新天地より

李夢檸檬

新天地より

 少年はある時から、みずからが天使のような存在であると認識し出した。輝いているみたいに白い肌を持っていて、髪は常にくせがちでの見た目が逆にふわふわとしていると見え、走る事が得意ではなく学級内で丁度ちょうど中間の順位に立つか立たないかと云う具合ぐあいで、目はくっきりとまるに開いてあわ白濁はくだく色の光が虹彩こうさいともっていて、顔付きはれこそ天使のように可愛らしいと言われていたから、少年は何時いつしか自分は翼の無い零落れいらくした天使なのではないかと思うようになったのだ。しかし、天使である事実を他者に露呈ろていする事は無かった。少年は基督キリストの存在を知って、取りえず聖書とやらを読んでみようと思い、色々と試してようやく読んだ。全てを長い年月を掛けて読み終えた後、少年は天使が自分には扱いきれないほど高貴こうきな存在であると知り、他者に言ってしまっては、如何どうなるか分からないと考えたのである。

 天使は全知ではないと知り、少年は一寸ちょっとばかし落胆らくたんしたが、れで十分であると思った。少年は、決して高貴こうきな存在であろうとはしなかった。傲慢ごうまんな態度にって堕落だらくしていたのだ。没落ぼつらくしたと云う事を抜きにして、元々天使であったと云う理解しがた妄想もうそうを信じ込み、の失った地位を理由にして度々たびたびなまけていた。ゆえに、学力はでもこのましくなかった。かと言って人に自慢じまん出来るほどの知識量でもなかったため態々わざわざ正体を明かして名声を得て愉悦ゆえつひたろうと云う欲望よくぼうは心の奥底で留まるに至っていた。

 少年は聖書を読み、天使の役割について知った。だが、の全てを「落ちぶれた天使である」と云うひどみにくあわれな妄想もうそうを言いわけにしてまぬがれようとしていた。神の御告おつげを伝える伝令でんれい、人間の歩む道全てを守る、そう云う役目を果たさなくとも良いと少年は考えた。堕天使だてんしなのだから、一旦いったんは人間と同じ道を歩みつつ、じつ天使としての権威けんいを利用して上をじんっているべきだと考えて、他者に対してはの普遍的な存在には似つかわしくないほどの、傲慢ごうまんたる高圧的な態度を取り続けていた。しかれは、同級生だとか、近所の子供達だとか、無礼ぶれいを働いても構わないであろうと思っている、まりは自分よりも下に位置すると認識している者に対してのみの事であって、両親だけの家族や先生達には礼儀正しいさまを見せ付けていた。れを見て生徒達は少年を嫌って、ときに仲間外れにしたり、ときに知らん振りしたりしていた。当然のむくいであったが、少年は意図せずれを利用した。先生は、生徒間のもつれなど垣間かいま見えなかったがゆえに、少年が一方的に意地悪いじわるされているのだと思い込んで、まともに生徒の言う事を信じず、本来は少年が悪いのにも関わらず、少年を嫌っている生徒達をしかってびるように説教したのだ。生徒達は先生をも強くにくむようになって、少年に対する憤怒も激しくなった。先生は体育教師でみょうな正義感を持っており、れこそ簡単に暴力を振るってしまうような、最低な男であった。風貌ふうぼうに誰かはあこがれたが、生徒達は一向に態度を変えず、ただ只管ひたすら軽蔑けいべつするのみであった。

 先生が持つみょうな正義感は、よく漫画まんがの主人公が持っているような物であって、しかし現実でそう在って良いのは、彼のような存在ではなかった。しか如何どうしてか、彼は持っていた。悪い者が居ればいそいでけ付け、一思ひとおもいになぐり付けて改心させる。そう云う信念を疑う事無く持ち続け、様々な非行ひこうな生徒達に暴力を振るった。教師の間でも、彼に対する一寸ちょっとしたうわさは広がっていた。しかし誰もれを指摘しなかった。かの先生は、の暴力性を権力として、無意識に扱っていたのだ。誰も、平凡なやからでは暴君に抵抗出来ないのと同じように、暴れ馬を騎手きしゅでない者達は止められなかったのだ。悪名あくみょう高い先生に対し、悪口を言われたとか、殴られたとか、そんな事を言ってしまえば、誰かが殴られるのは確実だった。ゆえに生徒達は皆、誰かが彼に密告してしまう事を大変恐れていた。

 少年に対する悪戯いたずらひどくなった頃、先生は今度こそは生徒達を許さないと、再び、しかし前回よりも強くしかってやろうとしていた。の感情を如何どう云うわけか少年は感じ取って、れは必ずや大事おおごととなってしまうだろうから、れは流石さすがよろしくないだろうと思って、先手せんてを打って処理しようと考えた。少年は、自分自身をいじめている複数名の生徒にまとめて会いに来るよう伝え、明後日あさってには先生にしかられようと云う日に彼らに交渉こうしょうを仕掛けた。少年は運良く、毎月学生にとっては十分じゅうぶんぎるほど御小遣おこづかいを両親から貰っていた。交渉こうしょうとは、御小遣おこづかいのうち幾何いくばくかを毎月渡す代わりに、以降いこう意地悪いじわるをせず、さらへつらう事もしないようにすると云う内容であった。生徒達はひどなやんだ。自分達がいじめているのは、少年から来る怒りをしずめるため復讐ふくしゅうとしてやり返すためであった。毎月、彼らにとってはあまりにも多い御金おかねを貰えるのはたぐいまれなる幸運であったが、一体如何どうして生徒達がなやんでいるのかと言えば、彼らは少年を長い間いじめるばかり、誰か自分達よりも弱いやからいじめる事に一寸ちょっとした快感かいかんを覚えていたのだ。

 最終的に、生徒達はの条件をみ、交渉こうしょう成立を示す、彼らにとって可成かなり多い前金まえきんを少年から貰って、れからはただ普通の生徒同士として関わると、生徒達全員が、たがいに聞き合う中で、たがいに堂々と、人によっては少しおびえながら、少年にしっかりと聞こえるように宣言せんげんしたのだった。の次の日から、少年に対する意地悪いじわる一切いっさい無くなった。先生は少し疑問をいだいたが、結果良くなったのであるから態々わざわざしからなくとも大丈夫だろうと思って、れからは先生も生徒達に対し、少年に関する事で怒る事は無くなった。少年は、し、生徒達が資金増加の要求をしてくるのであれば、再びあの先生に密告みっこくしてしまうぞと生徒達をおど心算つもりであったが、結果としてそうはならなかった。少年は好都合こうつごうを良い事に、金額を上乗せして生徒達をき使ってやろうとでも思ったが、自分があの先生に怒られてはもとも無いためいたし方無く想像で止めておくことにした。

 少年は代々だいだい漁師の家系に生まれており、今迄いままで度々たびたびぎ足され受けがれてきた莫大ばくだいな遺産を、家族全体として持ち合わせているのであった。父が漁師の家系であり、母は父側の呼び掛けにって御見合おみあいをすることとなり、たがいに数カ月の交際期間を終えて、思いきって父が結婚を申し出て、母が応じてとつぐ事になったのである。父は早朝から漁に出て、しばらく戻ってこない事が多い。母は毎日家で過ごし、少年の世話や家事かじをしつつ、たまに近所の人々と交流したり、漁場ぎょじょうまで行って父の同僚どうりょうとの交友関係を深めたりして、の身を一家にくそうとしていた。父が漁に行って帰ってきて、大抵の場合、出費を上回るほどの給料が入るため、少年一家は生活にこまる事が無かった。し赤字になってしまっても、相変わらず増やし続けている貯金が有るのに加え、厖大ぼうだいな遺産を保有しているため如何どうと云うことは無いのだ。そうであるから、少年には毎月学生にしては多大ぎる御小遣おこづかいが与えられているのである。

 休日には、少年は父に船に乗せてもらい、ある程度ていど離れた海のほうまで連れて行ってもらっていた。父は個人で自由に使える船を所有していて、しかも許可を取らずに何時いつでも船を出して良かった。れは父が漁場ぎょじょうに与えてきた多くの功績こうせきからの許しであった。の好意に少年は狡賢ずるがしこく頭を働かせて便乗びんじょうし、町から遠く離れた海まで行っているのであった。少年は海が好きであった。水面に目一杯めいっぱいに反射する幾十いくじゅうにも重なった光の重層が、天使と同じように美しく見えたからであった。きらきらと常に形を変えるの姿が、何よりも骨頂こっちょうであると見え、海岸かいがん沿いを歩いて海から波が押し寄せては引いていく光景を見るのも良いが、矢張やはり海の真ん中に立って周囲を荒波あらなみで満たす方が余程よほど愉快ゆかいに思われたのだ。

 少年は船を操縦そうじゅう出来るように成りたかった。れは海と云ううるわしい存在に好意をいだいていただけでなく、別にある時から持っていた野望やぼうためであった。野望やぼう目覚めざましい原動力となって、少年を自然に船と海とにき付けた。父が船を運転する姿を間近まぢかで観察し、何処どこさわれば良いのかなどを毎度研究し理解するのだ。少年は狡賢ずるがしこ悪知恵わるぢえを働かせて、子供の事を思ってと父にうったえ、幾度いくどか船を少しばかり運転させてもらっていた。と言っても、父は一から全て運転させる事はせず、れなら子供が操作しても大丈夫だろうと云うときにだけ、少年に操縦そうじゅうの権利を渡し、後方から操作方法について教えるばかりであった。少年は少し不満であったが、幾度いくどか続けていれば、可成かなり上手くなるだろうとんで、自らが漁師の家系をごうとしているいつわりの意思を父に見せ付け、何度も船を操縦そうじゅうさせてもらい、段々とわずかに技術を高めていった。

 少年が船を自由自在に扱いたい理由は、ある日の歴史の授業までさかのぼらなければ説明する事ができない。少年は当時世界史を学んでおり、丁度ちょうど十五世紀の内容に辿たどり着いた頃であった。大航海時代と云う言葉に興味を持った少年は、何時いつもの堕落だらく的な態度にはんして熱心に授業を受けた。歴史の先生はれに気付いて、今迄いままでよりも猛然もうぜんとした立ち振る舞いで授業を行った。少年がクリストファー・コロンブスと運命的な出会いを果たしたのはの時である。少年は彼の偉大いだいなる事業と功績こうせき感銘かんめいを受け感激した。そして何時いつにか、思いも寄らずクリストファー・コロンブスを尊敬し始め、彼に対するあこがれをいだくようになった。やがて少年は、みずからもクリストファー・コロンブスのような運命を辿たどり、卓越たくえつした功績こうせきのこせば自分自身が天使であったと証明出来るのではないかと考え始めた。多大な功績こうせきが、少年自身がひどく落ちぶれていても許される許可証のような物になると理解したのだ。海の彼方かなたでクリストファー・コロンブスは新世界に辿たどり着き、新たな希望を切り開いた。とあれば、少年も海のまで行けば、新天地を発見して天使に会えるかもしれないだとか、正統な力を持つ天使になれるのではないかと考えるのは、少年にとって何一つ疑いようの無い事であった。

 少年はそう思い始めて、ず最初に船に関する書物をあさった。代々だいだい漁師の家系である事を利用し、家の物置ものおき部屋や倉庫で船に関する記録を探し回り、見つけた物の中には可成かなり古い物も有り、れは母の協力にって出来るだけ解読し読んだ。残りは図書館に行って解読し、折角せっかくの機会であるために図書館でも船舶せんぱくについて記された書物を有る限りほとんどに目を通した。結果として、少年は技術を少しだけ持ち、知識を多分に持っている状態と成った。少年はもう十分じゅうぶんだろうと云うほど知識を得て、今後は技術を高めなければならないと考え、父に頼んで今迄いままで以上に船をさわらせてもらった。やがて少年は父に、一度初めから最後まで運転させてほしいと頼んだ。勿論もちろん、父はれを許さなかった。流石さすがに少年の年齢に対してはやぎると父は思ったのであり、れは親と云う存在にとって当たり前の事であった。しかし少年は如何どうにかして船をまともに運転出来るように成らなければなかった。少年は説得を只管ひたすらに続けた。父は悩みあぐね続けた。親として子供の望みを叶えてやるべきなのだが、親として子供の命を守らなければならない。少年はまだまだ若かった。そうであるがゆえに、父はまた如何どうするべきかと思慮しりょを深めた。最後には、父は諦めなければならなかった。こんけしてしまった父は、比較的運転の容易よういな初心者向けの小型舟を少年に買ってやることにしたのだ。父は如何どうにかしてれで少年に許してもらおうと思っていたが、少年は元かられが目的であった。少年は父の船を自由に運転させてもらう事が目的ではなく、自由に扱えるふねを貰う事が目的であったのだ。何度か、父と共にの小型舟に乗って、少年はおきまで向かった。少年はふね操縦そうじゅう方法を理解し身に着けた。れで少年は、自由自在にふねを扱い、クリストファー・コロンブスのように海を渡る事ができるようになったのだ。

 しかし少年は矢張やはり冷静であった。ふねだけ有っても航海はできないと知っていて、旅に出るための準備を始めた。少年は御小遣おこづかいをあの生徒達に渡す以外で一切いっさい使わなかった。度々たびたび買っていた御菓子おかしや本を一切いっさい買わず、一切いっさい無駄むだづかいせず、只管ひたすらめ続けた。ある程度ていどの金額が貯金されたところで、少年は決行日をようやく決めた。の日は、漁場ぎょじょうに誰も漁師が居ない時間が早朝に有る日であって、海に出ている漁師も居ないのであった。ゆえに、誰も少年を止める者は居ないのだ。少年は物資ぶっしを買いあさった。クリストファー・コロンブスがどのような物品ぶっぴんを持って海に出たかは分からないが、かつて読んだ本に多少の心得こころえが書いてあったためれを少々参考にして、少年は着々ちゃくちゃくと様々な荷物を集めて、しかし親にも誰にも気付かれないようにづくりをしたのであった。

 ある日の早朝、町においては誰も起きている人が居ない時間帯に、少年は事前に完璧にしておいた荷物を持って、寝床ねどこで静かにすやすやと夢を見ている両親を横目よこめに、物音一つ立てず外へと去っていった。今日は決行日であった。少年は静かに、しか極力きょくりょく速く歩いて漁場ぎょじょうに向かった。過去に見計みはからった通り、漁場ぎょじょうには誰もらず、少年を止める者は誰一人として存在しないのであった。少年は苦労して持って来た大きな荷物を小型舟に詰め込み、あらためてふねの状態を確認した。運転するのに問題無いようだったので、少年はを決して小型舟の原動機を起動させ、電灯をけ、れからみずからに起こる大航海の旅の準備を整え、ふね大海原おおうなばらへと出発するのであった。

 少年は内心、れから偉大いだいなる存在と成ると云う大きな虚栄心きょえいしんと、結局は如何どうにもできず死んでしまうのではないかと云う積もりきった不安が有った。クリストファー・コロンブスにあこがれ、同じように大航海をしてやろうと決めてから、順調に全てが行っていた。れが逆に恐ろしく思われた。少年とクリストファー・コロンブスは、決して同一人物ではないのだ。時代も違う、場所も環境も違う。全て、れからも万事ばんじ順調であるとは限らない。少年はもう戻れないとわかっていた。将来に対する優越感ゆうえつかんと希望とが、出てから急にうそであるように感じ始めた少年は、如何どうする事もできないのであった。今やひとりであって、誰の援助えんじょも受けられない状況にあった。少年は今迄いままで、様々な人と関わって、なんとかして自分自身と云う存在をたもっていたのだ。御小遣おこづかいをくれたのに加えて、自分の事を毎日扶養ふようしてれていて、さらには自分の望みを幾度いくども叶えてれた両親は、っくのうに離れ離れに成っていた。れは少年自らの決断のすえであった。もう二度と会えないかもしれないと思考をめぐらせて、少年はまた怖気付おじけづいた。今迄いままで御小遣おこづかいの一部を渡す事で如何どうにかおさめ、関係を保っていた生徒達に、れから御金おかね譲渡じょうとしてやる必要は無かった。しかれが、少年にとっては一寸ちょっとした心のかせと成っていた。少年はあの生徒達と似たような状態、堕落だらく的な存在であったのだ。少年にとって、あの生徒達に御金おかねを渡す事は或種あるしゅ悦楽えつらくを感じる行為であったのだ。れは少年自身、気付いていなかった事であって、の旅に出て、もうする事が無いと考えたの瞬間に、ほとんどの意味の無い譲渡じょうとが自分にとっての生きる理由の一つと成っていた事を理解したのだ。あいだまで、少年に様々な物事を教えてれていた先生達とも、会う事は無くなってしまうのだと少年は思った。自分にクリストファー・コロンブスの存在を教えてくれた歴史の先生に対しては、少々申しわけ無さが有った。

 心のうちには別にいくつかの後悔が有った。の中には、両親に対する謝罪が有った。少年は毎晩まいばん母に対し、父が居るときには父にも「休みなさい」と言って寝ているのだが、昨日は今日こうして決行するため何時いつもよりも早く寝なければならない事に気を取られ、言うのを忘れてしまっていたのだ。今朝けさ二人に対し挨拶あいさつを言う事もできなかったため、少年は両親に何一つ言わずに出てしまったことになる。れだけならだしも、別れの挨拶あいさつもしていなかった。別れの手紙を書いて、つくえの上に置いておくと云う事もしなかった。少年は一切いっさい痕跡こんせきを残さず、家から、町から去って今、海の何処どこかを彷徨さまよっている。れが如何どうしても気掛きがかりであって、しかし気付かれて探されてしまう事にならないためには、こうするしかないのであった。


 少年は今、絶望していて、段々と全てが如何どうでも良くなってきていた。早朝そうちょうに出発してから五日いつかほどすでに経過していたが、少年は死にそうであって、ふねの小さな甲板かんぱんの上で横たわってきっぱらの体を両腕りょううでいて、空のほう呆然ぼうぜん見詰みつめていた。目はうつろであって、視線が何処どこに向かっているのかさだかではなかった。ぼんやりと少し下の方に浮かぶ太陽を見ていたのかもしれない。たまに上空を通り過ぎていく複数の鳥を見ていたのかもしれない。太陽よりも少年の近くをおおっているいくつものゆったりとした雲を見ていたのかもしれない。少年は、言葉を発する事も、身動き一つ取る事も無かった。最早もはや、腹の音が鳴る事も無かった。ふね一切いっさい動かされておらず、いや、動かす事ができなかった。時々ときどき遠い何処どこかで船が通っている様な音が聞こえる事が有るが、少年はもう、の音が聞こえてくる方を見る事すら叶わなかった。海は悲しいほどにゆったりとしていて、嵐の中の荒々あらあらしい波など存在しなかった。鳥が意味もわからぬ声を放つが、少年はの意味を考える事も、の鳥がどのような姿であるかを認識する事も、れから鳥が如何どうするかを予想する事もできなかった。

 出発してから始めのうちは、可成かなり順調であるように見えた。未知の世界に対する好奇心や探求心にあふれていたからである。だがしかし、長くは持たなかった。数十分がてば、段々と退屈たいくつを感じ始めてきた。少年は悩んだ。荷物の総量を考えれば、早く前進を続けるべきだが、ずっとそうしているのは精神的苦痛が必要であった。結果として、おのれさだめた最終的な目的をたすために、只管ひたすら前へと、未知の新たな世界へと進む事を決意した。だが矢張やはり、少年はひまを持てあましていて、なんだか怒りを覚えるような感覚におちいった。海上をどれだけ進めど、面白味おもしろみの有る物を何一つ発見出来なかった。少年は広大な海の上に一人、ぽつんと居るしかなかった。通りぎる船も一隻いっせきたりとも居ない。何時いつも居る話し相手は此処ここには居ない。少年はみずから持っている事に気が付いていた堕落だらく的な態度や狡賢ずるがしこい思考が、此処ここでは一切いっさいの役に立たない事をさとった。

 出発から数時間がって、陸が見えない所まで来た時に、運悪く少年は荒れに荒れた海に侵入してしまい、所為せいふねは大きく揺れ、少年は度々たびたび壁に体を打ち付けなければならなかった。一際ひときわ強い揺れが少年とふねおそって、の時、置いてあった荷物の多くが海上へと飛ばされてしまったのだ。しかし少年は如何どうにかして時化しけの中から抜け出すのに必死であって、れに加えて元からまだまだ未熟であって、船を扱える気になっていただけの若人わこうどであった。少年は荒波あらなみの対処法を全く知らなかったため横着おうちゃくしてしまい我武者羅がむしゃら操縦そうじゅうするばかりであって、荷物のほとんどが失われた事には気付いていなかった。長い時間を掛けてようや平穏へいおんな場所に移って、一息ひといきいて休憩きゅうけいしようと思って荷物を取り出そうとした瞬間しゅんかん、少年は惨状さんじょうに気が付いた。食糧しょくりょうは一日も持たないだろうと云うほどの量であって、四角いかんに入っているれは結果としての通りになった。持ってきていた娯楽ごらく品々しなじな一切いっさい消え去っており、歴史の授業で使っていた帳面ちょうめん鉛筆えんぴつのみが、唯一ゆいいつの状況において娯楽ごらくに使えると云ってもよろしい物であった。

 れからほんのしばらくは、ふね自体には何も問題が無かった。ただ少年が憔悴しょうすいしていくばかりであって、未知の場所を開拓するには問題が無かった。の時、少年は最早もはや引き返す事ができなかった。ほどまで時間がったのに帰ってこれば、両親からはしかられ、他の子供達からは嘲笑ちょうしょうされるだけだと思ったのだ。れに、新天地を見付けられなかったのならば、自分自身が天使でない証明になってしまう。少年は天使であらなければならなかった。今迄いままで自分の事を天使、あるいは天使の落ちぶれだと思ってきたのにも関わらず、れが全て正しく虚実きょじつであると理解してしまう。少年は考える最悪の未来を恐れ、前へ進む他無かった。少年の心はすたれきっていた。最早もはやむかしりくに居た頃のような、ひど傲慢ごうまん狡賢ずるがしこかった少年は、もう何処どこにも存在しなかった。言うなれば、少年は正統な天使から段々と遠ざかっていっていたのだ。没落ぼつらくしきった天使が、さらに下へとちていく光景は、少年の心をさらに絞め付ける物であった。

 少年はれから再びしばらって、大海にて正しく黄金郷おうごんきょうと言ってつかえない景色を見た。全てが金色に染まっている都市。宮殿きゅうでんような都市の中で一番高い建物が在り、他は住宅のようであった。少年は、れこそが新天地なのではないかと思った。れは幻覚であった。陸すら其処そこには存在しなかった。少年はまたある日、たこの見た目をした怪物が居るのを見た。恐れおののいて、少年はただ怪物に気付かれないようにした。たこの怪物はふねからかく遠く離れた海の真ん中に堂々とたたずんでいて、大きな魚や、人工物と思われる物を海中から引きり出してもてあそんでいた。少年がふと其方そちらほうへと視線を向けた時、もう其処そこには何も無かった。矢張やはりれは幻覚であったのだ。

 少年は時が非常にゆっくりとっていくたびに、今迄いままで持っていた虚栄心きょえいしんを失い、理想を意図いとせず捨て去り、幼児ようじ以来の涙を流し、長い年月を掛けて築いてきた自分自身を壊していった。子供に耐えられる苦痛ではなかった。少年の心は地獄じごく最中さなかであった。

 少年は、もうぐ最後の日となるかもしれないと考え残っている鉛筆えんぴつを使い、自分の想いを遺言ゆいごんとして、海で見た物事について書いていた歴史の授業の帳面ちょうめんに記録を付ける事にした。そしてれを、水でふやけて読めなくなる事が無いように、唯一ゆいいつ食糧しょくりょうが入っていたかんに入れて密閉みっぺいして保管した。少年は必死ひっしで力を振りしぼり、只管ひたすらに文字を書き連ねた。

「僕は悪い子供です。母さん、父さん、御免ごめんなさい。僕は母さんに何も言わずに、父さんに許可を取らずに、買ってもらったふねを勝手に使って、海のてを探しに行ってしまいました。家を出る前の日に『休みなさい』と言うのを忘れました。朝に『行ってきます』と云うのを忘れました。御免ごめんなさい。

出来る限り頑張りました。でも、もう駄目だめかもしれません。れから僕は、死んでしまう気がします。なので、の歴史の授業で使っていた帳面ノートの終わりに、言いたい事を全部書いて、海で見た物も書こうと思います。

ず、改めて、母さん、父さん、御免ごめんなさい。今迄いままで好きなようにさせてれていたのに、何もできなくて御免ごめんなさい。悪い子で御免ごめんなさい。次にえた時にはきっと怒られると思うけど、の後に抱擁ハグしてくれると、僕はとてもうれしいです。次は、母さんの言う通り良い子で居ます。

学校の皆へ。最後に何も言えなくて御免ごめんなさい。別れの挨拶あいさつを何も言えなくて御免ごめんなさい。言いたい事は沢山たくさん有るけれど、心が苦しくて、上手うまく伝えられません。でも、次にえたら、また一緒いっしょに遊んでくれるとうれしいです。」

 少年の心には後悔がいっぱい詰まっていた。そして、子供らしいおもいを、露悪ろあく的な堕落だらく的な態度にはんして、たしかに持っていた。少年はただ、生きたかった。しかし、世界がれを許すはずが無かった。少年はあまりにも長い間、落ちぶれたままで居て、しかし其の事に気付かないで居た。惨事さんじ天罰てんばつと言うべきか、れは誰にも分からないであるだろう。


 少年が海で見たあらゆる物事に関する記録が、まことの真実であるか、少年の見た夢か幻覚であるか、将又はたまた少年が退屈たいくつ退屈たいくつを重ねたすえ生み出した妄想もうそうであるか、分かる者は少年を含めて誰一人として居ないだろう。少年は自分自身を天使だと思い込み、クリストファー・コロンブスにあこがれた結果、自らも大航海のてに新世界を目指し、みずからが天使である事の証明をしようとみ込んだわけだが、たしかに少年は人間であった。しかし、今はまだ生きている少年が最後に何らかの景色を見る時には、少年はたしかに天使と成っているかもしれない。かと言って、少年が一時的に狂気にまれている事を考慮こうりょすれば、少年が天使と成ると云うよりかは、少年が狂人と成り、の世界とは違った異なる別の世界を垣間かいま見て、自分自身が天使として生きたさままぼろしとして、あの広々とした大空に、一瞬いっしゅんだけたしかに見出したと云う方が正しいであろう。

 少年が最後に如何どうなったか、大衆たいしゅうに知られることとなるのは、可成かなり先の未来の話である。

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