喜怒哀楽

漆峯七々

第1話 変化のない白黒の世界

感情って何だろう?

 それっていったい、どんな色?

 ボクには知るよしもない。

 明かりがついていない真っ暗な部屋で、ボクはベッドに身体を沈め、ぼーっと窓の外を眺めていると、そんなことを考えていた。

 ボクの頭の中のように、分厚い雲が綺麗な星空を覆い隠す。今にも雨が降りそうな暗く淀んだ雲は、お月様の姿さえ隠してしまった。

「お月様もボクを見てくれないの?」

 息が詰まりそうな空気に、窓から目を逸らし、布団を見つめていると、コンコンコンと乾いた音が部屋の中に響き渡り、ゆっくりと視線を向ける。

 誰が来たのか、すぐに分かった。

 そのせいで、余計に部屋の空気がさらに息苦しいものへと変わっていき、身体が石像のように動くのを止めてしまい、心臓の音だけが、耳にうるさく鳴り響く。それでも、答えないと。

 必死に体を動かしながら、一歩一歩、扉へと足を運ぶ。言うことを聞いてくれない身体をどうにか扉の前まで動かすと、震える声でボクは答えた。

「ママ?」

 喉が張り付き、声が出ていなかったのか、扉の向こうからはママの声が返ってこない。震える手をもう一方の手で押さえると、もう一度声をかけてみた。

「ボクくん……。ごめんね。ママ、夜遅くにお仕事に行かないといけないの。だからね、その……一人でお留守番できる? もし怖かったら、ママと一緒に来てもいいんだよ?」

 伸ばした指先が、ドアノブの前でピタリと止まった。動かそうとする意志に逆らうように指先が震えた。叫び出そうとする口を開くが声が出ない。まるで水の中の魚のように口をパクパクさせるだけだった。何もできないと分かると、ボクはゆっくりと手を下ろし、爪が食い込むほど強く手を握った。

 喉を駆け上がってくるボクの叫びを無理やり押し戻すと、ボクは開いた口をいつものように閉じる。奥歯を噛み締め、小さく息を吐く。

「大丈夫。一人でお留守番できる」

 まるで、まったく知らない人がボクの身体を借りて勝手に話しているようだ。

 再び訪れた暗く長い沈黙がボクにのしかかり、ボクの世界からさらに色を奪っていく。

 扉を開けなくてよかった。だって、今の顔をママに見せると、いつも悲しそうな顔をするから。

「……そう、なの?」

 しばらく続いた沈黙のあと、ママの息が詰まるような声を残して、足音が離れていくのを感じた。

 ボクの部屋は再び静寂に包まれる。

 ボクは自分の張り付いてしまった無表情が嫌いだった。だって、ボクを見るママは辛そうだから。友達もそうだ。ボクの無表情に初めは優しくしてくれるけど、次第にみんな離れて行ってしまう。

 もし、このままずっと無表情のままだったら、最後にはママも……。

 目の前が真っ暗になりそうになりながらも、ボクは心に湧き上がる全てのモノを箱の中に押し込んでいく。心が空っぽになると、何も感じることのない足でベッドへと戻っていく。

 大丈夫。明日にはママが帰ってきてくれる。そう願うたびに、胸が温度を失われてゆき、いくら布団をかぶっていても、身体が冷えていってしまう。

 耐え切れなくなったボクは、布団で乱暴な手つきで頭まで覆い隠すと、なぜだか、安心したかのように、次第にボクの意識は遠のいていった。



* * *

 どれくらい時間が経っただろう。

 激しく窓を叩きつける雨の音に目を覚ましたボクは、目をこすりながら、部屋を見渡す。

 暗闇が支配する部屋には、怒鳴りつけるような強い雨だけが鳴り響いていた。

 ……雨だ。

 雨音と共にボクの心の中にも同じ灰色の雨が降り出したのを感じた。急いで扉の方へと視線を向ける。

「ママ、帰ってきてくれたかな」

 暗闇を手探りで進みながら、扉へと向かい、ドアノブに手をかける。震える手で頑張って扉を開ける。目に映るのは、同じ真っ暗闇のリビングだった。

 じめっとした重たい空気が部屋の中に流れ込んでくる。全身にまとわりつく空気に慌ててリビングに出ると、ボクは自分の部屋の扉を勢いよく閉めると、暗闇の中、壁を頼りにママの部屋へと向かっていった。

 ママの部屋の扉が少し開いていた。

「ママ?」

 ママが帰ってきたと思うだけで、失われた胸の温度が、ママという太陽を求めるように、わずかに脈を打ち始めた。身体の芯から熱が込み上がり、力強く扉を開けた。

 静かに閉じられたタンスに、人のぬくもりを忘れたベッド。主人の帰りを待つ化粧台。気配がない静まり返った部屋にいなかったのは、ママだけ。

 太陽を見失い、熱を帯びていた身体は、思い出したように温度を失っていく。

 期待なんかしていなかった。

 逃げ出したい一心で、ボクは扉の隙間を狭めていく。けれど、扉が半分ほど閉まったところで、ボクの足は縫い留められたように動かなくなった。

 誰もいないはずの暗闇から、強烈な視線を感じる。

 それは悪いものじゃない。

 もっとボクを思って、祈るような、自分で自分を引き止めるような、引力に似ている感覚。

 無意識のうちに扉から手を離していた。導かれるように振り返った先には、一番星のように光を放つ三面鏡が目に飛び込んできた。

 それは、ママのお気に入りの三面鏡の化粧台。

 それは、ボクが遠ざけていた化粧台。

 目を逸らそうとしたボクに反して、吸い寄せられるように身体はママの部屋へと入ってゆく。あっという間に三面鏡の前まで来ていた。

 ここまで来ると、一番星が何だったのか確かめたい。そんな気持ちが心をよぎると、三面鏡の前の椅子によじ登り、鏡の中をじっくりと覗き込む。

 そこには、部屋の外から見えていた一番星はどこにもなく、ただ、まるで他人の顔が、じっとボクの顔をにらみつけるように見つめていた。視線から逃れるように、左を向くと、ボクを嘲笑っているかのように見つめられ、慌てて右の鏡から目線を逃がすと、同じような知らない顔がそこにはあった。

 取り囲む全ての鏡が冷たく突き刺す視線で、ボクの逃げ場を奪っていく。

 椅子から転げ落ちるようにして椅子から降りると、鏡を見ないように背中を向けた。

「ボクくん、行っちゃうの?」

 背中から聞こえてきたのは、ガラスに触れ合うような、冷たくも美しい響きを持った声だった。

 誰もいないはずの部屋。ボクは恐る恐る、三面鏡へと振り返る。

 そこにはシャボン玉のような球体が浮かんでいたが、それは単なる泡ではなかった。七色に揺らめくその表面には、ボクの顔が映り込んでいた。

 けれど、ボクじゃない。

 鏡の中のボクは、あどけなく、柔らかく、幸せそうに微笑んでいた。

「だ、だれ?どうして、笑っているの?」

「これが本当のキミ。それとも君が捨ててしまったキミかな」

 球体は内側から点滅し、自身を「精霊」と教えてくれた。精霊はただ淡々と、事実だけを突きつけてきた。

「もし、笑顔が手に入れば、ママはもう悲しまないかもしれないね」

 その言葉は、鋭い棘のように胸の柔らかな部分を突き刺した。

 精霊はまるでその可能性を見せるように景色を変えた。笑っているボクを見てママが、涙を浮かべて、今まで見たことがないほど、嬉しそうにボクを抱きしめる光景だった。

「……ほしい」

 無意識に言葉が漏れていた。

 この白黒の世界で、ボクがどれだけ願っても手に入らない物がそこにはあった。

「こっちにおいで。この向こうには、色が、音が、そして心が溢れている」

 怖いという感情よりも、焦がれる気持ちが勝った。

 この先に進めば、ボクも笑えるの?

 ママを悲しませないかな?

「行きたい。……ボクを、連れて行って」

 震える手を伸ばし、精霊さんに触れた。球体は音もなく膨張し、ボクの全身をその極彩色の光の中へと呑み込んでいった。そこには嗅いだことのない甘く心地よい香りが満ちていた。

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