そして、鍵はかけられた。
焚あらた
序章 訪問者
訪問者
がたんっ。
家の奥から確かな物音がして、ヨハネスは中庭に向けていた視線を、寝室の扉に移した。
玄関だろうか、とぼんやり思ったが時刻はすでに日付を越えた頃だ。時たま連絡もなしに客人が来ることはあるが、こんな非常識な時間の来訪は今までにない。
乱雑とした家だ。屋内は所有者不明の物で溢れ返り、足の踏み場もないような部屋だってある。片付けるのも面倒なので、この屋敷で生活を始めてからと言うもの、廊下に落ちている物すらロクに動かしていない。
玄関ホールには二階へ続く階段がある。何かが転がり落ちたのだろうか。
「――……。」
物音の正体を確かめようと窓台から立ち上がったのはほんの気まぐれだった。普段であれば、気にも留めないだろうに、不思議と怖いもの見たさのような感覚が芽生えた。
扉を開けて寝室を出ると、夜の闇に包まれていた廊下が、ひとりでに点いたランプによって照らされて行く。床に転がった物に足を引っ掛けないようとして、妙な足取りになりながらそれらが照らしてくれる道筋を歩いた。
「割れ物が落ちていたら面倒だね」
何の気なしに呟くと、ヨハネスの顔の周りを飛び回っていた妖精たちに〈ぶしょうものー〉〈ものぐさー〉と非難される。
ランプに導かれるがまま歩いていると、予想通り玄関ホールへ続く階段が見えて来た。妖精たちに明かりを頼むと、周囲が日中のように明るくなって、階段と、様々な色や形をした扉がずらりと並ぶ玄関ホールが照らされて――そして、それを見付けた。
屋敷の外へ通じる両開きの扉。
その隣の《帝国市場に通じる扉》。
さらにその隣の《帝国図書館に通じる扉》。
そのまた隣の《帝国大聖堂に通じる扉》。
それらからずっと離れた場所の《開かずの扉》。それが開き、誰かが床に伏しているのが、はっきりと見て取れた。
「おいおい――っ」
身体の中に走ったのは確かな〝緊張感〟だった。久々の感覚に感動を覚える暇もなく、ヨハネスは階段を滑り降りて倒れている人物に駆け寄った。
男だ。若い男。頭を何か硬いものに打ち付けたようで、くすんだブロンドの髪が鮮やかなまでの赤に染まっている。
扉の奥に目を向けると、奥に冷たい岩肌が空高く続いているのが見えた。そして積もった雪と、男の物だろう、血の跡。
あの岩肌は崖か? この男は崖から落ちたのか? そうだとして――そうだとしても、どうしてこの扉から現れた?
疑問が次から次へと浮かび上がる。
「おいっ! 大丈夫か、おいっ!」
声を張り上げてはみるものの、大丈夫ではないのは一目瞭然だった。
後頭部からの出血は止まらず、身体を包む衣服も所々破れ、深い傷が覗いている。腕や足は妙な方向に曲がり、虫の息とは言え、生きているのが奇跡と思えるほどだ。
「こっちは休養中の身だぞっ」
面倒ごとは御免だが、放っておくわけにもいかない。
鍛えているのか、それとも意識がないせいか、ヨハネスは重たい男の身体をどうにか家の中に引き入れた。
「おい君、しっかりしろ! ここは神々の加護下にある土地だ! 一命を取り留めさえすれば望みはある! 君、異教徒からの治療行為を禁ずる宗教に入ってたりしないよな? 入ってても今回ばかりは――、」
このままにしておけば、そう長くは持たない。せいぜい数分、数秒の命か。
急ぎ早に男を仰向けにして妖精たちに衣服を脱がすのを手伝ってくれと告げると――不意に小さな囁き声が耳の奥に届いた。
視線を下ろす。男が、大量の血が噴き出る口を僅かに震わせているのに気付く。
顎の骨や、歯だって無事じゃないだろうに。呼吸をするだけでも苦しいはずだ。その状況でなんだ? 死を覚悟して、何か言い残すつもりか?
耳をそばだてていると、男はか細い呼吸を挟みながらぼそぼそと口を動かした。
「――いい、もういい、このままで、」
このまま、死なせてくれ。
はっきりと確認した男の顔は、酷いものだった。やはり崖から転げ落ちたのだろう。顔は打撲痕と擦り傷だらけで、鼻は折れ、片目は潰れているように見えた。
そんな酷い有様の容貌を目にして、どうしてだか、後生大事に守り続けていた遠い過去の記憶が、鮮明に頭の中を駆け巡る。
まだ、神の使いとして未熟だった頃。その未熟さに気付きもしなかった頃。
ヨハネスの、首から下げていたペンダントが垂れ下がって、青い小さな花を覆うガラスに、男の無残な顔が反射する。
「――君は、」
驚きで揺れるヨハネスの声は、死に損ないの男には届いていなかった。
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