ママの絶望、スパチャで10万円 ~娘が配信する、完璧な家族の崩壊ライブ~

ソコニ

第1話 完璧な家庭の「バグ」


1

 窓を開けると、十一月の冷たい空気が頬を撫でた。


 桜井美咲は深く息を吸い込み、目を閉じる。今日こそ、きっと何も起こらない。そう自分に言い聞かせながら、キッチンカウンターに置いたコーヒーカップに手を伸ばした。


 白磁のカップは心地よい温もりを掌に伝えてくる。しかし、持ち上げようとした瞬間、手が微かに震えた。コーヒーの表面に小さな波紋が広がる。


 美咲は慌ててカップを置き、両手を組んで深呼吸した。


 大丈夫。ただ疲れているだけ。最近寝不足だから。


「アレクサ、今日の予定は?」


 美咲は努めて明るい声で、キッチンの隅に置かれたスマートスピーカーに話しかけた。


 一秒の沈黙の後、AIアシスタントの声が響く。


『予定はありません。良い一日を、美咲さん』


 美咲の眉が寄った。


「……おかしいわね」


 確かに昨夜、来週の歯医者の予約を入れたはずだった。スマホのカレンダーアプリに、ちゃんと登録したはず——。


「ママ、また忘れちゃったの?」


 振り返ると、娘の心春が心配そうな顔でこちらを見ていた。十歳とは思えないほど整った顔立ち。長い黒髪を後ろで一つに束ね、制服のブラウスは皺一つない。


「え? 何を?」


「昨日の夜、『歯医者の予約、来月にしようかな』って言ってたよ。私、『うん、いいよ』って答えたじゃない」


 心春は不思議そうに首を傾げる。


 美咲は記憶を探った。しかし、そんな会話をした覚えがない。いや、本当にないのか? 最近、こういうことが多すぎる。自分が何を言ったのか、何をしたのか、曖昧になっていく。


「……そう、だったわね。ごめん、ママちょっと寝ぼけてたみたい」


 美咲は笑顔を作った。娘を不安にさせたくない。


「ママ、最近お疲れみたいだね。大丈夫?」


 心春の澄んだ瞳が、じっと母を見つめている。その視線に、美咲は言いようのない居心地の悪さを感じた。まるで、観察されているような——。


「大丈夫よ。さあ、朝ごはん食べましょう」


 美咲は話題を変えるように、トーストとスクランブルエッグを皿に盛った。


 リビングでは、夫の泰一が朝のニュースをタブレットで読んでいる。四十二歳。大手IT企業の管理職。整った顔立ちと穏やかな物腰で、近所でも評判の良き夫、良き父だ。


「おはよう、美咲」


 泰一は顔を上げ、優しく微笑んだ。


「おはよう。今日も早いの?」


「ああ、九時から会議が入ってるんだ」


 完璧な朝。完璧な家族。


 なのに、なぜか美咲の胸の奥には、冷たい何かが沈殿していた。


2

 午後、美咲は近所のイタリアンレストランでママ友たちとランチをしていた。


 窓際の席。外は晴れているが、十一月の陽射しはどこか冷たい。


「ねえ美咲さん、最近どう? なんか疲れてない?」


 向かいに座る優子が、心配そうに尋ねた。優子は美咲の親友で、同じマンションの住人だ。三十六歳。いつも流行の服を着こなし、明るい性格で人気がある。


「そう? ちょっと寝不足で」


 美咲は笑って誤魔化した。


「実はね、最近物忘れが激しくて。この前なんて、スーパーで何を買うつもりだったか忘れちゃって」


「あー、わかる! 私もよくあるわ」


 他のママ友たちも笑って同調する。


 しかし美咲の場合、それだけではない。鍵をかけたはずの玄関が開いていたり、設定したはずのアラームが鳴らなかったり、予定していた約束を忘れていたり——。


 いや、本当に「忘れている」のだろうか?


 美咲はテーブルの上のスープボウルを手に取った。熱いトマトスープ。湯気が顔に当たる。一口飲んだ瞬間、不意に涙が込み上げてきた。


 なぜ? 何に対して?


 美咲は慌てて俯き、スープを飲むふりをして涙を堪えた。誰にも気づかれないように。


「美咲さん、本当に大丈夫? 顔色悪いわよ」


 優子の声が優しく響く。


「大丈夫、大丈夫。ちょっとスープが熱くて」


 美咲は笑顔を作った。いつもの、完璧な笑顔。


 ランチの後、スーパーで買い物をして帰路についた。紙袋を抱えて歩く美咲の背中に、冷たい秋風が当たる。


3

 午後三時過ぎ、美咲はマンションの玄関前に立った。


 2026年標準装備のスマートドア。顔認証システムが搭載され、住人が近づけば自動的にロックが解除される仕組みだ。


 美咲が玄関パネルの前に立つと、カメラが作動する音がした。


 一秒、二秒——。


 いつもなら「Welcome Back, Misaki」と表示され、カチリと鍵が開く音がする。


 しかし今日は違った。


 パネルに赤い文字が浮かび上がる。


『認証エラー:登録されていないユーザーです』


 美咲は息を呑んだ。


「え……?」


 もう一度、顔を近づける。カメラが再度スキャンする。


『認証エラー:登録されていないユーザーです』


 心臓が早鐘を打ち始めた。何かの間違い。システムのバグ。そうに違いない。


「心春! 心春、開けて!」


 美咲はインターホンを押し、娘を呼んだ。


 数秒後、ドアが内側から開く。心春が不思議そうな顔で立っていた。


「ママ、どうしたの?」


「鍵が……認証エラーが出て」


「え? でも鍵、開いてたよ? ほら」


 心春はドアノブを回してみせる。確かに鍵はかかっていない。


「でも、パネルに『登録されていない』って……」


「ママ、また寝不足? ログには『正常に解錠されました』って出てるよ?」


 心春は自分のスマホを操作して、画面を美咲に見せた。


 そこには確かに、『14:02 妻・美咲により正常に解錠』という記録が表示されている。


 同時に、美咲のスマホにも通知が届いた。同じ内容。


「……私が、開けた?」


 美咲は小さく呟いた。


 しかし、自分の記憶では、認証エラーが出たはずだ。パネルに赤い文字が表示されたのを、確かに見た。


 それとも、本当に自分の記憶が——?


 美咲は玄関のタイルに手をついた。冷たい。その冷たさだけが、今この瞬間、確かなもののように思えた。


「ママ?」


 心春の心配そうな声。


「……大丈夫。ちょっとめまいがしただけ」


 美咲は深呼吸して、立ち上がった。


 家の中に入ると、いつもの見慣れた空間が広がっている。しかし、なぜか今日は、すべてが少しだけ違って見えた。


4

 夕方、美咲は夕食の準備を始めた。


 キッチンに立ち、冷蔵庫のタッチパネルを見る。2026年の最新型スマート冷蔵庫は、中身を自動で管理し、足りないものがあれば提案してくれる。


 パネルに「牛乳の残量:なし。注文しますか?」と表示された。


「あれ? おかしいわね」


 美咲は首を傾げた。確か今朝、新しい牛乳を買ったはず。いや、昨日だったか? それとも一昨日?


 冷蔵庫を開ける。


 そこには、未開封の牛乳パックが三本、整然と並んでいた。


 美咲は目を見開いた。


「……え?」


「ただいま」


 背後から夫の声。泰一が仕事から帰ってきたのだ。


「おかえりなさい」


 美咲は振り返って挨拶した。


 泰一はキッチンに入ってきて、開いたままの冷蔵庫を覗き込んだ。牛乳の三本が目に入る。


 彼は小さく溜息をついた。


「美咲、また牛乳買ったの?」


「え?」


「これで今週五本目だよ」


 泰一の声は優しいが、どこか疲れたような響きがあった。


「違うの、パネルが『ない』って表示したから……」


「ちょっと待って」


 泰一はスマホを取り出し、冷蔵庫アプリを開いた。画面を操作して、ログを確認する。


「見て。パネルの記録だと、君がさっき自分で『在庫なし』に手動で書き換えてる」


 画面には確かに、『17:15 美咲により在庫情報を更新:牛乳0本』というログが表示されていた。


「無意識にやってるんだよ、君」


 泰一は悲しそうに美咲を見た。


 そして、付け加えるように言った。


「美咲、君はいつも惜しいところで間違える。あと少しだけ完璧なら、僕たちはもっと幸せになれるのに」


 その言葉に、美咲は違和感を覚えた。


 あと少しで完璧——?


 完璧って、何? 誰にとっての完璧?


 しかしその疑問を口にする前に、泰一は続けた。


「やっぱり一度、病院に行った方がいいんじゃないか。最近こういうこと、多すぎる」


 美咲は冷蔵庫の扉を握る手に力を入れた。金属の冷たさが掌に食い込む。痛いほどに。


「……考えておくわ」


 それしか言えなかった。


 夕食は静かに進んだ。心春は黙々とご飯を食べ、泰一は時折スマホを確認している。


 美咲は食卓を見回した。完璧な家族。完璧な食事。完璧な家。


 なのに、何かが違う。何かが、決定的に間違っている。


 その「何か」が何なのか、美咲にはわからなかった。


5

 深夜二時。


 美咲は寝室で一人、目を開けていた。隣では泰一が規則正しい寝息を立てている。


 眠れない。最近ずっと、こうだ。


 美咲は目を閉じ、眠ろうとした。


 その時。


 スマートスピーカーから、かすかな音が聞こえた。


 最小音量。耳を澄まさなければ聞こえないほどの。


 女の笑い声。


 そして、男の声。


『……明日も会えるよね』


『ええ、もちろん。あなたのためなら』


 美咲の全身が硬直した。


 男の声は——泰一だ。


 女の声は——誰?


 美咲は飛び起きた。


「今の何!? アレクサ! 再生を止めて!」


 スマートスピーカーが反応する。


『何も再生していません。おやすみなさい、美咲さん』


 隣で泰一が目を覚ました。


「……美咲? どうした?」


「今、聞こえなかった? 女の人の声が……」


「何も聞こえないよ」


 泰一は眠そうに答えた。


「嘘よ、今、確かに……あなたの声も聞こえた。女の人と話してる……」


「美咲」


 泰一は上半身を起こし、美咲の手を取った。


「何も聞こえない。静かなもんだ」


 彼の手は温かい。でも、その温もりがなぜか美咲を不安にさせた。


「美咲、君……最近、幻聴まで聞こえるようになったのか?」


 泰一の目には、心配と、そして何か別の感情が混ざっていた。


 憐れみ? それとも——。


 美咲は掌で耳を押さえた。手のひらの熱と対照的な、背筋を走る悪寒。


「……ごめんなさい。寝不足で、変なこと言っちゃった」


「無理しないで。明日、病院の予約を取ろう」


 泰一は優しく美咲を抱き寄せた。


 しかし美咲は、その腕の中で、さらに深い孤独を感じていた。


 自分の感覚が信じられない。


 自分の記憶が信じられない。


 自分自身が、崩れていくような恐怖。


6

 午前三時。


 美咲は再び目を覚ました。今度は完全に眠れそうにない。


 ベッドを抜け出し、廊下に出る。


 その時、娘の部屋のドアの隙間から、青白い光が漏れているのに気づいた。


 こんな時間に、心春が起きている?


 美咲はドアに近づいた。中から、かすかにキーボードを叩く音が聞こえる。


 ノックしようとして、手が止まった。


 なぜか、開けてはいけないような気がした。


 しかし、娘のことが心配だ。


 美咲は静かにドアノブを回した。


 ドアが開く。


 そこには——。


 複数のモニターに囲まれた心春の姿があった。


 三つの大型ディスプレイ。それぞれに異なる画面が表示されている。一つは地図とGPS情報。一つはチャット画面。そしてもう一つは——。


 父親の隠し撮り映像だった。


「心春……?」


 美咲の声に、心春が振り返った。


 その顔には、驚きも焦りもなかった。ただ、静かに母を見つめている。


「ママ、起きてたの?」


「これ……何をしてるの?」


 美咲は部屋に入った。モニターに近づく。


 チャット画面には、無数のコメントが流れていた。


『次はママが泣くところ見せて!』


『スパチャ10万投げるから続けて!』


『これマジ? ヤラセじゃないよね?』


『母親の顔wwww これは名演技』


 そしてわずかに、画面の端を流れるコメント。


『ママ、もうやめてあげて……』


『心春ちゃん、これ以上は君の心も壊れるよ』


『誰か、この子たちを止めて』


 しかし心春は、そうした少数派のコメントをスクロールで飛ばしていく。


「パパを社会的に殺すには、これくらいの素材が必要でしょ? ママ」


 心春は平然と言った。


 しかし美咲は気づいた。娘の指先が、キーボードの上で微かに震えていることに。


「社会的に……殺す? 何を言ってるの、あなた」


「ママ」


 心春は立ち上がり、母の方を向いた。その瞬間、指の震えが止まる。


「パパのスマホ、見せてあげる。生きてるみたいに嘘をつくよ」


 心春はタブレットを操作した。画面に表示されたのは、夫のスマホのミラーリング画面だった。


 そこには、特定のエリアに入ると自動的にアプリのアイコンが変わるツールが表示されていた。マッチングアプリが、計算機アプリに偽装される仕組み。


「これがあれば、パパは誰にもバレずに浮気相手と連絡が取れる。ママの目の前でも」


 心春の声は、あまりにも冷静だった。


「でもこれだけじゃない。見て」


 画面が切り替わる。


 家の平面図が表示された。そこには、リアルタイムで動く赤い点がある。


 それは——美咲の現在位置だった。


「ママの心拍数も表示されてる。今、すごく速いね」


 確かに、画面の端に心拍数のグラフが表示されている。急激に上昇している。


「そして、これ」


 心春が別の画面を開く。


 IoT制御パネル。家中のスマート家電が、一つのアプリで制御できるようになっている。


 照明、音響、施錠システム、冷蔵庫、スピーカー——。


 すべてが、誰かの指先一つで操作できる。


 美咲は震えた。


 冷蔵庫の在庫情報を書き換えたのは、自分じゃない。


 玄関の認証システムを誤作動させたのも、自分じゃない。


 スピーカーから囁き声を流したのも——。


「パパが……?」


「そう。パパがママを、少しずつ壊してたの」


 心春は再び椅子に座り、画面を見つめた。その時、また指先がわずかに震えた。しかしすぐに、キーボードを強く叩くことでそれを隠す。


「なんで……なんでそんなことを」


「ママを精神的に不安定にして、離婚の時に有利に立つため。『妻は精神疾患があり、子供の養育に不適格』って主張するつもりだったんだよ」


 美咲の膝から力が抜けた。


 冷たい床に手をついた。その冷たさだけが、今の美咲を現実に繋ぎ止めている。


「心春……あなた、いつからこれを……」


「三ヶ月前から。パパのスマホをハッキングして、気づいたの」


 三ヶ月。


 その間、娘は一人で、この事実を抱えていたのか。


「なんで……なんで私に言わなかったの」


「言ったら、ママ壊れちゃうと思ったから」


 心春は初めて、少しだけ表情を崩した。


「でも、もう限界だね。ママ、毎日泣いてるでしょ。誰にも見せないように、シャワーの中で」


 美咲は息を呑んだ。


 それも、知られていたのか。


「これから、ママを守るために戦うよ。私が」


 心春は再び画面を見つめた。


 その横顔は、十歳の少女のものではなかった。


 何か、もっと冷たく、もっと恐ろしいものに見えた。


 美咲は娘の肩に手を置こうとした。


 しかし、触れる前に心春が言った。


「ママ、触らないで。今カメラ回ってるから」


 心春の指が、一瞬だけ、キーボードの上で止まった。震えている。しかしすぐに、何事もなかったかのようにタイピングを再開する。


 美咲の手が、空中で止まった。


「カメラ……?」


 心春はチャット画面を指差した。


『同接38万人突破!』


『ママの顔、最高!』


『次の展開期待!』


 そして画面の隅に、小さな数字が表示されていた。


『総収益:¥127,450,000』


 一億二千万円。


「心春……これ、何……」


 美咲の声が震えた。


 心春は初めて、母の方を向いた。


「ママ、私ね。VTuberのプロデューサーなの」


 そして、小さく笑った。しかしその笑顔の奥に、何か必死に隠しているものがあるような——。


「パパの破滅を、コンテンツにしてるんだ。ママも、その一部」


 美咲は、娘を見つめた。


 この子は、誰?


 自分の娘は、いつからこんな——。


 いや。


 美咲は思い出した。


 心春が小学校で賞を取った日。夫の機嫌を損ねないことに必死で、娘の話を上の空で聞いていた自分。


「ママ、見てる?」と聞く心春に、スマホを見ながら「見てるわよ」と答えた、あの日。


 娘の目に浮かんだ、冷たい失望の色。


 この子を、怪物にしたのは——。


「ごめんね……ごめんね、心春」


 美咲は、冷たい床に膝をついた。


「こんな子に育てたのは、私のせいだ」


「ママ、泣かないで」


 心春が、初めて画面から目を離した。


 その瞳に、一瞬だけ、十歳の子供らしい不安が浮かんだ。指が、また震え始める。


「これは、ママを守るためなんだよ。本当に。私……怖かったんだよ、ずっと」


 心春の声が、わずかに震えた。


「パパがママを壊していくのを見てて、でも、どうすればいいかわからなくて……」


 しかし、その言葉が終わる前に、心春は唇を噛んで、再び画面に目を戻した。震えていた指が、強くキーを叩き始める。


 美咲は、震える手で自分の首に触れた。


 そこにあるネックレス。娘が誕生日にくれた、大切なプレゼント。


 心春が言った。


「それ、生体データ送信機。ママの心拍数と体温が、配信に反映される仕組みになってる」


 美咲は、ネックレスに触れる指に力を込めた。


 金属の冷たさが、指先に突き刺さる。


「私の……絶望が……」


「うん。スパチャに変わってる」


 心春は淡々と答えた。


「ママが動揺すればするほど、『絶望ゲージ』が上がって、投げ銭が増える仕組み」


 美咲は、笑いたくなった。


 いや、実際に笑い声が漏れた。


 乾いた、壊れたような笑い。


「私たちの家族は……いつから、こんなふうに……」


 その時。


 心春のタブレットに、通知が届いた。


 画面を見た心春の表情が、わずかに変わる。子供らしい恐怖の色が浮かぶ。


「ママ、これ見て」


 タブレットを差し出される。その手が、震えていた。


 そこには——。


 夫のスマホ画面が表示されていた。


 家の平面図。美咲のリアルタイム位置。心拍数のグラフ。


 そして、IoT制御パネル。


 画面の下部に、メッセージが表示されていた。


 泰一が、誰かに送信したメッセージ。


『明日、最終段階に入る。妻を強制入院させる手続き、整えた』


 美咲の血の気が引いた。


「強制……入院……?」


「パパは、ママを精神病院に入れて、親権を奪うつもりだったんだ」


 心春は震える声で言った。その目に、涙が浮かんでいる。


「でも、もう大丈夫。私が全部、記録してるから。ママを、絶対に守るから」


 画面が切り替わる。


 夫の指が、スマホ画面をスワイプする映像。


 そして、夫の声が録音されていた。


『次はどの感覚を壊そうか。聴覚は成功した。次は……そうだな、時間感覚か』


 美咲は、全身が震えた。


 怒りなのか、恐怖なのか、自分でもわからない。


 ただ一つ、確かなことがあった。


 もう、元の生活には戻れない。


 完璧な家族の、完璧な仮面は、完全に剥がれ落ちた。


「心春」


 美咲は立ち上がった。


 床の冷たさから、熱を帯びた決意へ。


 そして、震える娘の肩を、今度はしっかりと抱きしめた。


「ありがとう。あなた、一人でこんなに怖い思いをして……ごめんね」


 心春の体が、母の腕の中で小刻みに震えている。


「ママ……」


「でも、もう一人じゃないわ。これから、二人で戦いましょう」


 美咲は娘の頭を撫でた。


 心春は顔を上げ、涙を拭った。


「……うん」


 そして、再びモニターを見つめる。今度は、震えは止まっていた。


「ママが主役になるの。私のコンテンツの」


 モニターの一つに表示された文字。


『第2章:母の覚醒 配信予定日:明日』


 美咲は、その文字を見つめた。


 自分が、何かの物語の登場人物にされている。


 娘によって。


 世界中の、無数の観客によって。


 これは、悪夢なのか。


 それとも——。


 美咲は窓の外を見た。


 夜明け前の、最も暗い時間。


 冷たい闇の中で、美咲の目だけが、熱を帯び始めていた。


 そして、隣では娘が、同じ熱を宿した目で画面を見つめている。


 二人の戦いが、今、始まろうとしていた。


【第1話 完】


次回予告:


親友の優子が、夫の不倫相手だと知った美咲。しかし優子は笑いながら告げる。「私だけだと思ってるの?」——信じていた人々が、次々と裏切り者だったことが明らかになる。そして美咲は知る。夫が所属していた「不倫サブスクリプション」という、闇のネットワークの存在を。


絶望の淵で、美咲は決意する。娘と共に、この地獄を「エンターテインメント」に変えることを。


雨の降るカフェで、美咲は優子と対峙する。その全てが、38万人の視聴者に配信されていることも知らずに——。


第2話「親友の正体と『二重スパイ』」近日公開

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