【完結済み】隻腕の代理王 ~側近たちが見た、詰み盤面からの逆転劇~

Lihito

第1話 雨と謀略

 今でも、あの夜の雨音を覚えている。

 私が仕えた主君のことを、世の人々は様々に呼ぶ。救国の君、あるいは——隻腕の王。

 だが私にとって、あの方はただ一人の主君だった。

 これは、側近たちが見た、若き王の記録である。


         ◇ ◇ ◇


 老宰相ヴァイン。それが私の名だ。

 四十年、この国に仕えてきた。だが今日ほど、扉を開けるのが怖い日はない。


 雨が降っていた。

 鉛色の空から落ちる雫が、レムリアの石畳を叩き続けている。


 私は公王の寝室の前で足を止めた。

 扉に手をかける。指先が強張っている。老いのせいか、これから告げねばならぬ現実の重さか。おそらく両方だ。


 扉を開けると、濃密な空気が鼻を突いた。

 薬草を煮立てる青臭さ。過剰に焚かれた暖炉の熱気。そして、それらでも隠しきれない甘い腐臭。

 死の匂いだ。何度嗅いでも、慣れることはない。


 寝台の上で、かつて「鉄獅子」と呼ばれた男が浅い呼吸を繰り返している。

 レムリア公国公王、エドワード三世。二度の戦争を生き延び、帝国と教皇国の狭間でこの小国を守り続けてきた英雄。

 だが今、その肌には黒い染みが浮かび、鋼の肉体は病魔に蝕まれていた。

 不治の病。余命は幾ばくもない。

 胸の奥が軋む。四十年仕えた主が、こんな形で逝こうとしている。


「殿下、あまりお傍に寄らぬほうが。毒気が御身に障ります」


 私は寝台の傍らに立つ若者の背に声をかけた。

 レムリア公国の王太子。私自身が幼少期から教育を施し、親代わりとして見守ってきた次代の王。

 殿下は振り返らない、その背中が、酷く小さく見えた。


 私は傍らに歩み寄り、声を落とした。

 告げねばならない。どれほど残酷でも。


「先ほど、西の国境から早馬が届きました。帝国軍が『病の公王を見舞う』という名目で、三つの軍団を集結させております」


 殿下の肩が強張る。


「さらに、城の広間には教皇国の使節団が控えております。公王陛下の病を『神への不信心ゆえの呪い』と断じ、浄化のために『聖域』の開放を求めています」


 聖域の開放。レムリアの水源と魔力源を明け渡すということだ。属国化への第一歩。

 父王が命を賭けて守り続けてきたものを、病床に伏した途端に奪い取ろうというのか。怒りが込み上げる。だが、今は抑えるしかない。


「父上は、まだ生きておられます。しかし、国は今この瞬間にも死に向かっている。殿下……『次期公王』として、最初の一歩を踏み出していただかねばなりません」


 沈黙が落ちた。

 暖炉の薪が爆ぜる音と、父王の枯れた呼吸だけが響く。

 私は待った。この方が何を選ぶのか。どんな答えを出すのか。

 やがて、殿下が口を開いた。


「ヴァイン」


「はい」


「父上の容態を、どう発表した」


 声は低いが、震えはなかった。


「まだ何も。殿下のご判断を仰ごうと」


 殿下はしばらく黙っていた。視線は父の顔から離れない。

 だが、次の言葉は氷のように冷たかった。


「公には、『予断を許さない状況だが、大きな山場を越えた』と発表せよ」


 目を見開いた。

 嘘だ。父王の容態は今夜が峠かもしれない。


「殿下、それは危険な賭けです。もし露見すれば――」


「帝国軍には、こう伝えろ」


 殿下が振り返った。

 その瞳を見た瞬間、言葉を失った。

 悲嘆に暮れる息子の目ではない。冷たく、鋭い光。

 ああ——この方は、もう覚悟を決めている。


「『気持ちだけ受け取っておく。次期王候補の私であれば対応は可能だが、現国王との面会は不可』と。穏便に、しかし毅然と撥ねつけろ」


「……」


「教皇国には、こう問え。『呪いとは穏やかではない。まるで事情を知っているかのようだが、貴国が何か関わっておられるのか』と」


 弱小国が強大国に吐くには、あまりに大胆な挑発だった。

 だが、口元に笑みが浮かぶのを止められなかった。

 この方は、逃げることを選ばなかった。


「『山場を越えた』という嘘をつけば、内部に裏切り者がいた場合、焦って動くはずだ。信頼できる者で周囲を観察しろ」


 私は深く頭を垂れた。

 この方は、父王の死すら政治の道具にする覚悟を決めたのだ。その重荷を、たった一人で背負おうとしている。

 ならば、老骨の役目は一つ。


「承知いたしました」


         ◇ ◇ ◇


 数時間後。謁見の間。

 私は柱の陰から、事の成り行きを見守っていた。掌にじっとりと汗が滲む。


 純白の法衣を纏った教皇国の使節、ビショップ・マルクスが待っている。

 その周囲には香炉から立ち上る甘い煙。神聖さを装いながら、どこか麻薬じみた香り。

 この男が嫌いだ。笑顔の下に何を隠しているのか、まるで読めない。


 重い足音が響き、殿下が現れた。

 正式な戴冠はまだ終えていない。右袖は空虚に揺れている。

 しかし玉座に腰を下ろす所作に躊躇いはなかった。背筋は真っ直ぐで、瞳に揺らぎがない。

 見事だ。誰がこの方を、未熟な王子と侮れようか。


「父王は山場を越えた」


 淡々と、しかし広間の隅々にまで届く声で告げる。


「呪いとは穏やかではないな、マルクス殿。まるで事情を知っているかのような物言いだが、貴国が何か関わっておられるのか?」


 マルクスの表情が一瞬だけ強張った。

 見逃さなかった。聖職者の仮面の下で、何かが蠢いたのを。

 やはり、この男は何か知っている。


「……山場を越えられましたか。それは重畳」


 マルクスは薄く笑った。だが目は笑っていない。


「我ら教皇国が関わっているなど、滅相もない。光神ソラリスの加護なき者に訪れる『魂の腐敗』を、私はただ専門家として指摘したまでです」


 深々と頭を下げる。しかしその声には隠しきれない嘲りがあった。


「……しかし殿下。もしそれが『偽りの平穏』であるならば、光神はより過酷な試練を与えられるでしょう」


 脅しだ。

 『嘘は分かっている』という警告。『次はもっと酷い目に遭わせる』という宣戦布告。


 拳を握りしめた。爪が掌に食い込む。

 この男は何かを知っている。あるいは、父王の病に直接関わっているのか。

 もしそうなら、この老いた手で首を絞めてやりたい。だが今は耐えるしかない。


 マルクスが去った後も、謁見の間には甘い香の匂いと、拭い去れない殺意が残っていた。


         ◇ ◇ ◇


 夜。暴風雨が城壁を叩いている。

 殿下の私室に、私は再び控えていた。


 窓から音もなく、諜報員リオラが現れる。濡れた黒装束のまま跪いた。


「殿下、動きがありました」


 彼女の声は乾いている。


「王の『快方』の知らせが回った直後、第二騎士団の副団長セドリックが、城外の商館へ伝書鳩を飛ばしました。宛先は帝国の息がかかった豪商です」


 第二騎士団。国境警備の要だ。そこが腐っているなら、城門などないに等しい。

 眩暈がした。どこまで根が深い。この国は、内側から腐っていたのか。


「やはり、飼われていたか」


 殿下が低く呟く。


「それと、利害が一致しそうな勢力についてですが……南の『自由都市連合』が帝国の関税引き上げに激怒しております。北の『古き種族』も、帝国の採掘部隊に聖域を荒らされているとか」


「交渉の余地はあるな」


 殿下が次の指示を出そうとした、その時だった。

 慌ただしい足音が廊下に響く。

 扉が弾けるように開き、騎士団長アラリックが転がり込んできた。

 常に冷静な男の顔が、蒼白だった。


「殿下!」


 声が震えている。嫌な予感が背筋を走った。


「父王様の寝所を守る衛兵の一人が、毒を煽って自害しました。そして……父王様の容態が急変。肌がどす黒く変色し始めております」


 血の気が引いた。

 「山場を越えた」という嘘が、暗殺者を焦らせたのか。あるいは最初から仕組まれていたのか。

 国境には軍勢。謁見の間には聖職者。城内には裏切り者。そして今、公王の命が風前の灯火。

 八方塞がりだ。どうすればいい。


「帝国の動きは」


 殿下が静かに問う。その声に焦りはない。


「撤退の兆しはありません。『直接祝辞を述べたい。皇帝の万能薬を公王に手渡す』と称し、騎兵部隊がこちらへ向かっています。数時間後には城門へ到達するでしょう」


「王の姿を見せろ、という揺さぶりか」


「はい。もはや猶予はありません」


 殿下はリオラに視線を向けた。


「自害した衛兵の背後は」


「王の食事を運ぶ責任者でした。所持品から教皇国の聖印が見つかっています。しかし、彼はセドリック副団長の部下でもありました」


「マルクスの動きは」


「自室で『祈り』を捧げていると称して閉じこもっています。ですが……」


 リオラの目が険しくなる。


「その部屋からは焦げた匂いと呪文が漏れ聞こえています。父王様の肌が変色し始めたのと同時に、『祈り』は激しさを増しました」


 沈黙が落ちた。

 物理的な軍事圧力と、見えざる呪い。二つの刃が同時に喉元に突きつけられている。

 私は若き主君の横顔を見つめた。

 この絶望的な状況で、何を考えているのか。恐怖に押し潰されそうになってはいないか。


「ヴァイン」


「は、はい」


「帝国と教皇国は、仲が悪いのか」


 唐突な問いだった。しかし私はすぐに答えた。


「不倶戴天の敵です。何度も宗教戦争を繰り返し、今は疲弊して停戦状態にありますが」


「つまり、今この場で協力することはない」


「はい。彼らはレムリアという果実を奪い合っているのです。王の死を巡って、どちらが先にこの国を食らうか。その緊張は臨界点に達しています」


 殿下は小さく頷いた。

 そして、まるで夕食の献立でも決めるような口調で言った。


「誰にもばれないようにボヤを起こせ」


 耳を疑った。


「……は?」


「そして『緊急事態』と銘打って、マルクスの部屋に突撃しろ」


 火事場強襲。自らの城に火を放つなど、正気の沙汰ではない。

 だが殿下の目は本気だった。狂気ではない。冷徹な計算がある。


「帝国には時間を稼げ。『火災の混乱で王との面会は不可能。だが皇帝の好意を無下にはできぬゆえ、王代理として私が受け取る』と」


「マルクスは……」


「生かして捕らえろ。殺すなよ。これが教皇国の意向なのか、暴走なのか。確かめる必要がある」


 殿下は立ち上がり、窓の外の闇を睨んだ。


「毒も呪いも軍隊も、全てまとめて相手をしてやる。――行くぞ」


 その背中を見つめながら、思った。

 この方についていこう。地獄の底までも。

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