魔法学園講師録

天音紫子&霧原影哉

第1章 炎は敵ではない

第1話 炎の前に立つ

 始業前の職員室は、いつも少しだけ静かだった。

 夜明けと共に点いた魔力灯が、まだ完全に消えきらず、机の上に淡い光を落としている。


「おはようございます」


 挨拶は、習慣のように口から出た。

 それに応じて、何人かが顔を上げ、軽く手を挙げる。


「おはよう」

「今日は火の実習だったな」


 返事は短く、他愛もない。

 それで十分だった。


 火属性を担当するレオン・クロウは、自分の机に資料を置き、椅子を引いた。

 今日の実習は、上級生向けだ。段階も手順も、何度も確認している。


 問題が起きるはずはなかった。


「早いな」


 背後から声をかけられ、振り返る。

 生徒指導講師――学園内で知らぬ者はいない人物が、湯気の立つカップを片手に立っていた。


「あなたの方が、いつも早いでしょう」


「まあな。問題が起きる前に起きておくのが仕事だ」


 冗談めかした言い方に、主人公は小さく息を吐く。

 この人は、いつもこうだ。軽く、しかし目はよく見ている。


「今日は火の実習だと聞いた」


「ええ。予定通りです」


「……そうか」


 一瞬だけ、視線が資料に落ちた。

 それが確認なのか、ただの癖なのかは分からない。


 職員室の扉が開き、別の講師が入ってくる。

 時計が、始業を告げる音を立てた。


「では、行ってきます」


「ああ。何かあれば連絡を」


 何気ないやり取りだった。

 この時点では、誰も――

 この一日が、いつも通りに終わらないことを知らない。


---


 始業の合図とともに、実習場の扉が閉じられた。

 外周に張られた結界が、低く音を立てて稼働を始める。

 生徒たちは一斉に立ち、短く頭を下げた。

「よろしくお願いします!」

「着席」

 レオンは簡潔に応じ、視線を実習場全体へ走らせた。

 魔力の気配は、まだ落ち着いている。

「今日は制御の確認だ。威力はいらない」

「魔力展開は三段階まで。合図があるまで、出力を上げるな」

 生徒たちの表情が、わずかに引き締まる。

 何人かは頷き、何人かはもう詠唱の準備に入っていた。

「異常を感じたら、すぐに手を下ろせ」

「判断は、俺がする」

 それだけ告げて、レオンは手を下ろした。

「――始め」

 次の瞬間、実習場の各所に小さな炎が灯る。

 赤、橙、淡い金。

 どれもまだ、制御の範囲内だ。

 レオンは歩きながら、生徒一人ひとりの様子を見て回った。

 魔力の流れ、呼吸の速さ、炎の揺らぎ。

 ――問題ない。

 そう判断しかけた、そのとき。

 一角の炎が、不自然に膨らんだ。

 音が変わる。

 熱の質が、わずかに荒れる。

「……」

 レオンは足を止め、視線を向けた。

 炎を出している生徒は、集中しているつもりなのだろう。

 だが、魔力の流れが一拍遅れている。

「出力を――」

 言い切る前に、炎が跳ねた。

 風を巻き込み、形を失った火が一気に広がる。

 生徒たちの間に、どよめきが走った。

「下がれ!」

 レオンの声に、生徒たちが一斉に距離を取る。

 だが、炎は止まらない。

 結界が軋み、警告音が鳴り始めた。

「せ、先生――!」

「全員、退避。指示通り動け」

 レオンは炎の前に立ち、生徒たちを背に庇う位置へ出る。

 視界の端で、全員が動き始めたのを確認した。

 熱が、肌を刺す。

 それでも、下がらない。

 背後に、人の気配はない。

 レオンは静かに息を整え、炎の芯だけを見据えた。

 ……消えろ。

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