第三話 無明丸
影刻が棟梁となって三年が過ぎた頃のことだった。
その日も、寄り合いは淡々と終わった。
作戦の詰めも、人の割り振りも滞りなく進み、誰一人として声を荒らげることはなかった。
だが、ひとつだけ、いつもと違うことがあった。
羽墨が、何も言わなかったのだ。
かつては必ず一度は口を挟んだ。 判断の早さを戒め、慎重さを説き、若い者の先走りを止める役を担っていた。それが、羽墨という男だった。
この日は違った。 影刻が結論を告げると、羽墨は黙って頷いただけだった。
寄り合いが散じたあと、影刻は羽墨を呼び止めた。
「羽墨」
名を呼ばれ、羽墨は足を止めた。
振り返るその顔に、疲れはあったが、迷いはなかった。
「何かあれば言ってほしい」
「……いや」羽墨は首を横に振った。「今日の判断は正しい。速さも、割り切りも、今の神衛衆には必要なものだ」
「だが――」
影刻の言葉を、羽墨は静かに制した。
「わしが口を出せば、鈍る」一拍置き、羽墨は続けた。「気づいておる。皆が、もう儂を見ておらんこともな」
影刻は言葉を失った。 否定しようとして、それが出来ないことを悟った。
「老いた、ということだ」
羽墨は笑った。自嘲ではなく、受け入れた者の笑みだった。
「お前が悪いのではない。時が、進んだだけだ」
影刻は深く頭を下げた。その肩に羽墨が優しく手を置いた。
「元々先代が退いた時に、儂も退くつもりでおった。しかし、先代に頼まれての。そなたと真四郎を見てやって欲しいと。儂なりに導いたつもりだが、もうその必要もないと悟った」
羽墨はどこか遠くを見ていた。
「これまで、支えてくれたこと、忘れぬ」
羽墨は、最後に影刻の目を見た。
「お前はもう、一人で立っておる。 儂は、後ろに立つ役を終えただけだ」
その数日後、羽墨は小頭の座を退いた。
大きな儀も、別れの言葉もなかった。ただ、次の寄り合いに羽墨の席がなく、それを誰も不思議に思わなかった。
その静けさこそが、 神衛衆が次の形へ移った証だった。
羽墨が小頭の座を退いてから、ほどなくして影刻は一人の名を挙げた。
隠番より、
異論は出なかった。異論が出る前に、皆がその名を知っていたからだ。
無明丸は巨漢だった。背は高く、肩幅があり、鎧を着せれば壁のように見える。だが物腰は柔らかく、声も低い。命じられれば「はい」とだけ答え、余計なことは言わない。
得物は棍。
無骨な木の棒を握り、体術と合わせて振るう。刀も使えるが、好んでは使わなかった。
ただひとつ、困ったことがあった。 棍が、もたない。訓練のたびに、棍は折れ、砕け、ひびが入った。
当たった相手が避けたのではない。受けた棍の方が耐えきれずに壊れる。
その日も、訓練が終わると地面には折れた棍が二本転がっていた。三本目は、すでに片づけられている。
無明丸は、壊れた棍を前に立ち尽くし、困ったように首の後ろを掻いていた。
「……また、か」真四郎が低く言った。「勢いがありすぎる」
「いや」影刻は首を横に振った。「抑えとる」
「そうは見えぬが」
「力を抜いている。だが……通している」影刻は折れ口を見た。「棍に力を当てているのではない。力を、そのまま向こうへ渡しとる」
真四郎は棍を拾い上げ、木目を確かめた。刃で断った痕はない。潰され、砕かれている。
「……器が合っておらんのだな」
「そうだ」 一拍置き、影刻は続けた。 「無明丸は、まだ本来の力を出しとらん」
「出していない、か」
「出せていない、と言うべきやな」
真四郎は、静かに息を吐いた。
「なら、矯めさせる話ではないな」
「折れず潰れぬものを持たせる」
二人の視線が、同時に無明丸へ向いた。
無明丸は、折れた棍を拾い上げ、深く頭を下げた。
「申し訳ありません……」
「気にするな」
影刻は、それだけ言った。
数日後。影刻は一本の棍を無明丸に渡した。イスノキ製の棍だった。 密で重く、しなりがあり、叩けば岩をも砕く材だ。
「折れるなら、折れぬものを使え」
「……よろしいので?」
「お前に合う」
無明丸は多くを語らず、ただ深く頭を下げた。
その棍を持った日から、訓練場の空気が変わった。 棍は折れなかった。刀は弾かれ、槍は砕かれた。
無明丸は力を抑えず、だが暴れもしない。踏み込みは重く、打撃は一つひとつが確実だった。
誰も間合いに入らなくなった。 相対する者が、無意識に距離を取る。
「……あれは、別格だ」
誰かが呟いた。
影刻は、その様子を黙って見ていた。無明丸は振り返り、影刻に一礼したその目には、迷いも、慢心もない。ただ、信じる背中だけが映っていた。
こうして神衛衆は、また一つ形を変えた。 守る者が去り、壊す力が加わる。
この男が、やがて並び立つ者なき一角となることを、この時すでに、誰もが薄々と悟っていた。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます