第2話 ニートは1日1ターン制

 朝、目が覚めた瞬間に感じるのは、希望ではなく「継続」だ。

 今日もまた、何者でもない三上悟としての一日が始まるという、無慈悲な継続。

 のっそりとベッドから這い出し、洗面所へと向かう。鏡に映るのは、昨日よりも一日分だけ劣化した自分だ。寝癖のついた黒髪、覇気のない瞳、伸びかけた髭。

 歯ブラシに歯磨き粉を乗せ、口へと運ぶ。電動ではなく、普通の手磨き用ブラシだ。シャカシャカという単調なリズムが、静まり返ったアパートの一室に響く。


 この単調なリズムは、時折、思考の呼び水になる。それも、あまり良くない方向への。


(……このままで、いいわけないよな)


 泡立つミントの香りが口内に広がるのと同時に、脳裏にはどす黒い不安が広がり始めた。

 今はいい。親がいる。アパートの家賃も光熱費も、最低限の食費も、親のすねという太いパイプから供給されている。だが、そのパイプは永遠ではない。生物学的な事実として、親は僕より先に死ぬ。

 親が死んだらどうなる?

 供給は断たれる。アパートを追い出される。電気も水も止まる。

 その時、僕はどうやって生きていく?

 職歴なし。空白期間三年(現在進行形で更新中)。年齢は加算され続け、市場価値は減算され続ける。


「うぐ……」


 口をゆすごうとして、少しえずいた。

 思考が飛躍する。

 同級生たちは今頃、結婚を考えたり、子供の名前を考えたりしているのだろうか。家族という最小単位の社会を形成し、守るべきものを持って生きている。

 僕には守るものがないどころか、自分自身さえ守れるか怪しい。結婚? 子供? そんなものはSF映画の出来事よりも遠い。自分の遺伝子を後世に残す資格など、今の僕には欠片もない。


 ぺっ、とシンクに泡を吐き出す。

 白い泡が水流に飲まれ、排水溝の闇へと消えていく。まるで僕の将来のようだ、なんて陳腐な比喩を思い浮かべて、自嘲気味に笑った。


 顔を洗い、タオルで拭く。

 とりあえず、外の空気を吸おう。ほんの少しだけ。

 僕は玄関のドアを開けた。

 外は曇り空だった。直射日光がない分、目には優しい。

 サンダルを突っ掛け、数歩歩いて集合ポストへ向かう。どうせチラシしか入っていないことは分かっている。水道トラブルのマグネットか、ピザ屋のチラシか、怪しげな不用品回収のビラ。それを回収してゴミ箱に捨てるのが、僕の数少ない「家事」の一つだ。


 ダイヤル錠を回し、ガチャリと扉を開ける。

 そこには、見慣れない黄色い冊子がねじ込まれていた。


「……は?」


 思わず声が出た。

 『タウンワーク』。

 その表紙には、満面の笑みを浮かべたモデルたちと、力強いフォントで書かれた「仕事探しはタウンワーク」の文字。

 僕は周囲を見回した。誰もいない。

 駅の改札前や、コンビニの入り口付近にあるラック。そこに鎮座しているはずのフリーペーパーが、なぜ個人の家のポストに?

 ポスティング業者が間違えたのか? それとも、新手の嫌がらせか?

 あるいは――神様とやらが、「いい加減働け」と僕の家に直接デリバリーしてきたのか。


 心臓が少しだけ早く脈打つ。

 普段なら、興味のないチラシと一緒にゴミ箱行きだ。

 けれど、昨日の夜「そろそろ働こうかな」と思った記憶が、指先を止めさせた。

 僕はその黄色い冊子を引き抜いた。

 ずしり、と紙の重みを感じる。それは情報の重みであり、社会の重みだった。


「……とりあえず、持って入るか」


 まるで爆発物処理班のような慎重さで、僕はタウンワークを抱えて部屋に戻った。

 鍵を閉める。外の世界との遮断完了。

 リビングのローテーブル。飲みかけのペットボトルやゲームのコントローラーが散乱するその中央に、黄色い冊子を置く。

 異物感がすごい。

 聖域に持ち込まれた異教の経典のようだ。


 とりあえず、朝食だ。

 腹が減っては戦(という名の現実逃避)はできぬ。

 冷蔵庫から食パンを取り出し、トースターに放り込む。焼けるのを待つ間、僕はテーブルの上のタウンワークを横目でチラチラと見ていた。中を開く勇気はまだない。

 チン、という音がして、香ばしい匂いが漂う。

 マーガリンをたっぷりと塗り、齧り付く。サクサクとした食感と油分が脳に糖分を送る。

 いつもの朝食。いつもの風景。そこに加わった一冊の求人情報誌。

 そのコントラストに居心地の悪さを感じながら、僕はパンを胃に流し込んだ。


 食後。

 僕は無意識のうちに「儀式」を行っていた。

 デスクに向かい、椅子の背もたれに深く体を預ける。

 目の前にあるのは、黒いタワー型のデスクトップPC。Lenovo製。

 これは僕が十七歳の時、高校の成績が少し上がったご褒美に親に買ってもらったものだ。当時は最新鋭のスペックを誇っていたが、六年経った今では中堅クラスと言ったところか。それでも、増設したメモリと換装したグラフィックボードのおかげで、現役で戦える相棒だ。

 親の脛をかじって得た武器。それが僕の唯一の誇りであり、逃げ場所でもある。


 電源ボタンを押し込む。

 ブォォン、とファンが唸りを上げ、空気を吸い込み始める。この音を聞くと落ち着く。パブロフの犬のように、脳内麻薬が分泌されるのを感じる。

 モニターに『Lenovo』のロゴが浮かび上がり、数秒でWindowsのロック画面が表示される。

 パスワードを入力。エンターキーをッターン!と強めに叩く。

 デスクトップ画面が現れる。壁紙は某アニメの美少女キャラだ。

 マウスを握り、カーソルを滑らせる。

 迷いはない。デスクトップの中央付近に配置された、赤いアイコン。

 『Apex Legends』。

 ダブルクリック。


 画面が暗転し、EAのロゴが表示される。

 ヘッドセットを装着する。現実の音――冷蔵庫の音や、外のカラスの鳴き声――が遮断され、重厚なBGMが鼓膜を震わせる。

 ここから先は、三上悟ではない。ID名『Lazy_Killer』としての時間が始まる。

 ロビー画面。愛用しているキャラクター『レイス』が、クナイを回しながらこちらを見ている。

 フレンドリストを見る。オンラインの人間は数人いるが、招待は送らない。

 僕は基本、ソロだ。野良(見知らぬ他人)と即席のチームを組み、言葉を交わさずとも連携を取り、チャンピオンを目指す。それが僕の美学であり、コミュ障なりの処世術だ。

 ランクマッチを選択。

 現在、プラチナ帯。シーズンが変わったばかりだから、まだこの位置だ。本来の実力はダイヤ、調子が良ければマスターも狙える……はずだ。


 マッチング完了。

 キャラクター選択画面を経て、ドロップシップからの降下。

 眼下に広がる荒廃したフィールド。

 ジャンプマスターは僕だ。ピンを指し、激戦区を避けた少し外れのエリアへと降下する。

 着地。

 動作に無駄はない。ドアを開け、サプライボックスを開け、武器を拾う。

 手に入れたのは『R-99』と『ピースキーパー』。近距離最強の構成だ。

 よし、いける。


 野良の味方二人が先行して敵と接触した。

 銃声が響く。シールドが割れる音。

「撃たれてる!」というキャラクターのボイス。

 僕は即座にカバーに向かう。スライディングジャンプで距離を詰め、壁を登り、敵の側面に回り込む。

 視界に敵の『オクタン』が入った。

 こちらには気づいていない。

 エイムを合わせる。引き金を引く。

 ダダダダダダッ!

 R-99の高速連射が敵を襲う――はずだった。


「……あれ?」


 レティクルは敵を捉えているはずなのに、ダメージ表記の数字が跳ねない。

 敵が小刻みに左右に動き、弾丸を避けている。いや、僕のエイムが追いついていないのか?

 一マガジン撃ち尽くして、敵のアーマーすら割れない。

 リロード。その隙は致命的だ。

 敵がこちらを向く。ショットガンが火を噴く。

 ドォン!

 一撃で僕のシールドが砕け散った。

「やばっ」

 虚空(無敵移動スキル)を使おうとボタンを押すが、コンマ一秒遅い。

 追撃の一発。

 視界が灰色になり、僕のレイスはその場に膝をついた。


『ダウンしたわ!』


 味方も次々と倒されていく。

 部隊壊滅。

 画面には無情な『GAME OVER』の文字。

 リザルト画面。僕の与ダメージは『45』。

 45ダメージ? パンチ二発分以下?


「……嘘だろ」


 たまたまだ。運が悪かった。ラグがあったのかもしれない。

 僕は自分に言い聞かせ、次のマッチへ向かう。

 しかし、結果は散々だった。

 撃ち合いで勝てない。判断が遅れる。安置移動で待ち伏せされる。

 普段なら無意識でできていた「有利ポジションの確保」や「射線管理」が、今日に限ってまるでできない。

 まるで、指先が錆びついているようだった。

 あるいは、昨日から頭の片隅にこびりついている「働こうかな」というノイズが、反射神経を鈍らせているのか。


 五戦連続、初動死あるいは低順位での敗北。

 味方の野良プレイヤーから、テキストチャットで『noob(下手くそ)』と暴言が飛んできた。

 普段なら無視するか、「うるせえ」と吐き捨てる場面だ。

 だが、今日はその四文字が、鋭利なナイフのように胸に突き刺さった。


 ゲームの世界。僕が唯一、他人より優れていると自負できる場所。

 現実社会で落ちこぼれた僕が、唯一「強者」として振る舞える聖域。

 そこでさえ、僕は負けた。

 顔に泥を塗られたような屈辱。熱くなる頬。


「……やめだ、やめ!」


 僕はヘッドセットをもぎ取り、机に叩きつけた。

 Alt+F4キーでゲームを強制終了させる。

 逃げるようにデスクトップ画面に戻った。

 心臓が嫌なリズムで脈打っている。イライラと、自己嫌悪と、情けなさがない交ぜになった最悪の気分だ。


 ふと、壁掛け時計を見る。

 丸いアナログ時計の短針と長針が、頂点で重なろうとしていた。

 正午。十二時。

 もう昼か。

 朝起きて、パンを食べて、ゲームでボコボコにされてイライラしていただけで、午前中が終わった。

 何も生産していない。何も進んでいない。

 ただ時間を浪費し、ストレスを溜めただけ。


「腹減った……」


 ストレスを感じると腹が減る。人体の不思議であり、デブの素質だ。

 僕はキッチンへ向かい、棚から『日清焼そばU.F.O.』を取り出した。

 濃い味を求めている。このイライラを、濃厚なソースの味で塗り潰してしまいたい。

 フィルムを剥がし、蓋を開け、かやくを入れる。

 お湯を注ぎ、三分待つ。この三分間は、午前中のゲームの反省会にはならなかった。ただぼんやりと、湯切りの口を見つめていただけだ。


 湯切りをして、液体ソースをかける。

 ジュワァ、という音と共に、鼻孔を強烈に刺激するスパイシーな香りが立ち上る。これだ。この暴力的なまでのソースの香りだけが、今の僕の荒んだ心を癒やしてくれる。

 青のりをふりかけ、箸で豪快に混ぜる。

 ズルズルッ!

 太麺を啜り上げる。美味い。間違いのない味だ。


 焼きそばを啜りながら、僕はPCのマウスを操作した。

 ゲームをする気力はない。かといって、無音で食事をするのも寂しい。

 動画フォルダを開く。

 そこには、大量の未視聴アニメが眠っている。

 その中から、一つのタイトルが目に止まった。


『負けヒロインが多すぎる!』


 これは……そうだ。去年の夏頃、録画だけして放置していたやつだ。

 当時は、なんていうか……そう、一種の「忙しい会社員ごっこ」をしていた時期だった。

 いや、正確には「短期のデータ入力バイト」に受かって、ほんの二週間だけ通っていた時期だ。結局、朝起きるのが辛くて、人間関係が億劫になってバックれてしまったのだが。

 あの頃は「帰ったらアニメを見る時間もないくらい疲れている俺」に酔っていて、録画リストに溜まっていく未視聴のアニメを見ては「忙しいからなぁ」と悦に入っていた。

 その遺産だ。


「負けヒロイン、か。……今の俺にぴったりじゃん」


 自虐的な独り言と共に、再生ボタンを押す。

 画面の中で物語が動き出す。

 恋に敗れた少女たち。いわゆる「負けヒロイン」たちにスポットを当てた物語。

 しかし、彼女たちはただ惨めに泣いているだけではなかった。

 泣いて、喚いて、食べて、走って。

 失恋という痛みを抱えながらも、全力で「今」を生きていた。

 主人公の温水和彦もまた、達観しているようでいて、彼女たちと向き合い、彼なりに青春の中を走っていた。


 焼きそばを啜る手が止まる。

 画面の中の彼らは、なんて眩しいんだろう。

 「負け」というタイトルを冠していながら、彼らの瞳には光が宿っている。

 それに比べて、僕はどうだ。

 ゲームで負けて、ふてくされて、カップ焼きそばを啜っている。

 勝負の舞台にすら上がっていない。

 負けることすらできていない。戦っていないからだ。

 彼らは「負けヒロイン」かもしれないが、人生という物語の「主人公」だ。

 僕は?

 僕は、モブですらない。背景の書き割りだ。


 最終話まで一気見してしまった。

 エンディングが終わる頃には、U.F.O.の容器は空になり、冷え切ったソースの脂が白く固まっていた。

 胸の中に残ったのは、温かい感動と、それ以上に重くのしかかる、冷たい後悔だった。


 感動して「よかった」で終われないのが、今の僕の病理だ。

 彼らの青春の輝きが、僕の三年間という空白の暗さを際立たせる。

 あんな風に、誰かと関わりたい。

 あんな風に、何かに必死になりたい。

 たとえ負けたとしても、笑い話にして飯を食いたい。


 視界の端に、黄色い冊子が映った。

 『タウンワーク』。

 朝、ポストに入っていた異物。

 PCのモニターの光を受けて、表紙のモデルたちが「こっちに来いよ」と笑っているように見えた。


 僕は震える手でそれを引き寄せた。

 ページをめくる。

 紙の匂い。インクの匂い。

 文字の羅列。

 『ホールスタッフ募集』『未経験歓迎』『アットホームな職場です』『軽作業』『深夜配送』。

 無数の仕事。無数の人生。

 これらの一つ一つに、誰かが働いていて、誰かの生活がある。

 この世界は、こんなにも選択肢で溢れていたのか。

 ネットの求人サイトは検索条件で絞り込んでしまうから、自分に関係のない世界は見えない。でも、紙の雑誌は違う。ページをめくるだけで、僕が絶対に選ばないような職種も目に飛び込んでくる。


 僕はペン立てからボールペンを抜き取った。

 インクが出るか、チラシの裏で試し書きをする。黒い線が引けた。

 深呼吸。

 自分でも出来そうなバイト。

 いきなり接客は無理だ。ハードルが高すぎる。

 となると、裏方か。

 『倉庫内ピッキング』。これなら人と話さなくて済むか?

 赤ペンで丸をつける。

 キュッ、という音がした。

 ただの丸だ。契約書にサインしたわけでもない。

 けれど、その赤い丸は、僕にとって革命の旗印のように見えた。


 ページをめくる。

 『データ入力』。これは経験がある(二週間だけだが)。

 丸をつける。

 『清掃スタッフ』。早朝。これなら生活リズムも直るかもしれない。

 丸をつける。

 『交通量調査』。座っているだけ? いや、暑いのはきついか。でも一応。

 丸をつける。


 ページをめくるたびに、新しい可能性が提示される。

 コンビニ、スーパー、警備員、工場。

 世界は広い。僕が部屋に引きこもってゲームをしている間も、世界はこうして回っていたのだ。

 僕を受け入れてくれる場所が、もしかしたらこの中にあるかもしれない。

 一つ丸をつけるたびに、止まっていた時計の針が、カチリ、カチリと音を立てて動き出すような錯覚を覚えた。

 これは、人生を変える儀式だ。

 僕は確信した。この一冊が、僕の翼になるんだ。


 一通り目を通し、十個ほどの求人に丸をつけ終えた時、猛烈な疲労感が襲ってきた。

 肉体的な疲れではない。脳の使いすぎだ。

 未来を想像するというのは、これほどまでにカロリーを消費するのか。

 希望と不安の乱高下。ジェットコースターに乗った後のような虚脱感。

 プツン、と糸が切れたように、集中力が途切れた。


「……つかれた」


 僕はタウンワークを閉じ、机の上に放り出した。

 もう何も考えられない。

 今日は頑張った。

 朝起きて、歯を磨いて、タウンワークを拾って、ゲームで負けて、アニメで感動して、求人に丸をつけた。

 偉業だ。ニートにとっては、これは一週間分の活動量に匹敵する。


 時計を見る。午後四時。

 中途半端な時間だが、もう限界だ。

 僕はふらふらと立ち上がり、ベッドへと向かった。

 まだ外は明るいけれど、カーテンを閉め切った部屋は薄暗い。

 布団に潜り込む。

 タオルの匂いと、自分の匂い。安心する匂い。

 瞼が鉛のように重い。


 意識が遠のく中、僕はぼんやりと思った。

 普通の社会人は、仕事をして、帰ってきて、家事をして、趣味の時間を持って、勉強したりするらしい。

 信じられない。マルチタスクなんてレベルじゃない。

 僕には無理だ。

 求人に丸をつけるという「行動」を起こしただけで、一日の全エネルギーを使い果たしてしまった。


「ニートって……1日1ターン制なんだな……」


 呟きは、誰に届くこともなく部屋の空気に溶けた。

 次のターンは明日だ。明日の僕が、丸をつけた中からどこかに電話をかける……かもしれない。

 かけないかもしれない。

 それは、明日のターンが回ってきてから決めればいい。

 今はただ、セーブポイントで休息を取るだけだ。

 僕は深い、深い眠りの底へと落ちていった。

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