「観察者の違和感」

「それで。どうなんだ梨沙、あのマンションは?」


 梨沙は剛と近所で会うのを避けている。


 ここはマンションと大学ではなく父の会社に近い都心の繁華街なので、うっかり洋平と遭遇してしまう可能性はほぼ皆無と言っていい。


「どうもこうも……」

 梨沙はレモンサワーに口をつけた。父親は生ビールをジョッキで飲んでいる。

 親子で酒を飲むなんていうことは実は初めてのことで。


 そんなタイミングでの会話の内容がであることに剛は、父親として少しだけ複雑な心持ちがしていたが、そうでもしないと梨沙はやっていられないんだろうと勝手に察した。


「びっくりするくらい何もないわよ。403号室なんて、それこそ本当に人が住んでるのかってくらい静か──というより、洋平くんが家にひとりでいるのを避けているみたいな印象かな? やけに遅くに帰って来るし、その後もやたらと静かだから──たまに水の音がするくらいで。なんだろう、たぶん蛇口がちゃんとしまってないだけだかな? ごめん。気のせいかもしれない」


 すると剛はグラスを傾けながら苦い顔をした。

「つまり何かはあるんだろうな、少なくとも彼にとって、あの部屋には」


「うん、わたしもそう思う。そこまでして避けるだけの理由はあるんだろうって。だけど、だったらなんで引っ越さないんだろ。確かに物件としての割安感はすごくあるんだけどさ、あの間取りに学生が住むのはちょっと贅沢ぜいたくな気がするし。そもそも夜に疲れててもギリギリまで帰る気にもなれないなんて、そんな部屋に一年間も住むなんて。私にはとても耐えられそうもないんだよね」


 チェーン店の居酒屋だが、父親のオゴりでもあるしということで梨沙が選んだ居酒屋の価格帯はやや高く、客層も落ち着いた店の個室、掘りごたつの和室だった。


「他にはなにか?」

「管理人の伯母さんたちだけど、外で会うときより明らかに『あのマンションにいるときだけなんか特に陰気』っていうか、別人みたいに見えるかなぁっていう印象かな。それはお父さんだって気づいてるんでしょ?」


「それは、あの人たちがただ単に怯えてるから、とかじゃあないのか──?」

 梨沙は首を横に振る。


「知ってる人だけを、知ってる場所でだけ観察してても『情報として』足りないでしょ? あのマンションの近くにわりと何でも安いスーパーがあってさ。わたし引っ越しのときに403号室だけじゃなくてマンションの全部の部屋にあいさつに行ったんだけど。やっぱり外、スーパーとかで会うとまるで別人の顔みたいに見えてくる。基本的にあのマンションの住人は『あのマンションにいるときだけ、なぜか特別に暗い』のよ。そして外で会うと反動みたいに明るく見える。それから外で会う顔、そっちがあの人たちの本来の姿なんだと思うんだ。マンションの内側にいるとき、住民はじっと本当の素顔、笑顔だとか──そういうものを隠しているんだと思う。理由はちょっとわからないんだけどね」


 剛は眉をひそめた。

「ふん……まあ、おまえがそう言うならそうなんだろうな」


 梨沙は文学部でも心理学専攻だ、将来的にはカウンセラーを目指すという。

 中学時代のころから「趣味は人間観察」などという、かわいげのない娘だったなと父親としては感じていたが。


「オカルト的な話にはしたくないんだけど。人ってところがあると思うの、特に家なんてものには特にね」

「ああ。科学的にもそういう仮説は聞いたことはあるな……どこでだったか」


 梨沙の父親は新聞社の記者だ。

 だからとつぜん定時退社を徹底するようになったのを、同僚からは妙な目で見られている、とのことだった。


「そういう意味ではね、今回のメインターゲットである洋平くん。彼は例外っていうか、どこで会っても実はそんなに、ほとんど印象が変わらないのよ。そこが逆になにか引っかかるのよね……特異点イレギュラーっていうのかな、どこか納得が行かないっていうか、うまいこと本音を隠しているような雰囲気がある」


「とはいえ相手は体育会系の男子学生だし、まだ正体不明なところがあるだろう。頼むから深入りはするなよ、常に相手を疑え。おまえには無茶をさせている自覚はあるんだ……まぁ今さらで悪いんだが」


 すると梨沙はあっけらかんと笑った。

「ああ、そういうのはないない。たぶん引っかかってるのはあの『嘘くさいまでの普通さ』加減にあるんだ、とわたしは思ってる。あの演技っぽさに何で誰も気づかないのかな、っていうくらいにね」


「なんだそれは、つまり……体裁ていさいだけを取り繕っているとかなのか?」


「まだまだ何か隠してる、たぶん過去に『決定的な何かを見た』んだと私は予想してるんだ、つまり何も知らない様子なのがそもそも彼の演技なんだろうと思ってる。そもそも普通の神経ならもうとっくに引っ越してると思うから。理由もなくあのマンションに住み続けられるわけがないんだから」


 そこで剛が追加オーダーしたビールが運ばれてくる。それを一気に半分ほど飲み干すと、ジョッキをテーブルに置いた。


「つまり。なにか彼には人には隠すような、大きな事情と理由があると──?」

「うん。まだまだ、ただのわたしの勘だけどね」


 梨沙の父親は、タバコを取り出したあとで躊躇ためらい胸ポケットに戻した。

 あまりにも非現実的な会話の内容から、となりにいるのが実の娘だということを忘れてしまっていたようだ。


 梨沙は気にしていないようだったがタバコを吸わない娘に副流煙を吸わせていい理由などあるわけがない。


 しばらくの沈黙があった。

 剛はタバコをあきらめた代わりか、さらにビールの追加注文をしている。


「うん、わかってるよ。できるだけ深入りはしないようにするから。だけどある程度までは踏み込まないときっと何も分からないんだとも思うんだ。ジレンマだよね……」


「そうか。まあ、まだ最初の一週間だしな。オレは『大津洋平の真下の部屋』にいるわけだから、おまえも何か行動を起こすつもりなら、ちゃんとオレにも事前に言えよ?」


「まぁ父さんは『隠し球』みたいなものだからさ、そう簡単には頼らないと思うけど。そういえお父さんの部屋のほうでは何もないの? 真下の303号室では、以前の住人からは403号室に対する騒音の苦情があったって管理人さんが言ってなかったっけ?」


 剛は目線をらした──梨沙は知っている。

 それは何か隠しているときの父親のクセなのだと。


「……いや、夜中に子どもがはしゃぐような声を聞いたがたぶん気のせいだろう。酔ってたしな」

「あのさ。気持ちはわからなくもないけど、ちゃんとしてよね。いざって時に頼りにならないじゃない」


 いざという時。

 そんな事態があったとしてオレが何の役に立てるのか、と剛は重いため息をついた。


「ああ、そうそう。彼のサークルとうちの学祭委員の間で今度、飲み会をすることになったんだった。場所は大学の徒歩圏内だし、それこそチェーンの居酒屋に大勢だろうから、特になんてことないと思ってるんだけど」


「……マンションが同じだから送るよ、なんて言われる前におまえが先に撤収したほうがよさそうだがな?」

「大丈夫。体調がイマイチってことにして、聞けることだけ聞いたら早めに帰るつもりだし」


 本当は嘘だ、さっきも言ったように「ある程度までは踏み込まないときっと何も分からない」と梨沙は思っている。


「はぁ。おまえはしっかりしてるよなぁ……誰に似たんだか」

「わたしの狡猾こうかつさはお父さん譲りで、見た目は母さん譲りってことで」

「……まぁいい。とにかく毎日の『レポート』だけは欠かすなよ?」


 梨沙はパソコンからメールで「大津洋平に関する観察記録」を父に毎晩、提出していた。

 とはいっても、たいした報告内容がないのでメールの内容はごく短文だったが。


「うん。何だかんだでわたしもけっこう忙しいしさ、レポートのチェックのほうはよろしく」

「まるでオレが暇人みたいな言い方をするよな、おまえは──?」

「実際に『社会部から文化部に異動』してからはわりとヒマなんでしょ? 前が忙しすぎたのよねきっと」


 梨沙は父親とは比較的、仲が良いほうだと思っている──というか、単に梨沙が母親のことが苦手なだけかもしれないが。


 いずれにしても明日は洋平に対して、梨沙が話を聞き出すにはベストのタイミングだろう。

 ほどよく酒に酔って口を割るタイプだといいのだけど。

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