第三章 小学校低学年編
第12話 入学式の異種 ―― 少年・大和が見た「月光」
四月。名門・聖アンナ小学校の校門を彩る桜は、まるで計算された舞台装置のように完璧なタイミングで満開を迎えていた。
この学校の門を潜ることは、日本における「選ばれし者」の階級に足を踏み入れることを意味する。並ぶ高級外車の列、仕立ての良い紺色のスーツに身を包んだ親たち、そして、幼いながらも「家名」を背負わされた子供たち。
白石玲奈は、父・慎司と母・仁美の間に立ち、その光景を冷めた、けれどどこか懐かしむような目で眺めていた。
(……前世の俺なら、この門を潜るために何十年分の給料を注ぎ込んでも足りなかっただろうな)
彼女の内面で、三十八歳の営業マンだった「俺」が自嘲気味に笑う。
だが、今の彼女は「白石玲奈」だ。その端正な顔立ちは、並み居る令嬢たちの中でも一際目を引く。白磁のような肌、深い知性を湛えた黒真珠のような瞳。彼女がただ立っているだけで、周囲の空気の密度が変わるような縮図があった。
「……きれいだ」
同じ新入生の列にいた佐藤大和(さとう やまと)は、玲奈の横顔に釘付けになっていた。
大和は地元の名士であり、代々続く実業家の家系に生まれた。物心ついた時から「自分はこの世界の中心である」と信じて疑わなかった少年だ。だが、玲奈を見た瞬間、その根拠のない自信は、春風に舞う花びらのように脆く崩れ去った。
彼女は、他の子供たちのように、新しいランドセルを誇ったり、友達を探してはしゃいだりしない。ただ、風の向き、桜の落下の放物線、そして周囲の大人たちが発する微かな緊張感の波動を、静かに受容している。
大和は衝動を抑えきれず、彼女の元へ歩み寄った。
「ねえ、君。白石さんだよね? 僕、佐藤大和。今日から同じクラスだよ」
精一杯の大人びた口調。だが、玲奈がゆっくりと視線を彼に向けた瞬間、大和は呼吸を忘れた。その瞳には、六歳の子供が持ち得るはずのない「深淵」があった。
「……よろしく。佐藤くん。……ねえ、少しだけ左に寄って歩いたほうがいいかもしれないわ」
玲奈の言葉に、大和は首を傾げた。「どうして?」と聞き返す間もなく、玲奈は淡々と続けた。
「あそこの掲示板の影を見て。風が急に止んだでしょう? 建物にぶつかった風が、ちょうどあの角で渦を巻こうとしているわ。地面の砂が白く浮いているから、次はあそこに……」
その直後だった。校舎の角から「ヒュッ」という鋭い風鳴りが聞こえたかと思うと、突風が校庭の砂を巻き上げた。
大和が本来歩こうとしていた場所は、舞い上がった砂埃と枯れ葉の直撃を受け、近くを歩いていた新入生の少女が「キャッ」と声を上げて顔を背ける。
しかし、玲奈のアドバイスに従って数歩ずれていた大和の周囲だけは、まるで魔法のように平穏だった。
(……予知したのか? いや、違う)
大和は戦慄した。彼女は、視界に入る全ての情報を統合していたのだ。
乾燥した地面の状態、風の音の変化、建物の構造が生み出す空気の淀み。それらを、無意識のうちに「生存のための最適解」として演算している。
「……すごいや。君、魔法使いなの?」
大和の幼い問いに、玲奈は困ったように眉を下げた。
「魔法なんて使えないわ。ただ……注意深く見ているだけ。……佐藤くんのスカーフ、とても綺麗だから。汚れたら悲しいでしょう?」
玲奈は、前世の営業マン時代に培った「相手の観察」と、今世の鋭敏すぎる感覚を掛け合わせていただけだった。だが、大和にとって、それは生涯忘れることのできない「奇跡」として刻まれた。
この日、佐藤大和の心には、消えることのない「憧憬」と、それを上回るほどの「得体の知れない美しさ」への畏怖が同居し始めたのである。
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