「玲花! 玲花、しっかりしろ!」
「と、しき……さん……」
玲花の顔色は、土気色を通り越して黒ずんでいた。
俊樹は震える手で脈を取る。
弱い。あまりにも弱く、そして不整脈を打っている。毒が心臓に達しているのだ。
「ダメだ……解毒剤……いや、傷が深すぎる……!」
現代医学の知識を持つ俊樹だからこそ、わかってしまう。
心臓付近の大動脈損傷に加え、即効性の猛毒。現代の手術室に運び込んでも助かる確率はゼロに近い。
ここにはメスもなければ、輸血パックもない。
「兄上! 医者を! 早く医者を!」
俊樹が叫ぶが、駆け寄った劉備は玲花の様子を見て、悲痛な顔で首を横に振った。
助からない、と誰もが悟っていた。
「よかっ……た……」
玲花が、血に濡れた手で俊樹の頬に触れた。その手は氷のように冷たい。
「俊樹さんを……守れ……て……」
「喋るな! 今なんとくする! 俺が絶対に死なせない!」
「私……幸せ、です……。貴方に出会えて……貴方の役に立って……死ねるなら……」
玲花の瞳から光が失われていく。
彼女にとって、孤独に生きるよりも、愛する俊樹の盾となって死ぬことは、ある種の幸福な結末だったのかもしれない。
だが、俊樹は認めない。
「ふざけるな……! 勝手に満足して死ぬな! 俺はこんな世界を認めない!」
俊樹の目から涙が溢れ、玲花の顔に落ちる。
彼女の胸の上下動が、止まりかけている。
死神が、すぐそこまで来ている。
(何か……何か方法はないのか!? 俺には八百万の神の力が……)
俊樹は必死に記憶を検索し、一つの権能にたどり着いた。
これまで使うことをためらい、封印していた「禁断の力」。
――第10の権能。『イザナギ(生命の神)』。
瀕死の者を再生させる力。
だが、その代償は重い。対象に自分の血を与え、契約を結ぶことで、相手を「眷属」として作り変える。
それは、彼女が彼女でなくなることを意味する。
人としての尊厳を奪い、俊樹に対し絶対服従となる「所有物」にしてしまう行為。
(それでも……!)
俊樹は玲花を見つめた。
死なせるよりはいい。たとえ彼女が人間でなくなろうとも、傀儡(くぐつ)になろうとも、生きていてほしい。
それは俊樹のエゴかもしれない。
だが、この乱世で綺麗事など言っていられない。
「玲花、聞こえるか」
俊樹は消え入りそうな彼女の耳元で囁いた。
「助ける方法がある。だけど、それを使えば君はも今までの君ではなくなる。俺の命令に逆らえない、俺だけの『人形』になってしまうかもしれない。……それでも、生きたいか?」
玲花の瞳が、わずかに開かれた。
彼女は朦朧とする意識の中で、俊樹の言葉を反芻する。
俊樹さんの、人形。
俊樹さんだけの、モノ。
玲花の口元が、微かに、しかし確かに綻んだ。
それは恐怖ではなく、恍惚の笑みだった。
「……うれ、しい……」
蚊の鳴くような声。
「貴方の……本当の、モノに……なれるなら……私の全てを……捧げ、ます……」
契約は成立した。
俊樹は迷いを捨て、短剣を拾い上げた。
そして、自らの手首を切り裂く。
鮮血が滴り落ちる。
「飲め、玲花。俺の血を」
俊樹は血の滴る手首を、玲花の蒼白な唇へと押し当てた。
紅の契約が、今、結ばれようとしていた。
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