蝕夢

@polopolomango-

第1話

最近、寝つきが悪くて――

そう言って、女性の患者さんは私の前に座った。


私は町の小さな心療内科で働いている。

だからこの手の相談は、決して珍しいものではなかった。


「生活習慣で、何か思い当たることはありますか?」


慣れた口ぶりでそう尋ねると、彼女は首を横に振った。

規則正しい生活、適度な運動、特に強いストレスもないという。


違和感を覚えながら、私はもう一歩踏み込んだ。


「なぜ、寝つきが悪いと感じるのですか」


彼女は少し間を置いて、こう答えた。


「私の夢が、虫に蝕まれているんです」


あまりにも現実味のない言葉だった。

冗談だろうと思ったが、彼女の目はひどく真剣だった。


「もう少し、詳しく教えてもらえますか」


そう促すと、彼女の表情が強張った。


「夢の中で、現実に関わっている風景が出てくるんです。

そこに、幼虫みたいな虫が現れて……人の顔や、建物を食べるんです」


「食べられた部分は……思い出せなくなります」


私は言葉を失った。


「今のところ、どれくらい消えていますか」


「建物の名前と住所が五件。人物の名前が八件」


もし、この話が本当なら。

すべて食い尽くされた先には、何が残るのだろうかと考える。


私は彼女を脳外科に紹介した。

少なくとも、脳に異常がないか確認する必要がある。


数日後、彼女は再び来院した。

明らかに、以前より衰弱していた。


「検査結果は?」


「……脳に、問題はありませんでした」


だが、呂律が回っていない。

単語を一つ一つ、区切るように話す。


「症状は、どこまで進んでいますか」


彼女は、泣き出しそうな顔で言った。


「先生……私、単語が、わからないの」


胸の奥が、ひやりと冷えた。


「虫に食べられるときは、どんな感じですか」


「夢の中で、本を読んでいると……

虫が這ってきて、文字を食べるんです」


「どれだけ消えたのかも、わからなくて……怖くて……」


彼女は、とうとう泣き崩れた。


救いたかった。

だが、症例がない。歴史上、一度も。


私は、せめて眠れるようにと睡眠薬を処方した。


「先生、変な話ばかりしてすみません。

悪いところを……がんばって聞いてくれて、ありがとうございます」


三十歳という年齢に似つかわしくない言葉が、妙に引っかかった。


その朝、私はニュースを見ていた。


『東京都在住〜さん(30)都内ビル屋上から飛び降り自殺

遺体の口の中から多数の蝶』


名前と年齢を見て、腰が抜けた。

あの彼女だった。


その夜、私は眠れなかった。

脳内に、勝手に日常の映像が浮かび続ける。


気づけば、私は夢の中にいた。

現実と区別のつかない、異様にリアルな夢。


なぜか、ひどく疲れる。

私は、公園のベンチに腰を下ろした。


すると、白いキャンバスのような空間がもくもく浮び上がり、彼女の顔が映し出された。


その顔を見て彼女は亡くなるには早すぎると痛く悲しんだ。


瞬間、目が覚めた。


数日後、別のニュースが流れた。


『自殺とみられていた女性

未だ原因不明』


私は、恐ろしいと思った。

それだけだった。


今日の一日は、やけに早く過ぎた気がする。

だが気にせず、私は眠りについた。


夢の中で、私は自分の病院を見に行った。

中は、現実と何も変わらない。


外へ出た瞬間、病院と私がどんどん小さくなっていくのだ。この不思議な光景に私は困惑した。


大きな影を感じ、後ろを見ると、幼虫がいた。私は食われるのか。そう思った。


だが幼虫は病院しか食べなかった。


私は、助かった。


朝起きても、不思議と何もやる気が出ない。


――数日後。

私は精神科を訪れた。


「私の夢が、虫に蝕まれているのです」


医師は、私を見つめながら思った。

この彼女の身体には、一体何が起きているのだろうかと。

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