第20話


 次のゆったりした曲が始まると、そろそろペアを変更しなければならない雰囲気だった。

 だが彼は決してエリーザベトを放さず、視線を送る男を睨みつけて威嚇した。

 相手が決まっているペアは彼らだけではないのに、どうして知らない男たちがじりじり自分に近寄ってくるのか、エリーザベトには不思議だった。


 地面を滑るステップを踏みながらエリーザベトは彼の青い目が暗がりで群青色に変化するのを楽しむ。

 彼の肩に頭を預けると、大きな手が下りてきては彼女の背中の真ん中を優しく支えた。


 ――エリーザベトはこのぬくもりを二度と手放せない。

 理屈ではなく心がそう叫ぶから。


 そしてもう一つ。

 エリーザベトは目を閉じる。

 開いたときには自分を見つめる彼の完璧な顔がすぐそこにある。


「あなたはマティアスなの?」

 彼女は震える声で彼に囁いた。

 彼の柔らかな微笑みが悲しみに覆われた。


「――わからない。わからないんだ。すまない。マティアスは、ソフィアの父親?」

「そう。私の夫」

 軽やかな音楽に合わせてエリーザベトはターンした。

 夜明け色のスカートがふわりと広がり、彼の脚を優しく打つ。

 水のように。


「エリーザベト、何もわからなくてすまない。何も言えなくて、すまない。だが君とこうやって過ごせることが、俺にとってどれだけ幸せなことか」

 のけぞった彼女を追って彼も上半身を倒し、囁いた。


「俺はこの先ずっと記憶を取り戻さないままかもしれない。軍から返事は来なかった。俺は自分が誰かもわからない。いつか再び同じことが起きて、君のことも忘れてしまうかもしれない――」

「あなた……」

 エリーザベトは踊るのをやめた。

 下手くそな吟遊詩人でもいたのだろうか、突然縦笛のピイっとカン高い、耳障りな音が音楽に加わった。

 石畳の間に入り込んだ砕けた飴のかけらが靴の下にひっついた。


「いきましょう」

 彼女は彼を連れて踊りの輪から外れ、人がいない場所を探していきついたのはあの噴水の傍だった。


 ちらほらとペアたちの姿があったが、彼らは自分たちの世界に入り込んでおりこちらを気にする余裕などなさそうだった。

 広場を外れたとたんに調子はずれの音が消えて優雅な旋律が戻ったので、エリーザベトは少しだけ笑った。


 エリーザベトは噴水のかたわら、閉店した出店の壁の影に彼を引っ張り込んだ。

 汗をかいた彼の首元が窮屈そうだったので、手を伸ばしてボタンをはずしてやった。

 彼のにおい、彼の喉仏、顎の裏のライン、ちょっぴりついたカミソリ傷。


 エリーザベトが彼の胴体を包み込み、頭を鎖骨に預けると彼はわかりやすく動揺したが、やがて震える手が彼女の身体を抱きしめ返した。

 彼は彼女の白っぽい金髪に顔を埋め、深く深呼吸する。

 恥ずかしかったがしたいようにさせた。

 エリーザベトは彼の胸元で微笑んだ。


「苦しんでいるのに気づかなくて、ごめんなさい」

「謝るな。俺が悪いんだ。俺が……」

「いいえ。夫婦は同じ苦しみを背負うものです。私たちは一緒に同じ試練に立ち向かうの。ね? そうでしょう?」

 迷子の子供のような彼の表情をエリーザベトは温かく見つめる。

 彼女は続けた。


「今ハッキリと確信しました。私はあなたをマティアスだと思います。人相は変わっているけれど、声も腕も変わらないもの。一度、娘を連れてルスヴィアに行きましょう。あなたを知っている人たちにあなたを見てもらうの。きっとみんな証言してくれるわ、あなたが私の夫だと」

「ルスヴィア?」

「あなたの故郷ですよ」

 彼はエリーザベトをぎゅうっと抱きしめ、彼女の肩口に額をつけて首を横に振った。

 ぱさぱさのダークブラウンの髪が首筋にくすぐったい

 音楽と広場の熱気は冷めることなくここまで届く。

 路地裏から誰かの喘ぎ声。

 踊る人々の歓声と笑いと幸せの気配。

 夏祭りは続き、夜は更けていく。


「俺はそんなことも忘れてしまったのか。故郷の名前さえわからないだなんて」

「……私はね。あなたが記憶喪失に陥って、他の人と結婚してしまったと聞いて、ソフィアをお腹に宿したままルスヴィアを離れたの」

 彼は弾かれたように顔を上げる。

 逞しい全身が絶望にわなないた。


「そんなことが? エリーザベト、どうして君にそんな悲劇が? お、俺がそんなことを、君にさせたのか?」

「いいえ」

 エリーザベトは微笑んで首を横に振り、彼の硬い頬を撫でる。


「きっと何か、行き違いがあったのだと思います。だってあなたはソフィアを見て泣いたもの。あの子もあなたが父親だって、わかっているみたいだもの。――ルスヴィアに行きましょう。そこで、話をしましょう。わからないことを探せばきっと真相が見えてくるはずですわ。そう、レオポルドが戻ってきてくれたら……」

「レオポルド?」

 かすかな嫌悪とあらゆる憎悪を煮詰めたような声だった。

 エリーザベトは驚愕した。

 彼女の知る限り、マティアスはレオポルドを深く信頼しており、レオポルドの方も主人を尊敬して心から仕えていた。

 マティアスがレオポルドを呼ぶとき、声はいつも信頼に満ちていた。

 少しだけ嫉妬してしまうくらい。


「ああ――レオポルド。その名前を聞くと怒りがこみあげてくる。そうだ。俺は奴に裏切られた。そう思う」

「そんな。従僕が主人を裏切るなんて?」

 古い時代の制度が形を変えつつ伝わるプロスティア王国において、主人と従僕は一心同体だった。

 二人は同じ戦場に行き、名誉のために戦った。

 従僕の妻は主人の子の乳母になる慣例さえあった。そして主人の子は従僕の子を自分の従僕にし、主従の誓いは代々続いていくのだ。


「奴を探さなければならない。ルスヴィアに行くのはそのあとだ。奴が俺に何か――何かをした。そして俺は、とんでもない過ちを犯したんだ。そこまでは覚えている。それだけは、覚えている」

 物悲しく美しい悲恋を歌う曲が流れ始め、広場に残った人々が声を合わせて歌い始めた。

 王妃と騎士の叶わない恋愛譚だった。


 エリーザベトは言葉を見つけられず、ただ彼を強く抱きしめる。

 骨が軋むほどの力で彼は彼女に応えた。


「――ちくしょう、思い出さなきゃ。君のことも、きっと失われた記憶に含まれているんだから。何があったか知らないと、君とソフィアをまたひどい目に遭わせてしまう」

「あなた……ハンス様?」

「それは俺の名前じゃない! 俺は――俺の名前は、マティアスだ。証拠はないが確信がある。俺のことをマティアスと呼んでくれ」


「マティアス」

「もう一度」

「マティアス……マティアス。ああ……」

 エリーザベトは涙で前が見えないのを悔しく思う。


「必ず全部思い出すから、エリーザベト、それまで俺と一緒にいてくれるか? ソフィアと一緒に?」

「ええ……ええ」

 二人は抱き合った。

 汚くて暗くて変な臭いもして、まったくロマンスにふさわしい場所ではなかった。

 だがこのときはじめて、エリーザベトは真実この人と心を通じ合えた気がした。


 

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