第二部・第8話 見られているという誤差

朝は、いつも通り始まった。


制服に袖を通し、鏡の前で姿勢を整える。

背筋、顎の角度、重心の位置。

呼吸は浅く、一定。

一番効率のいい状態。


それで、いい。


それで、問題は起きない。


玄関で靴を履く前、

一度だけリビングを見る。


兄は、テーブルで書類を読んでいる。

視線は下。

こちらを見ていない。


それなのに。


“見られている”という感覚だけが残る。


「……行ってきます」


声は、落ち着いている。

自分でも、そう思う。


「気をつけてな」


兄の返事も、

いつも通りだ。


外に出る。

空気は冷たい。

通学路は安全に整えられている。


信号は早めに変わる。

車は減速する。

人の流れは滞らない。


環境は、完璧だ。


なのに。


横断歩道で、

足が一瞬遅れた。


ほんの、

ほんの一瞬。


(……今のは)


理由は分かっている。


“兄が見ているかもしれない”

という考えが、

頭をよぎった。


そんなはずはない。

ここに兄はいない。

見ているわけがない。


それでも。


身体の動きが、

判断を待ってしまった。


(……効率が、落ちてる)


学校では、

それがはっきり出た。


体育の時間。

短距離走。


スタートの反応が、

〇・一秒遅れる。


数値としては、

誤差。


だが。


(……前なら、

 この程度はなかった)


走り終えた後、

呼吸が少し乱れる。


クラスメイトが言う。


「今日、ちょっと遅くなかった?」


「……そう?」


返事は、

自然に返せた。


でも、

自分の中では

警告音が鳴っている。


昼休み。

廊下で、

転びかけた生徒がいた。


反射的に、

手を伸ばす。


間に合う。


……はずだった。


掴んだのは、

制服の端。


完全ではない。


倒れなかった。

怪我もない。


結果としては、

成功。


(……でも)


前なら、

 “完璧”だった。


胸の奥が、

ざわつく。


放課後、

帰り道。


踏切が鳴る。

遮断機が下りる。


子どもが、

一歩前に出る。


足が、

自然に前へ出る。


――止める。


その瞬間、

頭に浮かんだのは、

兄の顔だった。


(……見られたら)


判断が、

一拍遅れる。


子どもは、

自分で止まった。


結果として、

何も起きない。


(……助けてない)


(……助けられたのに)


帰宅。


玄関を開けると、

兄がいた。


「おかえり」


「……ただいま」


兄の視線が、

一瞬、こちらを見る。


それだけで、

背筋が反応する。


(……駄目だ)


夕食の準備中、

包丁の動きが、

微妙にズレる。


切り口は、

揃っている。


だが、

最短ではない。


(……効率が、

 落ち続けてる)


食卓で、

兄が何気なく言う。


「今日さ」


妹は、

箸を止める。


「……なに?」


「最近、

 無理してないか」


一瞬、

言葉が出ない。


「……してない」


嘘ではない。


無理は、していない。


ただ。


最適化が、

 成立しなくなっているだけだ。


兄は、

それ以上踏み込まなかった。


その“踏み込まなさ”が、

一番効いた。


夜。


自室で、

ノートを開く。


能力のメモ。


条件。

発動時の感覚。

数値。


書き込みの横に、

新しい一文を書く。


「兄の視線を意識した場合、

 反応速度低下」


ペンが止まる。


(……この項目)


(前は、

 存在しなかった)


ベッドに横になり、

天井を見る。


強くなるために、

選んだ。


迷わないために、

最適化した。


なのに。


“見られている”というだけで、

 揺らぐ強さがある。


それが、

悪いことなのか。


それとも。


「……」


答えは、

まだ出ない。


ただ一つ、

確かなことがある。


この誤差は、

 放置できない。


強さを取るなら、

消すべきノイズ。


でも。


消したくないと思っている

自分がいる。


第二部は、

静かに、しかし確実に

分岐点へ近づいている。

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