第5話 戸惑いの先
馬車の往来が多く、荷を積んだ商人たちが声を張り上げている。
凶作の影響で、物の動きが早い。
必要なものは、早く、確実に運ばなければならない。
私は、その様子を横目に見ながら歩いていた。
いつもなら、自然と視線が先へ先へと伸びる。
危険がないか、人の流れはどうか、音は重なりすぎていないか。
けれど今日は――
私は、意識的にそれをしなかった。
通りの向こうで、声が上がる。
「危ない!」
反射的に顔を上げた。
馬車が、傾いている。
石畳のわずかな段差に車輪を取られ、積荷が不安定になっていた。
木箱。
中身は、陶器だ。
時間が、嫌なほどゆっくりに感じられた。
箱が滑る。
紐がほどける。
白い陶器がいくつか、宙に舞う。
――落ちる。
その下に、小さな女の子がいる。
次の瞬間、私の頭の中で、映像が勝手に繋がった。
落ちる。
割れる。
鋭い破片が、足に――
そこまで考えて、息を呑んだ。
遅い。
気づくのが、遅すぎた。
止めなきゃ。
今なら、止められるはずだ。
私は、心の中で強く願った。
――止まって。
けれど、世界は何も変わらなかった。
陶器は地面に叩きつけられ、甲高い音を立てて砕け散る。
女の子の短い悲鳴。
人が駆け寄る。
血が、石畳に落ちる。
私は、その場から一歩も動けなかった。
――違う。
違う、違う。
できなかったのは、力が足りなかったからじゃない。
気づくのが遅かったからだ。
もっと早く。
もっと早く異変に気づいていれば。
助けたい、と思う前に、
もうダメだ、と考えてしまった。
それが、すべてだった。
女の子は抱え上げられ、治療のために運ばれていく。
命に別状はない、と誰かが言った。
それでも、胸の奥が冷えたままだった。
「……ごめんなさい」
誰にも聞こえない声で、そう呟いた。
私は、助けたかった。
でも、それ以上に強かったのは、
――もう間に合わない、という確信だった。
想いの強さ。
それが、足りなかったのだ。
私はそう結論づけて、唇を噛んだ。
通りを再び歩き出す。
けれど、足取りは重い。
あの時、もし。
もし、あの瞬間に、迷わず手を伸ばせていたら。
――この力は、優しくない。
使い方を誤れば、何も救えない。
*
会議室は、熱を帯びていた。
凶作の影響。
西との交渉。
北の沈黙。
議論は白熱し、誰もが言葉を切らさない。
その中を、給仕の女性が静かに歩いていた。
銀のポットから、赤褐色の液体を注いで回る。
――熱い。
湯気が立ちのぼり、空気に微かな香りが混じる。
次の瞬間だった。
リラの横にいる男が、身を乗り出して強く机を叩いた。
怒気を含んだ動き。
その腕が、女性の手に当たる。
――危ない。
次の瞬間、ポットが跳ね上げられた。
空に舞う、銀色。
誰もが見た。
このままでは、あの女性の顔に――
私は、反射的に前へ出ていた。
助けたい。
その想いだけが、はっきりしていた。
時間がどうとか、考える余裕はなかった。
ただ、女性の上体を、強く引く。
体を後ろへ。
間に合え。
女性の体が傾いた、その直後。
ポットは、彼女の頭上をかすめ、
何事もなかったかのように背後の床へ落ちた。
鈍い音がして、紅茶が床に広がる。
室内が、数拍遅れてざわめいた。
「今の……」
「…危なかったな」
女性は、呆然としたまま立ち尽くしている。
私は、彼女の肩を支えたまま、息を吐いた。
――できた。
さっきとは、違う。
同じように危険な場面だったのに。
同じように未来が見えていたのに。
今度は、体が動いた。
止められた。
違いは、何?
私は、答えを探すように、自分の手を見つめた。
時間を止めた感覚は、なかった。
巻き戻した感触も、ない。
それでも、確かに。
さっきはできなかったことが、
今はできた。
……やっぱり。
想いの強さ?
助けたい、という気持ちが足りなかった?
迷ったから、止まった?
分からない。
分からないけれど。
このまま放っておくわけにはいかない。
私は、そう確信していた。
*
会議室を出た後も、指先の感覚が戻らなかった。
あの瞬間、私は確かに動いた。
動けたはずのない速さで。
それなのに、呼吸は乱れず、胸の奥だけが熱くて冷たかった。
あのままでは、確実に女性の顔へポットが直撃する筈だった。
能力は、発動していた。
……なら、さっき助けられたのは、何が違った?
朝の道。
傾いた馬車。
落ちる陶器。
そして、少女の足。
私は、気づくのが遅かった。
遅い、というのは罪だ。
目が追いついた時には、もう、頭の中で出来事が最後まで走ってしまう。
落ちる。割れる。刺さる。
それから先――
そこまで想像してしまった瞬間、身体が動く余地は残らなかった。
助けたい、より先に、「もう間に合わない」と信じてしまった。
その日の二つの出来事は、私の中に問いを置いていった。
同じように危ない。
同じように一瞬。
同じように、私はそこにいた。
――なのに、片方は助けられた。片方は助けられなかった。
私は、考えずにいられなかった。
怖い。
けれど、このまま曖昧にしておく方が、もっと怖い。
だって、次はルシアかもしれない。
次は誰かの「当たり前」かもしれない。
私は息を吸って、吐いて、決めた。
確かめる。
自分の手で。
*
城下町の外れには、作業場がいくつもある。
修繕の木材、荷造りの麻縄、積み上げられた木箱――人の暮らしを支える雑多な匂いがする場所だ。
そこを選んだのは、目立たないから、ではない。
人が少ない時間を選べる。
そして、私が“動かすもの”を、私が決められるからだ。
積み上げられた木箱の列。
壁際に寄せられた荷。
大きい箱ほど下、軽い箱ほど上。
倒れるなら――こちら。
私は、倒れる方向を確認した。
倒れれば、箱はまっすぐ通路側へ雪崩れる。
そこは、誰もいないはずだった。
だから私は、試そうと思った。
……時間が。
ほんの少し戻るのか。
どこまで戻れるのか。
何を戻せて、何を戻せないのか。
――戻せるなら。
私の掌の汗で、木箱の角が妙に冷たく感じた。
私は、わざと重心を崩した。
木箱が、鳴る。
乾いた木の擦れる音。
連鎖の始まる音。
私は待った。
危ない、と感じるまで。
そこからなら、止められるはずだと――どこかで信じていた。
そして。
倒れた。
木箱が、こちらへ――いや、通路へ。
……おかしい。
思ったより、速い。
思ったより、重い。
思ったより、音が大きい。
私は、巻き戻すつもりで息を呑んだ。
いつもの、あの遠ざかる感覚を呼び戻すつもりで。
――来ない。
喉の奥が凍る。
もう一度、強く願う。
“今”を引き剥がすように。
――来ない。
その時。
通路の影に、人がいるのが見えた。
職人の男だ。
荷の点検に来たのか、腕まくりをしたまま、こちらを見上げている。
気づくのが一拍遅れた。
箱は、職人の方へ倒れていく。
「……っ」
息が詰まった。
――まずい。
今度こそ、躊躇いより先に「助けなきゃ」が立った。
その瞬間、世界が遠くなった。
音が薄くなる。
身体が重くなる。
足が沈む。
空気が粘る。
来た。
私は走ろうとして、走れない。
いつものように“軽く”は動けない。
思考だけが速くて、身体が遅い。
でも、私は前に出た。
職人へ向かって、腕を伸ばした。
間に合わない――はずだった。
箱の角が、職人の肩をかすめる。
男の身体が弾かれ、地面へ倒れ込む。
鈍い音。
打撲。
そして足首が、嫌な形でねじれるのが見えた。
同時に、私の掌が裂けた。
木箱の木片か、釘か。
何か鋭いものが当たった。
熱い。遅れて痛い。
血が、手のひらを伝って落ちる。
深く。裂けている。
見ただけで、ぞっとする。
私は、息を吐いた。
……助かった。
“間に合った”と言い切れるほどではない。
でも――職人は潰されなかった。
頭も胸も守れた。
私は、胸の奥がぐらつくのを感じた。
さっきまで、戻らなかった。
けれど途中から、確かに“動いた”。
私が速く動けたから?
違う。速さだけじゃない。
時間を、操作した感覚。
……掴めた。
完全じゃないけれど。
周囲がざわつき始める。
音が大きすぎた。
思った以上に、作業場全体に響いた。
街の外れにいた人々が集まってくる気配。
人の声。
「大丈夫か!」
「怪我をしてる!治療を……!」
「木箱が崩れたんだ!」
私は答えられなかった。
口を開いた瞬間、ここにいる全員の視線が私に刺さるだろう。
職人は歯を食いしばって、しかし意外と冷静だった。
「……折れてはねぇ。たぶん。捻っただけだ、くそ……」
周りの者が男を支え、誰かが氷を持ってくる。
私の手のひらにも布が当てられ、圧をかけられる。
痛みが、ようやく現実になる。
熱がじわじわ広がって、指先が震える。
そこへ。
人の輪が割れて、落ち着いた足音が入ってきた。
ルシアだった。
呼吸ひとつ乱していない。
でも目だけが、怒っている。
彼女は私の手を見て、何も言わずに包帯を受け取った。
血で濡れた布を外し、傷を見て、眉を寄せる。
「……リラ」
名前だけ。
その一言で、背筋が冷えた。
ルシアは、治療を始めた。
手際が良すぎて、言い訳を挟む隙がない。
消毒の刺激。
私は顔をしかめるが、声は出さない。
包帯が巻かれていく。
最後の一巻きが、少しだけ強い。
痛い。
でも、その痛さが妙にありがたかった。
ルシアは結び目を作り、そこでようやく私を見た。
「……後で話す」
「……うん」
それだけで、十分だった。
私は、職人の方にも視線を向ける。
男は眉間に皺を寄せたまま、誰かに肩を貸されて座っている。
私が巻き込んだ。
私が、やった。
胸が重い。
……そして。
私の頭の中では、ひとつの想像が膨らみ始めていた。
もし、これが本当に時間を操る力なら。
戻せる範囲が広がったら。
戻せる回数が増えたら。
戻すことが“癖”になったら。
失敗しても、なかったことにできる。
痛みも、傷も、死さえ――
そんなものに手を伸ばしていいのか。
私は、包帯を見つめた。
白い。
痛い。
現実だ。
……時間を操るというのは、
きっと、とても危険なことだ。
危険なのは、能力じゃない。
私自身だ。
私がそれに慣れた瞬間、
たぶん、私はもう戻れなくなる。
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