感情を失った私、感情が力な世界に落ちました。

DanDanHart

第1話 未知の本

彼にまだ感情というものが残っていたのなら、おそらく恐怖に飲み込まれ、絶望していただろう。


湿り気を帯びた石畳(いしだたみ)。 背中に伝わる冷たい壁の感触。


彼はカビ臭い牢獄の床に座り込み、ひどく不快で異質な空気を吸い込んだ。


荒削りの岩肌が剥き出しになった壁、見たこともない天井。 重厚な木の扉の隙間からは細い光が差し込み、その中を塵(ちり)が浮遊している。


夢じゃない。


自分が今、わけのわからない異世界に放り出されたという事実を、嫌というほど思い知らされた。


手首と足首は手枷(てかせ)でガッチリと拘束されている。 体を起こそうとしたが、全身を走る激痛と痺(しび)れで、指一本動かすのも億劫(おっくう)だった。


彼は再び深く息を吐き出し、早鐘を打つ心臓を無理やり落ち着かせた。


淀んだ空気。 カビと鉄錆(てつさび)が混じり合った悪臭。 その奥には、何かが腐敗したような臭いと排泄物のアンモニア臭まで漂ってくる。


強張(こわば)った筋肉と、冷え切った指先の感覚を取り戻すだけで、随分と時間がかかった。


『あぁ……一体どうして、こんなことに……』


脳裏をよぎったのは、書店の店主だと思っていたあの老人の顔だ。 確証はない。 だが、この異常事態の元凶があの老人が渡してきた「本」にあることだけは、直感的に確信していた。


知らず知らずのうちに、奥歯を噛み締める。


「あの本は一体何だったんだ? それにあの老人も……何の説明もなく押し付けるだけ押し付けて消えるなんて……たちの悪い冗談だ」


怒りというよりは、困惑に近い独り言だった。 しかし、老人の奇妙な眼差しと古風な身なりを思い出すにつれ、不快感はどろりと濃くなった。


「何のつもりだったんだ……。何より気味が悪いのは、あの男……まるでこうなることが分かっていたかのように振る舞っていたことだ」


全ての始まりは、あの本を開いた瞬間だった。


________________________________________


ソウルの曇天。 灰色の空の下、江南(カンナム)のど真ん中にそびえ立つ高層ビル。 冷たい照明が照らすオフィス。


ソ・イヒョンは無表情でモニターを見つめていた。


鋭利な顎のライン、高い鼻梁、濃い眉。 額を出した端正な黒髪と、冷徹な光を宿す瞳は、まるで精巧に計算された建築物を思わせる。


身長178cm。 無駄のないスリムな体躯は、スーツの着こなしを完璧なものにしていた。 一寸の狂いもないその姿は、彼の徹底した自己管理と完璧主義を雄弁に物語っている。


周囲を意識しないようでいて、少しの乱れも許さない。 そんな彼の性格が、空間の至る所に染み付いていた。


オフィスはまるで精密機械のように整然としていた。


壁は無機質なモノトーン。 机上の書類やペンは定規で測ったように整列している。 本棚にあるのは専門書とレポートのみ。個人的な写真や装飾品など、人間味を感じさせるものは一切ない。


息が詰まるほどの単調さが、その空間を支配していた。


この5年間、例外はなかった。


人間関係は徹底してビジネスライクに徹し、会話は最小限。 昼食は静かなカフェで孤食し、退社後も常に一人。


イヒョンの日常は台本通りに進み、そのルーチンはいかなる不純物の侵入も許さなかった。


全てが計画通りに統制されて初めて安堵し、予想外の変数は彼にとってストレスであり、不安そのものだった。


イヒョンにとってルーチンは単なる習慣ではない。 崩れかけた世界の中で自分を支える最後の秩序であり、外界から自分を隔離する「鎧(よろい)」だったのだ。


「代表、本日の会議はいかがなさいますか?」


秘書の慎重な問いかけに、イヒョンが顔を上げる。 乾いた、何の感情も映さない視線が彼女に向けられた。


「議事録だけまとめてメールで送ってください」


短く、断固とした返答。 秘書はそれ以上尋ねず、一礼して下がった。 感情を一切挟まない彼の対応に慣れきっているのか、彼女からは動揺の色すら感じられない。


ソ・イヒョン。


今年の春で三十七。 医療機器メーカー『アイテラ・メディテック』の代表であり、元外科医という異色の経歴を持つ男。 彼は今、韓国で最も注目を集める若手CEOの一人だ。


かつての彼は、温もりを知る人間だった。 人と語らい、笑い合うことを愛する、どこにでもいる善良な男。


だが、今は違う。


初対面の人間は、彼の洗練された物腰と丁寧な言葉遣いに騙される。 「誠実で、親切な人だ」と。


しかしそれは、高度な知能と分析力によって弾き出された、単なる「対人戦略」に過ぎない。


そこに心はない。 私的な感情など、とうの昔に切り捨てた。


長年彼を見てきた者たちは知っている。 ソ・イヒョンという男が決して温かい人間などではなく、あらゆる人間関係を「効率」と「目的」のみで換算する冷血漢であることを。


華やかな外面の裏側には、氷のように冷めきった心臓だけが脈打っている。


五年前、彼の人生は音を立てて砕け散った。


家族水入らずの、短い旅行だった。 高速道路で起きたその日の惨劇は、もし映画の中の出来事だったなら「出来すぎだ」と一笑に付されるほど、不条理で奇妙なものだった。


晴れ渡った空。乾燥した路面。順調な交通量。 そこに突如、中央線を突破した謎の車両が逆走して突っ込んできたのだ。


衝突の角度、位置、タイミング。 その全てが、まるで誰かが緻密に計画したかのように完璧に噛み合い――愛する妻と娘は、即死だった。


イヒョンは奇跡的に無傷だったが、精神(こころ)は修復不可能なほどに破壊された。

真の地獄は、事故の後に口を開けた。


ドライブレコーダーの映像は復元不可。 現場の証拠品は数週間で煙のように蒸発した。 警察は証拠不十分を盾に、明らかな被害者である彼を「双方過失」へと追い込み、裁判の最中に相手ドライバーが不審死を遂げたことで、事件は深い闇へと葬られた。


そして、悲劇は格好のエンターテインメントとなった。


「注目の若手CEO」という肩書きは、マスコミにとって極上の獲物だった。 特に妻が資産家の令嬢であり、事故の数ヶ月前に巨額の遺産を相続していた事実が漏れると、状況は制御不能なほど悪化した。


イエロージャーナリズムが書き立てる煽情的な見出し。 『家庭不和』、『保険金と遺産を狙った計画殺人』。


ネットの掲示板やニュースのコメント欄は、彼への呪詛(じゅそ)で埋め尽くされた。


『遺産目当てで妻子を殺した悪魔』


根拠のない罵詈雑言(ばりぞうごん)が「いいね」を集め、世間は彼を、緻密な計算のもとに妻子を排除した冷血な殺人者として断罪した。


真実など、どこにもなかった。 ただ、ハイエナの群れに投げ込まれた肉塊のような、醜悪な噂だけが転がっていた。


彼は戦おうとはしなかった。 いや、出来なかったのだ。


全てが虚しかった。 降り注ぐ嘲笑と迫害の中で、人間への信頼は地に落ちた。 心に残っていた最後の温かな灯火(ともしび)さえも、社会の歪んだ視線と悪意によって、冷たく吹き消されてしまった。


その後、イヒョンは極度の無気力に沈んだ。


数ヶ月間、出勤はおろか食事さえ喉を通らず、暗い部屋に引き籠る日々。 時間の感覚さえ曖昧になり、生きているという実感すら希薄になっていく。


だが皮肉なことに、そんな彼を再び立ち上がらせたのは、あれほど憎んだ現実からの逃避場所――すなわち「仕事」だった。


彼は狂ったように業務に没頭した。 睡眠は一日四時間、労働は二十時間。


生産性のない人間関係は全て切り捨て、食事すら孤独に済ませる。 感情を排除した精密機械と化したイヒョンは、誰にも真似できない圧倒的な成果を積み上げた。


技術開発、投資誘致、流通網の確保から海外進出まで。 会社のあらゆる意思決定を独裁的にコントロールし、短期間で業界のトップへと上り詰めた。


そうして彼は、「成功」という名の孤独な城の頂点に立った。


世間への怒りも、悲しみも、全てを忘却の彼方に追いやり、自ら構築した秩序と鎧(よろい)の中に閉じこもって戦い続けた。


ソ・イヒョンは結局、世界との戦いには勝った。 だが同時に――自分自身という存在を、永遠に喪失してしまったのだ。


そんな彼にも、唯一の慰めがあった。 長年の趣味である、読書だ。


事故の後、彼は歴史書を貪(むさぼ)るように読んだ。


歴史には無数の解釈が存在するが、その中心には常に不変の「事実」が骨格として埋まっているからだ。 矛盾だらけの現実とは違い、歴史には明確な始まりと終わりがあり、記録された真実は時が流れても否定されることはない。


その確固たる世界の中でだけ、彼は世界を一歩引いた視点で観察することができた。 それこそが、彼が息を吸うことのできる唯一の時間だったのだ。


その日も同じだった。


業務を終えたイヒョンは、習慣のように書店へと向かった。 江南(カンナム)の煌(きら)びやかなビル群の谷間。まるで時空が切り取られたかのように孤立した路地裏。


そこには、周囲の景色とはあまりに異質な、古い木造建築が沈黙の中に佇(たたず)んでいた。 年季の入った窓枠と、塗装の剥げた看板は、むしろ古風な品格を醸し出している。


この書店はかつて、妻とデートを楽しんだ場所だった。 並んで座り、ページを捲(めく)った静かな時間。 その美しくも痛ましい記憶が、イヒョンの胸の奥深くに澱(おり)のように残っていた。


扉を開けると、古びた紙の匂いと、微かな木の香りが鼻先をくすぐる。


新刊と古書が入り混じった店内は、時が止まったように静かだった。 本棚には本がぎっしりと詰まり、行き場を失った書籍たちが床に危なっかしく積み上げられている。


客は疎(まば)らだったが、店は数年間、変わらずその場所を守り続けていた。 イヒョンにとってここは単なる書店ではない。 零れ落ちそうな記憶を繋ぎ止めておける、唯一の安息の地だった。


その日、彼はいつものように歴史書コーナーの前で足を止めた。 視線で慣れ親しんだ背表紙を追っていた、その時だ。


「お探しの本は、ここにはないようですね」


聞き覚えのない声に、イヒョンが振り向く。 そこには、奇妙な雰囲気を纏(まと)った一人の老人が立っていた。


綺麗に撫で付けた白髪に、皺(しわ)の刻まれた顔。 だが、その瞳だけが異様なほど澄んでいて、若々しい生気を帯びている。


さらに奇異なのは、その性別が判然としない点だった。 声は低く落ち着いているが、抑揚は柔らかい。顔の骨格は男性的だが、そのラインは女性のように滑らかだ。 年齢と性別の境界が曖昧な、中性的な印象。 その存在自体が、非現実的な違和感を放っていた。


服装もまた、尋常ではなかった。 現代的なスーツのようでありながら、肩から足首まで流れるシルエットは東洋の道袍(どうほう)を連想させる。 色褪せた布地には歳月の痕跡がありありと見えるが、皺一つなく整然としていた。


まるで、古書の挿絵から抜け出してきた仙人のようだ。


十年以上ここに出入りしているが、初めて見る顔だ。 ふと、この人物こそが書店の主人なのかもしれない、という考えが脳裏をよぎった。


「多くの書をお読みになった。しかし……その中のどれも、あなたの空虚さを埋めることはできなかったようですな」


老人はゆっくりと手を挙げ、最も高い棚の隅にある一冊の本を指差した。


「あの本を、一度ご覧になってはいかがですか」


老人が指し示したのは、本棚の最上段だった。 そこには、茶色の革で装丁された古いハードカバーが一冊、ひっそりと収まっていた。


イヒョンは迷わずその本を手に取った。 すぐに顔を戻し、老人に本について尋ねようとしたが――


「……?」


そこにいるはずの老人は、煙のように消え失せていた。 周囲を見渡したが、気配すら感じられない。


イヒョンは奇妙な違和感を覚えたが、ひとまず手にした本へと視線を落とした。 表紙にはラテン語が刻まれている。


『Codex Cordium』


彼は眉間を寄せた。 大学時代、教養の授業で初めて触れたラテン語。 単純な興味から始まったが、原典で歴史書を読みたいという欲求に駆られ、独学を続けてきたのだ。 今では古書を収集し、原文を解読するのが趣味になるほど、彼はラテン語に精通していた。


『コルディウムの書』


なぜか、神秘的なオーラを漂わせる本だった。


イヒョンが表紙を捲った瞬間、異変は起きた。


本が、まるで生き物のように脈打った。


紙面から文字が剥(は)がれ落ち、ふわりと宙に舞い上がる。 驚愕した彼は反射的に本を手放そうとしたが、無駄だった。 まるで強力な磁石か接着剤でも塗られたかのように、手のひらに吸い付いて離れない。


全身が金縛りにあったように硬直し、指一本動かすことができなかった。


ラテン語の羅列が暴風のように吹き荒れ、虚空で巨大な魔法陣を形成していく。


それは単なる文字ではない。 自ら意志を持つかのように光を放ち、回転し、空間そのものを激しく揺さぶっていた。


目の前に展開された魔法陣の中心で、黄金の線と紅(あか)い記号が複雑に絡み合い、明滅を繰り返す。


空間全体が、巨大な波動に歪み、波打つ。


脳内に直接響いてくるような囁き。 あるいは呪術的な歌声のような、低いラテン語の旋律。


神秘的でありながら、圧倒的な威圧感。 イヒョンは直感した。今、自分の目の前で人智を超えた超常現象が起きているのだと。


「……何だ、これは……ッ」


強烈な眩暈(めまい)が襲ってきた。 世界がぐるりと反転し、ページが鋭い音を立てて高速で捲(めく)られていく。


平衡感覚を失ったイヒョンは、膝から崩れ落ちた。 視界を覆い尽くす閃光と、鼓膜を打つ轟音(ごうおん)。 意識はホワイトアウトし、闇の中へと飲み込まれていった。


「…………」


意識を失ってから、どれくらいの時間が過ぎたのか。


イヒョンは重い瞼(まぶた)を押し上げた。 眼前に広がる光景は、息が止まるほどに見知らぬものであり――あまりにも非現実的だった。


空は、見たこともない鈍い灰青色に濁っている。 砂丘の向こうに見える太陽は、まるで燃え盛る火の玉のように歪に揺らめいていた。


空気は乾燥し、砂埃が喉に張り付く。 足元の地面は、荒々しい黒土と黄ばんだ砂が入り混じり、気味の悪いまだら模様を描いていた。


あちこちに亀裂の入った岩肌が露出し、枯れ果てた茨(いばら)のような植物が点在している。 時折吹き抜ける風が、ヒュオオ……と寂しげな口笛のような音を立てていた。


見渡す限りの荒野。


陽炎(かげろう)と共に、白っぽい砂塵(さじん)だけが浮遊している。 遥か彼方に廃墟のようなシルエットが朧(おぼろ)げに見えたが、それが人の住処なのか、ただの岩山なのか判別できない。


イヒョンは首を巡らせて周囲を確認したが、文明の匂いは皆無だった。 都市の喧騒も、ビルの影も、ここには存在しない。


異国的(エキゾチック)、という言葉では足りない。 それは、生まれて初めて目にする「不毛の世界」だった。


「……夢、か……?」


掠(かす)れた声で呟き、身体を起こす。 頭はまだ割れるように痛む。手に張り付いていたはずのあの本は、跡形もなく消えていた。


現実の記憶は鮮明だというのに、目の前の風景は酷く嘘くさい。


「一体、ここは……」


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