君の瞳に恋してる

菊池まりな

プロローグ

視線が、怖い。




朝倉透あさくらとおるは今日も、誰かの目を見ているふりをしながら、実際には相手の眉間や鼻先ばかりを見ていた。




「朝倉さん、さすがですね。このキャッチコピー、クライアント絶対喜びますよ」




上司の声が耳に届く。透は口角を上げ、ちょうどいい角度で頷いた。「ありがとうございます」と返す声も、練習してきたような自然さで。




会議室を出て、自分のデスクに戻る。PCモニターに映った自分の顔は、いつも通り「ちゃんとしている」ように見えた。でも、どこか他人のような気がする。




ふと、視界が揺れた。




最近、画面を見続けていると文字の輪郭が滲む。目の奥が重い。多分、疲れているだけだ。そう思って、透はまた仕事に戻った。








その夜、一人のアパートで鏡を見ながら目薬を差そうとして、透は自分の瞳をまともに見つめた。




何秒も、視線を逸らせなかった。




鏡の中の自分は、困ったように笑っていた。




「……なんで、俺、こんな顔してるんだろう」




声に出した瞬間、ひどく恥ずかしくなって、透はすぐに目を伏せた。




誰にも見られていないのに。




誰にも見られていないから、か。




翌朝、透は眼科の予約を入れた。ただの眼精疲労だと思っていた。すぐ治るはずだと。




でも、その日の診察室で出会った医師の瞳は、透が今まで避け続けてきたすべてを見透かすように、静かで、冷たくて、それなのにどこまでも優しかった。




そして透は、初めて逃げられなかった。








「では、こちらを見てください」




神谷恒一かみやこういちは、いつも通りの声でそう告げた。




細隙灯さいげきとうの光が、患者の瞳を照らし出す。




診察中、神谷は何度も気づいてしまう。この人は、こちらの目を見ているようで、実際には少しだけ視線をずらしている。まるで、瞳に映ることを拒んでいるかのように。




「……特に異常は見られませんが、眼精疲労がかなり進んでいますね」




神谷は診断を告げ、処方箋を書きながら、ふと思った。




この人の瞳は、何を映したがっているのだろう。




そして、何を映すことを怖れているのだろう。




診察が終わり、患者が礼を言って立ち去る。神谷は次の患者を呼びながら、その背中をほんの一瞬だけ目で追った。




それが、すべての始まりだった。




視線が交わらなかった、ふたりの物語の。






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