第15話 白石家の夕食 ―― 父との無言のチェスと「遺伝子の暗号解読」

 玲奈にとって、ピアノアカデミーでの「音の実験」を終えた後の帰宅は、さらなる知的な戦場への帰還を意味していた。 白石邸のダイニング。そこは、日本医療界の頂点に立つ両親と、規格外の知能を持つ娘が、唯一「同じ言語」で会話を試みる場所だった。


 夕食のメニューは、脳の活性化を促すオメガ3脂肪酸を豊富に含んだ最高級の真鯛のポワレと、自家菜園で育てられた、ミネラル濃度の計算された野菜。


 父・慎司は、外科医としての激務で擦り切れた精神を、娘との会話という「研石」で研ぎ澄ますのが日課となっていた。


「玲奈。今日の午後、大動脈弁置換術を行ったのだが……術後の左心室内の圧較差が、想定より2ミリ水銀柱ほど高かった。……縫合糸の結び目のテンションか、あるいは人工弁の向きの問題か。お前なら、どう推論する?」


 母・仁美が、驚いたように夫を見る。「慎司さん、食事中に七歳の娘に相談するような内容ではありませんわ。玲奈、パパの話は聞き流していいのよ」


 しかし、玲奈はすでに、前世の営業マン時代に地獄のような修羅場で叩き込まれた「断片的な情報から本質的なエラーを抽出する仮説思考」と、今世の超知能によって画像データとして脳内にインデックスされた「父の書斎の全医学書」を瞬時に同期させていた。彼女はフォークを置き、父の瞳を真っ直ぐに見つめた。


「パパ。人工弁の向きじゃないわ。……おそらく、縫合の際の『弁輪の微小な歪み』による乱流よ。……パパは右利きだから、時計の4時の方向の運針が、疲労が溜まるとわずかに深く、そしてテンションが強くなる傾向がある。……そこから生じるコンマ数ミリの非対称が、血流にカルマン渦を発生させているの。……明日の回診で、カラー・ドップラーエコーのベクトルを確認してみて。……4時方向の裏側に、小さな逆流の渦が見えるはずよ」


 慎司の手が、止まった。 彼は娘の顔を見た。そこにあるのは、無垢な子供の表情ではなく、すべての現象を構造的に把握し、システムのエラーを冷徹に指摘する「システムアナリスト」の眼差しだった。


(……恐ろしい。この子は、私の執刀の癖を、一度も見ることなく、理論だけで導き出したのか。……私の疲労の蓄積度合いまでもを計算に含めて……)


 食後のチェス。 慎司は、世界的なチェスプレイヤーとの対局よりも、娘との一戦に神経を消耗させていた。 玲奈の指し手には、一切の「迷い」がない。


(……チェスの盤面は、縦横八列ずつ、わずか六十四マスの閉ざされた小宇宙。……駒の価値は静的なものではなく、常に敵の王の『自由度の消失』への貢献度で再定義される。……パパの思考回路は、外科医特有の『最短経路での止血と修復』に固執している。……なら、私はあえて、盤面全体に『制御不能な出血』を広げ、パパの処理能力をオーバーフローさせる。……犠牲(サクリファイス)は、目的ではなく、手段に過ぎない)


 二十手目。玲奈がナイトを予期せぬ位置に進めた瞬間、慎司は椅子に深く背を預けた。


「……チェックメイトだ。……玲奈。お前、いつからこれが見えていた?」


「……三手目からよ、パパ。……パパが、自分自身の『完璧な論理』を信じて、盤面を中央に集約させた瞬間に、外縁からの負けは決まっていたの」


 慎司は、娘の小さな、けれど黄金のように輝く指先を見つめた。


 この指先が、いつか世界を救うのか、あるいは、既存の倫理を焼き尽くすのか。 彼は、自らの遺伝子が作り出したこの「特異点」に対し、畏怖にも似た愛しさを噛み締めるしかなかった。

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