黒-蜘蛛-毒 ~蜘蛛を操るだけのFランク冒険者、その正体は世界を喰らい尽くした「始祖」でした~

杜鵑

第1章 始祖の気まぐれ

第1話 滅びた世界の観測者

 世界は、かつて一度、音もなく死んだ。


 ある晴れた火曜日の午後。それは唐突に訪れた。「大消失(ザ・フェイディング)」と呼ばれる現象が、惑星全土を慈悲なく覆い尽くしたのだ。  前触れはなかった。警報も、ニュース速報も、神に祈る猶予さえもなかった。  東京の喧騒も、ニューヨークの摩天楼も、サハラの静寂も。あらゆる場所で、あらゆる人々が、その瞬間に行動を停止した。


 アスファルトに、オフィスの床に、公園のベンチに。人類は地面に自身の「影」だけを黒々と焼き付け、その肉体を光の粒子と化して消滅した。  八〇億の命が、瞬きする間にただの「黒いシミ」へと変わったのだ。


 それから、どれほどの時が流れたのだろうか。  主を失った文明の残骸は風化し、大地は再び緑に飲み込まれた。  大気中に満ちた未知のエネルギー粒子――後に「魔素(マナ)」と呼ばれることになる物質――によって、地球上の動植物は異形の魔物へと進化を遂げた。  かつての青い星の面影は消え失せ、弱肉強食の理(ことわり)が支配するファンタジー世界へと変貌していた。


 そんな悠久の静寂の中で、世界に刻まれた八〇億の影のうち、たった一つだけ、揺らぐものがあった。  深い森の奥。苔むしたコンクリートの残骸――かつてビルだったもの――に焼き付いていた、小さな子供の影。  それが、泥のように盛り上がり、立体を取り戻していく。


 やがて、影は一人の少年の形を成した。  彼の名はシン。  全てが【ゼロ】になった世界で、影から人の形を取り戻した最初の「人間(ファースト・ワン)」である。


          ◇


 目覚めた時、シンは五歳の肉体を持っていた。  記憶はない。知識もない。  あるのは、魂を焦がすような激しい飢えと、掌に刻まれた【ゼロ】と呼ばれる才能の感覚だけだった。


 彼が生きるために目覚めさせた能力は、Fランク『蜘蛛操作』。  指先から糸を出し、小さな蜘蛛を操るだけの、あまりにも貧弱な力。  魔物が跋扈するこの森で生き抜くには、それはあまりに頼りない「ハズレ枠」の能力に見えた。


 だが、ある日、シンは気づく。  自分の操る蜘蛛が、獲物を仕留めた時のことだ。


「……食え」


 幼いシンの命令に従い、無数の小蜘蛛が一角ウサギの死体に群がる。  蜘蛛たちは牙から消化液を注入し、肉を溶かし、啜り尽くしていく。  その瞬間だった。シンの体内に、奇妙な熱が流れ込んできたのは。


「……ん? 足が……軽い?」


 シンはその場で軽く跳躍してみた。  今まで届かなかった木の枝に、いとも簡単に手が届く。  体の中に、自分のものではない「脚力」が備わっている感覚。


 ――ウサギの【ゼロ:脚力強化】を奪ったのか。


 シンは本能で理解した。  自分の蜘蛛は、ただの虫ではない。  食べた相手の能力【ゼロ】を奪い取り、自分の力として還元する「収奪端末」なのだと。


          ◇


 それから、永い永い「食事」の時間が始まった。


 森に棲む魔物を片っ端から罠にかけ、毒で溶かし、能力を啜り尽くす。  硬い亀を食えば皮膚が鋼のように硬くなり、毒蛇を食えば血液が猛毒へと変わる。  風を操る鳥を食えば空を飛び、土に潜るモグラを食えば地脈を感知する。  そうして奪った数多の【ゼロ】を体内で練り上げ、合成し、より上位の能力へと昇華させていく日々。


 最大の転機は、十三歳の時。  森の主であるSランク魔物『時喰らい(クロノス・ミスト)』との遭遇だった。


 実体を持たず、霧のように漂いながら、触れたものの時間を奪い去る最悪の化け物。  シンの肉体も、触れた端から風化し、崩れ落ちていく。  勝てる相手ではなかった。本体であるシンが近づけば、即座に寿命を吸われて塵になる。


 だが、シンは諦めなかった。  彼には、それまでの捕食で得た二つの切り札があった。  【眷属召喚】と【分身作成】。  シンはこの二つの【ゼロ】を体内で合成し、一つの「器」を作り出した。


 ――【分身体(アバター)】。


 それはシンの魔力で編み上げられた、命なき人形。  姿形すら意のままになるその器を、シンは巨大な蜘蛛の形へと変貌させ、自身の持つ膨大な【ゼロ】を惜しげもなく付与した。  本来、人間は一つの【ゼロ】しか持てない。許容量を超えれば器が壊れる。  だが、この分身体は紛い物ゆえに、壊れるまで無限に力を注ぎ込むことができた。


「行け」


 シンは木の陰から操り、蜘蛛の形をした分身体を特攻させた。  『時喰らい』の霧に触れ、分身体が急速に老化し、崩れ落ちる。  だが、そのわずかな時間に、数億の小蜘蛛たちが霧に食らいつき、その魔力を削り取る。


 分身体が壊れれば、また作り、能力を付与し、突撃させる。  何度も、何度も。  蜘蛛が運んでくる『時喰らい』の魔力を吸い、自身の【ゼロ】を強化しながら、泥沼の消耗戦を続けた。


 三日三晩の死闘。  森の一角が消滅し、地形が変わるほどの戦いの果て。  最後の一瞬。  劣化した分身体の一撃が、『時喰らい』の核(コア)を砕いた。


「……いただきます」


 Sランク【時間操作】の捕食。  その日、シンは「寿命」という首輪から解き放たれた。  肉体の時間を十五歳――成長期を終え、最も可能性に満ちた少年の姿――で固定し、老いることのない永遠の存在となったのだ。


 ――それから、数万年。


 シンは森から出なかった。  ただひたすらに座し、森に迷い込む強力な魔物たちを捕食し続けた。  ドラゴンが生まれれば狩り、悪魔が現れれば喰らう。  気がつけば、彼の力は世界の理(ことわり)すらねじ曲げる「神域(Gランク)」へと達していた。


 やがて、森の外では新たな人間たちが生まれ、国を作り、文明を築いていた。  かつて滅びた人類の末裔か、あるいは新たに発生した種族か。  どちらでもいい。シンにとって、それはただの「観測対象」でしかなかった。


 悠久の時を経て、怪物は欠伸を一つ噛み殺し、立ち上がる。


「……そろそろ、行くか」


 暇つぶしだ。  数万年ぶりに、人間の世界とやらを見てやるのも悪くない。  それに、今の人間たちが「魔法」や「スキル」と呼んでありがたがっている力が、自分の持つ【ゼロ】とどれほどの差があるのか。  それを確かめるのも一興だろう。


 シンは漆黒のローブを纏い、無限の時間を蓄積したその身一つで、森を出た。  背後に伸びる影の中に、数億の赤い瞳が、ギラリと光った気がした。


          ◇


 森を抜けた先に広がっていたのは、のどかな田園風景だった。  その先に、こぢんまりとした集落が見える。


 ――辺境の開拓村、メジ村。


 それが、悠久の時を生きた始祖が最初に足を踏み入れる、人間の世界だった。  村の入り口には、木の柵と、粗末な槍を持った自警団の男が一人立っている。


 シンはゆっくりと近づいていく。  その歩みは音もなく、草木すら揺らさない。  彼にとってはただの散歩。  だが、この世界にとっては、歴史がひっくり返るほどの「厄災」の到来だった。

​◇ ◇ ◇

(次のエピソードへ続く)

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