テセウスのシチュー
犬飼陽
テセウスのシチュー
シチューを作った。
季節は秋で、空気が冷たくなってからはじめて作ったシチューだった。
今季初のシチューはまったりとしてコクがあり、ジャガイモの代わりに入れたサツマイモもほくほくとしていていい塩梅で、実においしいシチューだった。
おかわりしようと鍋の蓋を開けると、シチューの残量に愕然とした。
もう半分ほどしかなかった。
私は料理があまり好きではない。
またシチューを作ろうと思うと、途方もない労力がかかる。
具を用意し、野菜の皮を剥き、適当な大きさにカットし、炒め、ルーを溶かし…考えただけでもげんなりとしてしまう。
だからシチューを作る時には家で一番大きい鍋にたっぷりと限界まで作るのだ。
いつも雑に作るし具もまちまちなので、また作ったとして、同じ味になる保証もない。
そう思うと、このシチューが特別いとおしいもののように思えた。
なくならないでくれ。
シチューのもったりとした輪郭を祈るように見つめた。
そこで私は気が付いた。そういえばこのシチューは少し味が濃かったかもしれない。
いいアイデアが浮かんだ。
牛乳を足せば量が増える!
私は冷蔵庫に走り、牛乳を取り出した。
シチューに注ぐと、はじめは相いれないもの同士のように分離していたが、お玉でぐるぐると混ぜ続けると初めから同じ液体だったかのように違いがわからなくなった。
シチューは増えた。
私はにっこりとし、少し薄味になったシチューを器に盛り、食した。
翌日、鍋に残ったシチューは固体に近くなっているように見えた。
鍋に三分の一程になったシチューはまだもったりと形を保っていて、牛乳を受け入れる余裕があるように見えた。
私は牛乳を取り出し、注いだ。
昨日よりも多く、見えてきた鍋の底という終わりを覆い隠すようにたっぷりと注いだ。
昨日よりも多い牛乳はシチューだった部分を飲み込み、ほどなくしてシャバシャバとした液体になった。
だがシチューのかさは三分の一から三分の二程度まで回復した。
私はにっこりとし、シチューを器に盛り、食した。
ほとんど牛乳スープのようになったそれは、それでもまだシチューの味がしていたように思う。
また鍋の前に立った時、私は躊躇した。
鍋の中身はまた三分の一程度になっている。
先ほど食べたシチューはほとんどミルクスープだった。これはまだシチューと言えるだろうか?
「テセウスの船」が頭をよぎる。
船の壊れた部分を交換していって、いつか船の部品が全部交換されて新しいものになった時、それは元の船と同じものだろうか?
というパラドックスだ。
私はシチューを見た。
ほんのりアイボリーな色をしてもったりとした質感の、具のたくさん入ったシチューだったものは、今やミルクホワイトでシャバシャバで具のほどんどないスープになっている。
唐突に気づいた。
これはもう、シチューではない。
私は泣いた。
せめてシチューの面影が全て消えてしまう前にその味を記憶にとどめよう、と手を加えずに鍋から器にそれをすくった。
口に含むと、先ほどと同じミルクの味がした。
舌触りはほとんど牛乳と変わりがない。
だが飲み込むと後味に、シチューのほっこりとした余韻があった。
シチューとの思い出がよみがえった。
具のないスープを喉に流し込み、余韻にお別れを告げたあと鍋を見た。
空っぽになった鍋のへりには、ミルクスープにしてはもったりとして固い、元のシチューだったものがくっついていた。
私はその部分を指ですくうと口に運んでみた。
先ほど食べたミルクスープとはまったく違う、もったりとしておいしいシチューの味がした。
私は空になった器を台所の流しに入れながら考える。
でも、ミルクスープだっておいしかった。
牛乳で薄められ、格段に洗いやすくなっている鍋も流しに入れながら、
二つのまったく違う味のスープを思いながら、
テセウスのシチュー、と口に出してみるのだった。
テセウスのシチュー 犬飼陽 @7_24inukai
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