午前零時、いつもの場所で

来国アカン子

白石

 僕が彼女と初めて出逢ったのは、公園の隅に胃の中のものを吐き出した直後だった。その公園は中々の大きさで、日の出ている時間には池の上で気怠そうに泳ぐボートを眺めることができるが、日付けが変わろうというこの時間では、反射した太陽光から一月振りに解放された星々を水面に映すだけで精一杯だった。光の当たらない紅葉の下のベンチに腰を下ろし、背中の中心辺りから抜けていく浮遊感と頭痛、治まらない嘔吐感を視線に乗せて遊歩道に落ちた小枝を睨みつけていたところ、不意に人の気配を感じ、振り返るとそこに彼女がいた。顔はよく見えなかったが、おそらく高校生くらいの年齢だろう。髪を白く染めていて、フード付きの白いダウンジャケットを羽織っている。

 「ねえ」

 と、彼女は僕の虚ろな視線を無視して声をかけてきた。こんな時間にこんな場所をうろついている人間などろくなものではない。彼女もその類だろうと理解し、水面に浮かぶ落ち葉を数える作業を開始する。

 そして、気が付いた時には、彼女は僕の隣に座っていた。

 「ねえ」

 再び声をかけられる。先程と違うのは、その声が真隣から聴こえてくるということだけで、やはり僕はそれを無視して同じ場所の落ち葉の枚数を何度も数え直す。いや、或いは彼女の声は、真隣からではなかったかもしれない。脳内で反響しているかのような、よく通る白い声だった。彼女は特に気を悪くする様子もなくこちらを見つめ、時折その視線をどこかの変人の様に池の水面に注ぐ。

 そうしていつの間にか、彼女の気配は消えていた。その頃には体調も若干ながら元に戻りつつあって、僕はベンチから腰を上げて帰路に就いた。

 二度目に彼女と出逢ったのは、その三日後の同じ時間だった。夕立の跡が残る木のベンチに腰を下ろし、気持ちの悪い湿っぽさに苛立ちながら、足元の濡れた落ち葉とまだ乾ききっていない砂を爪先で混ぜていると、背後に気配を感じた。彼女は断りもなく隣に腰を下ろし、僕が爪先で落ち葉と砂を混ぜている様子をただ眺めていた。その日は声をかけてくるでもなく、眠気が頭の上に逃げてしまった頃には、既に彼女の姿はなかった。


 それから更に一週間が経ち、同じ場所、同じ時間に再び彼女は現れ、決まり事の様に、そうあるのが当然だと言わんばかりに、僕の隣に座る。その日は前回よりも近く、吐息が聞こえるのではないかという程の距離にまで近付き、僕の顔を覗き込んできた。

 「私、白石」

 前触れのない自己紹介が流行っているのだろうか、彼女は聞かれてもいないのに、自分の名を口にした。教えるのが姓だけなのは、僅かに残った警戒心からなのか、それとも単純に僕に興味がないだけなのか。

 彼女の顔立ちは幼く、髪の隙間から覗く首筋は不健康なまでに細い。僕はそれを興味のない戦場写真でも見る様に眺め、彼女は僕のその視線を受け止める。

 そしてやはり、少し視線を他所に向けている間に、気配もなく何処かへ帰っていく。




 日付けが変わる頃になると、彼女は必ずいつもの場所に現れた。それは浮遊感と頭痛、嘔吐感、纏わり付くような寒さが一段落した後に限定されるが、僕は次第に彼女が来るのを待つようになっていた。三月半ばのような、白い結晶の女を。

 木々が赤い衣を脱ぎ捨てる頃、僕は初めて、隣に座る彼女に向かって言葉を発した。

「何してるの」

 彼女────白石の方を見ずに、黒い水が申し訳程度に波打っている様を見つめながら尋ねる。

 「待ってるの」

 白石が答える。

 何を、と訊いても、彼女は「待ってるんだよ」としか答えなかった。やはり、こんな時間にこんな場所をうろつくような物好きは、どこか外れているのだろう。

 その日は浮遊感等々が中々治らず、それどころか日付けが変わってしまってからも酷くなる一方だった。彼女はそんな僕の体調のことなど興味ないようで、珍しいことに小さく鼻歌なんかを歌っている。流行りの曲だろう、ということはわかったが、彼女もそんなに覚えていないのか曖昧なもので、誰がどんな想いを込めて作ったものなのか、その曲名はついぞ思い出せなかった。或いはそんなものを求めること自体が、間違っているのかもしれない。

 そうしていつものように、僕の知らないうちに何処かに消える。


 それまで数日置きに中途半端な逢瀬未満な顔合わせをしていたが、翌日、彼女は再び現れた。肩が当たる程に近付き、いつものように僕の顔を覗き込む。見るべきところのない平凡な顔立ちだと思っているのだが、それは僕だけで、実際は長時間見ていられるような醜悪な顔をしているのだろうか。それとも、目の下にこびりついた隈が気になるのかもしれない。

 その日、白石は何も言わずに僕の服の袖を引き、僕の家まで引っ張っていった。何故彼女が僕の家を知っているのかわからないが、頭の中が理解し難い前衛芸術家の作品のような無意味窮まる色彩で満たされていたので、特別それを疑問には思わなかった。

 安いワンルームアパートの玄関扉の軋む開閉音が脳に突き刺さる。

 靴を脱ぎ捨てる。

 廊下と呼ぶには余りにも短い空間を歩く。

 扉を開けて生活空間の八割を占める部屋に入る。

 カーテンを閉める。

 ベッドに倒れ込む。

 白石の声だけが心地よく脳のしわをなぞっていく。


 朝日が射し込む頃、回転数の落ちた思考の切れ端からなんとかシャワーを浴びる気力をつまみ取り、その後一人の部屋からいつもの通勤路へと転がり出た。体の隅々まで、倦怠感と虚脱感が染み付いていた。


 その日は度重なるちょっとした不手際が仇となったらしく、僕は昼過ぎには家に帰ることになっていた。通勤前に開け忘れていたカーテンを眺めているうちにいつの間にか眠っていたようで、目を覚ました時には二十一時を過ぎていた。途中何度も意識が半分だけ覚醒していたことは記憶にあるのだが、先程まで見ていた夢は早々に忘れてしまった。確か、何か銀色の板を持っていた気がするが。

 アルコールで白い夢の欠片を胃に流し込んだ後、二時間程ベッドの上で視線をあちこちに彷徨わせ、外に出ようとしたとき、いつものように、彼じょがあらわれる、しら石はいつもしろいからきっと白いしなんだなとおもう。

 いけのある公えんから僕のいえにむかっているのはすごくながい。いつもよりゆめの欠片が多いのがげん因だろう、ひかりが目に痛いからふわふわして背骨が軋んできもちわるいのがきもち良くてすきなんだ。




 そしてそれから、僕は彼女と過ごした。

 それが数日だったのか、一日だけだったのか、もっと長い時間共にいたのかはわからないが、兎に角、暫くののちに白石は姿を消した。僕が白い部屋に引っ越した頃から深夜の逢瀬はなくなり、やがてその存在は部屋と同じ色の服を着た大家の指示で形を変えてしまった。

 白石が今頃どうしているのか、僕にはわからない。あの日と同じように、あの公園の木々に自ら包み隠された人々を暴いているかもしれない。この都市のどこかを所有しているかもしれないし、未来を語っているかもしれないし、犬のように愛を注がれているかもしれない。

 いつかまた、淀んだ池の畔で彼女を受け入れたいと思う。

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