幸福の等価交換

ころすけ

第1話 泥に塗れた若き領主


夜明け前の冷気が、アレン・ウォーカーの肺を刺す。 まだ朝日も昇らぬ時間、アレンは一人、領地の北端に広がる「死の沼地」に立っていた。かつては豊かな水源だったこの場所も、今では腐敗した泥が堆積し、悪臭を放つだけの毛嫌いされる場所となっていた。


「……ここを直さなければ、この領地に未来はない」


アレンは慣れない手つきでスコップを土に突き立てた。


彼がこの領地――ウォーカー領を継いだ時、そこにあったのは輝かしい貴族の暮らしではなかった。残されていたのは、父・バルトロが酒と博打、そして身の丈に合わない放蕩で作り上げた、天文学的な額の借用書。そして、重税に喘ぎ、希望を失って痩せこけた領民たちの姿だった。


父は、領地が立ち行かなくなると、まだ十代だったアレンにすべての責任を押し付け、わずかな金を持って愛人とともに隣国へ逃げ出した。


「あとはお前の好きにしろ。私にはこの田舎は狭すぎた」


去り際に放たれたその言葉を、アレンは今も忘れていない。



アレンが最初に行ったのは、領主館に仕えていた無駄な使用人たちの解雇と、自身の生活の徹底的な切り詰めだった。 きらびやかな衣装を売り払い、食事は一日一食、領民と同じ黒パンと薄いスープに変えた。


「若様、せめてこのお肉だけでも……」


古くから仕えるメイド長のマーサが、自分の給与を削って用意した肉料理を差し出しても、アレンは首を振った。


「マーサ、ありがとう。でも、これを食べるなら、その金で新しい鍬を一本買いたいんだ。民が飢えているのに、私だけが肥えるわけにはいかない」


アレンの改革は熾烈を極めた。 まず着手したのは、領内を牛耳っていた「ブラックマニー商会」の追放だ。

彼らは父の代から癒着し、不当な高利貸しと、収穫物の買い叩きで領民を奴隷のように扱っていた。 アレンは独学で法律と会計を学び、商会が長年行ってきた脱税と契約偽造の証拠を自ら突き止めた。


「アレン様、こんなことをして無事で済むと思っているのですか? 我々がいなくなれば、この領地の物流は止まりますぞ。」


商会長のドミニクは吐き捨てるように言ったが、アレンは冷徹に言い放った。


「止まれば私が自分で運ぶ。貴様らが吸い上げた民の血税は、一滴残らず返してもらうぞ」


商会を解体し、その資産を没収して農地に再投資した。自ら泥にまみれて水路を引き、祖父が遺した古い農法を現代風に改良して広めた。当初は「若造に何ができる」と冷ややかだった領民たちも、共に汗を流すアレンの背中を見て、次第に心を開いていった。




それから三年の月日が流れた。 かつての「死の沼地」は、今や見渡す限りの黄金色の穂が揺れる大穀倉地帯へと変貌していた。 アレンの指揮の下で作られた新道には行商人が行き交い、市場には活気が溢れている。


「アレン様! 今年の収穫量は、あの『大賢者』と呼ばれた先々代の領主様の時代を超えましたぞ!」


「見てください、このカブの大きさを! これもアレン様が教えてくださった肥料のおかげです!」


道を行けば、民たちが笑顔で声をかけてくる。アレンはその一つ一つに丁寧に頷き、疲れも見せずに微笑み返した。 アレンの体は以前より逞しくなり、手には数え切れないほどのマメとタコができていた。それは彼が領民と共に戦い、勝利した証だった。


夕暮れ時、領主館のバルコニーから領地を見下ろすと、そこには平和な家々の灯りが灯っていた。


「……やっと、ここまで来たな」


傍らに立つマーサが、誇らしげに目を細める。

「はい。亡き大旦那様も、きっとお喜びでしょう。アレン様は、この領地の英雄ですよ」


「英雄なんて柄じゃない。私はただ、自分の家が壊れていくのを見ていられなかっただけだ」


「それにしても」とマーサは続けた。

「最近は息子のエドワードも、アレン様のような立派な騎士になりたいと、勉強に励んでいるのです。騎士学園……。あの子が行ければ、どんなに良いか」


「エドワードならきっと受かる。学費の心配はいらないよ、マーサ。君には苦労をかけた。奨学金制度を整えるつもりだ」


アレンは気づかなかった。 その時、マーサの瞳に宿ったのは、感謝ではなく、暗く濁った「執着」だったことに。 そして、闇に葬ったはずの商会が、すぐそこで動いていたことに。


領地が豊かになればなるほど、人々の心には感謝ではなく、「もっと欲しい」という欲望と、それを守るための「妬み」が芽生え始めていた。 アレンが心血を注いで育てた黄金の稲穂は、皮肉にも彼を焼き尽くすための「火種」になろうとしていた

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