第26話 それだけで、たぶん。


 わたしは、マスターのおはなしを聴いているだけ。

 聴いているだけ、なのに。

 どうして、副部長の背中、見えてるんだろう。


 んん、副部長、じゃない。副部長が副部長になったのは、わたしが会社、アルテミスホームに入った年の春だって聞いてる。

 だから、いまわたしの目の前に座っているひとは、たぶん、工藤課長か工藤係長。英国本社から戻ったばかり、わたしが入社する二年前のこと。

 場所は、ここだ。このお店。『Bar NOCTURNE』の、奥。いまわたしが座っているソファ席に副部長が座ってる。わたしはその背に、立っている。その向こう、はじめてこのお店に来たときにわたしが座ったソファで、寂しそうに笑っているひと、は……。


 わたしは、時間を飛んでいる。理屈なんて知らない。どうでもいい。もっともっと、ほんとうに大事なことのまんなかに、わたしは立っているのだから。大事なことを、まっすぐに見つめているんだから。


 『ちょっとだけ、ほっとした』


 弥生さんはそう言ってから、少し俯いた。額に落ちた髪を耳元に戻しながら言葉を探していたけれど、向かいに座っているひとがなにも言わないから、もういちど顔を上げたのだ。


 『ちゃんと、びっくりしてくれて。ふふ、湊にいさん、ぜんぜん無反応だったら悲しいなあって、思ってたから』

 『……ばか、な……ことを……』


 そう言って、副部長は口元に当てた手のなかに息を吐いた。苦しそうな、酸素を探すようなその息のなかに紛れているのが怒り、あるいは悔しさであることは、わたしにはよくわかっている。


 『なぜ、だ。そんなことをする必要がない。合理性が、ない。俺を……俺などを待っていた、追っていた、それは……いまは、もう、いい。だが、どうして辞める必要があった。なぜ、音楽から、ピアノから離れる必要があった。俺が、どれだけ君のピアノを……』

 『そんなの』


 そこではじめて、弥生さんの表情に気持ちが載った。少しだけ眉を寄せて、でも、ひと呼吸おいて、ゆっくりと話しはじめた。


 『……そんなの、必要なんて。あるわけないじゃないですか』

 『……』

 『音楽だって、ピアノだって、それを応援してくれたひとたちだって……神原のさとのひとたちも、そうして、湊にいさんも。ぜんぶ、ぜんぶ、なにもかも。わたしのかけがえのない宝物。捨てる必要なんて、ない。合理的な理由なんて、ない。ないんです。捨てたくなんて、なかった』


 呼吸が少し速くなり、それが落ち着くまで待ってから言葉を繋ぐ。


 『……でも、選んだんです。必要とか、必然とか、そんな綺麗な言葉が届かないところで、湊にいさんはずっとずっと、ひとりだった。湊にいさんは、思いませんでしたか。なぜ、自分なのかって。なぜ自分の家族なのか、って。どうして、自分からぜんぶを奪うのか、それが自分である必然性は、って。叫んだんじゃないですか。叫び続けて、声なんて掠れて、消えて。そんな消えた声のまんまで、神原郷に……わたしたち、わたしの、前に……やってきたんじゃ、ないんですか』

 『……弥生。それは、俺の問題で……』

 『わたしのピアノも、わたしが音大を辞退して経済の道に進んだのも、そうして……そんなわたしであなたの前に立ちたいって決めたのも、わたしの問題です』


 二人の前には、カップが置いてある。お酒じゃない。もうとうに冷めてしまったお茶を、二人ともが同時に手にとった。


 『……言ったはずだ。神原の家に、俺は入れない。ああ、わかってる。あの時に俺を救ってくれたのは、神原だ。生きてこられたのも、こうしているのも、神原のおかげだ。だが、その内側には、入ることができない。神原のひとりになりきることができない。そして、君は……』

 『妹としか思えない』


 カップに満たされたものに目を落とし、自分の表情を確認するようにしていた弥生さんは、ふいに強い声を出した。


 『湊にいさん、それをわたしに言うのは七回目です。最初がいつだか覚えてますか?』

 『……』

 『大事に思う。誰よりも幸せを願う。だけど、ひとりの女性として見ることができない。すまない。完全にこのとおりの台詞だったことが三回、あとは微妙に言い回しが違いましたね。はい、直前はいつですか? どっちの誕生日のときでしたか?』

 『……や、よ……』


 わずかに眉を怒らせ、じっと副部長の目を見つめていた弥生さんは、やがてぷっと吹き出した。いったんそうした後は、緊張が解けたのだろうか、ずっと背中を震わせている。


 『ふ、ふふ。ふふふ。ごめんなさい……今日のため、かもしれない。わたしが、せっかく合格した音大を蹴った理由。経済学部で、いろんな資格、MBAまで取って、にいさんとおんなじ道に進んだ理由。にいさんの……あなたの、そういう顔を見たかったから、なのかもしれない』


 しばらくの間、言葉が途切れた。いま、わたしがいるこの空間とおんなじ、古めかしい時代ものの時計がときを刻む音だけが響いている。


 『……ご帰国、それと、ご昇進、おめでとうございます。それを言うためにお会いしたのに、遅くなっちゃった』

 『……ひとつ、だけ……』

 『え?』


 俯いて、両手のひらの指を組み合わせ、ぎゅっと握りしめながら口を引き結んでいた副部長は、絞り出すように言葉を置いたのだ。


 『ひとつだけ、約束、してくれないか』

 『あら、生まれてはじめて湊にいさんから約束をいただける。嬉しい』


 冗談めかして軽い口調でそういった弥生さんは、だけど、口元をくっと引き締めたのだ。


 『……もし、俺が。俺が、もういちど……見つけたなら。俺が、いまのこの馬鹿な俺を、神原を疎ましく思いながら縛られているどうしようもない俺を、壊すことができたなら。家族なんてものが自分にもあってもいいんだって、思い出せたなら。誰かを……誰かを、愛することが、できたなら』

 『……はい』 

 『殴りたければ、殴ってもらえばいい。カップをぶつけるでもいい。これが俺の、いまのほんとうだ。俺が、そのときに思い出したのが君であれば、もう迷わない。だが、そうではないとしても……』


 膝の上に手を置き、副部長の表情を静かに見つめる弥生さん。


 『そうではないとしても、俺は、そう言う。必ず、言う。だから、そのときは……音楽を、ピアノを、君の大事なものを、もういちど……取り戻して、ほしい。頼む。たの……む』


 沈黙は、ずいぶん長かった。

 それを破ったのは弥生さんだった。

 ふう、と息を吐き、上を見上げ、ぱんと膝を叩いた。立ち上がる。柔らかな照明を背に、副部長を見下ろして、おおきく口元を持ち上げる。


 『わかりました。でも、そのときは、最終試合。あなたがみつけた本物を、わたしにも確かめさせてほしい。わたしとなにが違うのか、知りたい。ね、いいでしょう?』

 『……な、に……を』

 『ああ、なんかお腹すいてきちゃった。マスター、チーズグラタンってできますか?』


 カウンターのほうに大きな声を投げて、弥生さんは目元を細めたのだ。


 『とりあえず、成人祝い、してもらおうかな。もう二年前だけど、してもらいたい。してください。ええと、服。服を、いっしょに買いに行ってください。それで、いい』


 そうして、とすんと座って、口の中だけで声を出す。


 それだけで、生きてける。たぶん。






 


 


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