第2話 生きること

冷たい。 全身が凍てつくような感覚。 銀色の髪が視界を覆い、意識が底なしの闇に沈んでいく。


(ああ、これで……静香は……)


感謝、したはずだった。 自分の命と引き換えに、日常が守られるのだと。


なのに――。


『――フハハハ、阿呆が。儂がうぬを喰ろうて、あの娘を見逃すとでも思うたか?』


脳裏に響く、嘲笑うかのような声。


(違う……!  約束が――!)


『約束?  人間風情が、導魔と対等に契約できると思うな。うぬの命も、あの娘の命も、等しく儂の糧じゃ。来世ではおぼえておくんじゃ、他人に期待も信用もするな』


絶望。裏切られた。 静香も、俺も、無駄死にか。 意識が完全に途切れる寸前、俺は自分の愚かさに身を捩った。


――ふと、意識が浮上した。


(……?)


闇ではない。 眩しさに目を細めると、そこには見慣れない白い天井があった。 ツン、と鼻を突く消毒液の匂い。 自分の体から発せられる、規則的な電子音。


(生きて……る?  やっぱり、騙されたのか)


馬鹿な。俺はあの時、確かに喰われたはずだ。 混乱する頭で身体を動かそうとしたが、全身に濡れた鉛を乗せられたかのように、指一本動かない。


「目が覚めましたか。よかった……!」


ふわりと、柔らかな女性の声が耳に届いた。 視線をそちらに向けると、白衣を着た女性が立っていた。 長く艶のある髪を後ろで一つに束ね、知的な雰囲気の眼鏡をかけている。彼女は俺の顔を覗き込み、心底安堵したように優しく微笑んだ。こんな対応されたのは昔、保健室で寝込んだ時以来だな。


「ここは……?」 俺は、ひび割れた喉から絞り出すような声で尋ねた。


「ここは波導はどう協会の医療施設です。私は波導士専門の医師、穂波早苗ほなみ さなえ。あなたが眠っている間、ずっと診ていました」


穂波さんは手元のタブレットを操作しながら、俺に視線を戻す。


「波導……協会……?」

聞いたこともない単語に、混乱は深まるばかりだ。


「それより……静香は! 橘静香は、どうなったんだ!」


身じろぎしようとして、全身に激痛が走る。


「ぐっ……!」


「あ、ダメですよ、そんなにいきなり動かないでください!」


穂波さんが慌てて俺の肩を抑えてくれた。


「あなたの身体は、まだ『繋がった』ばかりで非常に不安定なんです。負担がかかると危険ですから」 「繋がった……?」


まだまだわからないことが多すぎる。 その時、病室の扉が静かに開いた。


「あら、起きたのね、早苗。……と、ご本人も」


入ってきたのは、穂波とは対照的な、凛とした空気を纏う女性だった。


服装も、夜の闇に溶けるような深い濃紺ミッドナイトブルーのアウター。 一見すると軍服のようなロングジャケットだが、その前合わせはボタンではなく、着物のように打ち合わせるカシュクール仕立てになっている。 動くたびに、ジャケットの裾と、はかまのようなワイドパンツが鋭く翻り、裏地の鮮烈な「鉄錆色てつさびいろ」がチラついた。


和装の優雅さと、特殊部隊のような機能美。 その相反する要素を、彼女は完璧に着こなしている。


そして、背中まで届く長い黄色の髪を、後ろで一つに束ねている。 色素の薄いその髪色は、彼女の白い肌と相まって、どこか浮世離れした輝きを放っていた。 整った顔立ちは、厳格さと、その奥にある深みを感じさせる。


佳紬由かつゆ先輩!  はい、たった今、目が覚めました」 穂波が、尊敬する先輩に向ける顔で背筋を伸ばす。


「そう。ご苦労様、早苗。あとは私が引き継ぐわ」


「はい!」


佳紬由みや かつゆと名乗った女性は、俺のベッドサイドに歩み寄り、真っ直ぐに見つめてきた。 その瞳は、値踏みするようでありながら、どこか迷子を見るような哀れみも含んでいた。


「初めまして、木場凪人くん。私は宮 佳紬由。波導協会の一員よ」


「宮……佳紬由、さん……。ここは、一体どこなんだ。俺は、あの時……喰われたはずだ。なんで、生きてる……!」


そして、何よりも。


「静香は!  静香はどうなったんだよ!」


佳紬由は、俺の焦燥を真正面から受け止めて、静かに頷いた。 そして、事実を淡々と告げ始める。


「あなたがここにいる理由、そして生きている理由――それは、あなたがあの“導魔どうま”と主従関係を結んでしまったからよ」


「導魔……?」


あの銀髪の美女の姿が脳裏をよぎる。


「そう。あなたが出会ったのは、人間の常識を超えた存在、“導魔”。そして、あなたが命を差し出すと言ったことで、彼女……“波導の女王”は、その『申し出』を受け入れた」


「申し出……」


「結果として、あなたの命は彼女のものになったのよ。あなたは喰われたのではなく、『飼われた』の」


佳紬由の言葉に、俺は息を呑んだ。 全身の血が、急速に冷えていく。


「じゃあ、俺は……もう、人間じゃ……ないってことか?」


「厳密にはまだ人間。ただ、あなたの魂と命は、彼女と強固な鎖で繋がっている。……本来なら、導魔と主従関係を結ぶなんて前代未聞の事態よ。協会設立以来、初めてのケース。私たちもまだまだ分からないことのほうが多い」


佳紬由はそこで一度言葉を切り、どこか憂いを帯びた目で窓の外を見た。


「そして、これは決して喜ばしいことではないわ。むしろ、波導協会としても、あなたの存在は……非常に危険だと判断されている」


俺の命の扱いは、俺が眠っている間に、すでに決せられようとしていたらしい。 佳紬由は、ふぅ、と小さくため息をついた。


「本来なら、即時処分――つまり処刑が妥当な判断よ。上層部の爺様たちは全員そう主張したわ」


「処刑……」


「ええ。でも、それを覆した馬鹿がいるの。……円城寺晃」


佳紬由は呆れたように、けれどどこか誇らしげに言った。


「『僕が責任を持って飼いならす。ダメなら僕が殺す』ってね。上層部に啖呵を切って、あなたの命を拾ってきたわ」


「そんな人が……」


「ていうわけで、あのバカの尽力もあって、あなたの命は首の皮一枚で繋がった。……でも、助かったと言われても、凪人君の気持ちというものもある。だからあなたに3つの選択肢を与えるわ」


「3つ……?」


「そう。一つ目」


佳紬由が、厳格な口調で指を一本立てる。


「導魔と共に死ぬこと。あなたの命が彼女と繋がっている以上、その繋がりを断つには、二人とも消滅させるしかない。円城寺も凪人君が死ぬことを選んだ場合は処刑で処理すると言っているわ」


俺は息を呑む。 死が、当たり前の事務手続きのように提示された。


「二つ目。社会と断絶し、ここ波導協会の管理施設で一生を過ごすこと。他者どころか世界との接触は一切許されず、あなたは“波導の女王”を繋ぎ止めるためだけの『くさび』として、ただ生かされるだけの存在になる」


どちらも、絶望的な選択だ。


「……三つ目は?」


佳紬由の目が、俺を射抜く。


「三つ目は、波導士として生きる道。その繋がってしまった導魔の力を、苦しみながらも自分の力に変えて、人のために戦う」


希望のように聞こえたが、佳紬由はすぐに厳しい現実を突きつけた。


「ただし、言っておくけれど。波導士の道は決して楽ではないわ。文字通り、毎日命を懸ける覚悟が必要よ」


さらに佳紬由は、決定的な事実を付け加えた。 まるで、俺の甘えを断ち切るかのように。


「どの道を選んでも、あなたが助けたかった橘静香さんとは、もう簡単には会えない」


「――!」


俺の肩が、初めて強張った。 心臓が嫌な音を立てる。


「……静香は、生きてるのか……?」


「ええ。奇跡的にね。あの日、すぐに私の部下たちがそこへ向かった。そうしてあなたたち二人を保護したの。今は社会復帰をされているわ」


(生きて、いた……)


俺の目から、堪えていた涙が一筋こぼれた。 安堵。そして、どうしようもない罪悪感。


「どうして、俺は。あのとき、静香を護ることができなかったんだ」


俺はシーツを握りしめる。


あの時。フードコートで、あいつが「スマホを忘れた」と言った時。 俺はなんて言った?  『ここで待ってる』だ。


面倒くさいと思った。 たかが数分の移動だ、すぐに戻ってくるだろうと高を括っていた。 その油断が、あいつを一人にした。


なんで、あの時「一緒に行く」って言わなかったんだ


もし俺がついて行っていれば、すぐに異変に気づけたかもしれない。 いや、もし遭遇したとしても、あんな風に一人で傷つくことはなかった。俺が守れていたかもしれない。


そして、俺はその責任を死ぬことで遂げようとしていたんだ。 一番楽な死ぬ道を。死んで、逃げて。 最低だ。


「だけど」と佳紬由は厳しく続ける。


「一つ目と二つ目を選べば、あなたは『処理』されるか『隔離』される。橘静香さんとは、もちろんほかの友達とも一生会えない」


「……」


「そして、三つ目を選んだとしても、よ。あなたは『危険因子』であることに変わりない。彼女の安全のため、そしてあなたの精神を守るため、波導士として一人前になるまで……いえ、なったとしても、会える保証はない」


佳紬由は、俺の目をじっと見つめる。


「空っぽのまま傍観者でいた方が、よほど幸せだったでしょうね。さあ、どうするの?  自分で選びなさい」


俺は目を閉じた。


(空っぽ……)


そうだ、俺はずっと空っぽだった。 どうでもよかった。 空っぽだったから傷つくこともなかった。その結果、静香が傷ついて苦しんだ。


俺は、もう人間ですらないかもしれない「何か」になった。 謝らなきゃならない。このまま、静香に何も言わないのは逃げることではない、ただ目を背けるだけだ。


俺の脳裏に、泣き崩れる静香の姿が浮かぶ。 その心を殺しているのは、導魔じゃない。俺だ。


今度はきちんと俺が守る。 空っぽのままでもいい。俺は死んだ。だから生きる。 俺が生きる道は一つだけだ。


「……俺は……波導士になる」


その言葉を聞き、佳紬由の表情が、ふっと緩んだ。 それは一瞬だったが、厳格な仮面の下にある、優しい「素」の顔だった。


彼女はゆっくりと立ち上がる。


「そう決めたのね。……なら、来なさい」


俺の返事を、まるで最初から知っていたかのように。 佳紬由は俺の手を取り、ベッドから起き上がるのを支えた。 想像以上に、その手は小さく、温かかった。


「佳紬由先輩!  凪人君はまだ万全ではないですからね」


「分かってるわよ。穂波ありがとうね」


「さあ、ここからが、あなたの本当の地獄の始まりよ。せいぜい、食らいついてきなさい、凪人くん」


佳紬由は、厳しくも温かい、まるで「母親」のような口調で、俺を部屋の外へ連れ出した。 そこには、俺が失った日常とは似ても似つかない、新たな人生が待ち受けていた――。

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