第7話:蒸発する理性
「……疲れた」
勤務後の帰路。
マシロは魂が抜けたような顔で呟いた。
足取りは重く、リュックがやけに大きく見える。
「死ぬかと思った……。なんでみんな、あんなに身体を触ってくるの?」
マシロの隊服は乱れ、ボタンが引きちぎられている。
休憩時間のたびに女騎士の群れに襲撃され続けた結果だ。
「……それが王都の女よ。あんた、完全に獲物扱いだったわね」
隣を歩くアリサもまた、疲労困憊だった。
彼女は今日一日、マシロに群がるハイエナたちを追い払う番犬の役割を強いられていたのだ。
「とりあえず、今日はもう真っ直ぐ帰ろう。……俺、早く風呂に入って、服を洗濯したい」
「風呂? このあたりにそんな設備ないわよ。桶に水を溜めて行水でしょ」
「……は?」
マシロが足を止めた。
信じられないものを見る目でアリサを見る。
「行水? この埃っぽい街で、冷たい水で身体を拭くだけ?」
「庶民はそんなもんよ。お湯を沸かす薪も高いし、火の魔石だと浴場いっぱいの水を温める火力なんて出ないんだから」
「…………」
マシロは無言で天を仰いだ。
三人は商店街を歩く。
夕方の市場は、夕食の買い出しに来た客でごった返していた。
ここでもまた、マシロの受難は続いた。
「らっしゃい! 新鮮な肉だよ!」
肉屋の店先には、解体された肉が常温で吊るされている。
その周りを、数匹のハエがブンブンと飛び回っていた。
「うっ……」
マシロが口元を抑えて後ずさる。
「あれ、新鮮じゃない。変色してるし、ドリップが出てる」
「肉なんてあんなもんでしょ。焼けば一緒よ」
「いや、あれは完璧に腐ってるって」
「ストップ! 店の前で『腐ってる』とか言わない! 営業妨害で捕まるわよ!」
アリサが慌ててマシロの口を塞ぐ。マシロは不満げに眉を寄せた。
「でも、あんなの食べたらお腹壊すよ。アリサ、いつもあんなの食べてるの?」
「……火をよく通せば平気なのよ、騎士は」
「今までよく頑張ったね……。僕がまともなご飯を作るよ」
マシロは肉屋をスルーし、乾物屋で干し肉と豆を買った。
「……野菜も、シナシナだね」
「……魚も、目が白濁してる」
「……王都の人たちは、味覚が死んでるのかな」
乾物屋からの帰路においても、生鮮食品の屋台を見たマシロのドライな毒舌が止まらない。
彼の目には、この賑やかな市場が「食中毒の博覧会」に見えているらしい。
「(……こいつ、文句ばっか垂れるなぁ。……ま、男とのデートなんてこんなもんよね。それを『うんうん』って聞いてあげるのが女の度量ってやつだし)」
アリサは苦笑しながら、振り返ってマシロを見た。
この世界では、男は繊細で、女はおおらかであることが美徳とされている。
文句を言いながらも、自分の後ろについてくる「守るべき存在」。その構図自体は、アリサにとってそこまで悪いものではなかった。
「マシロ君、貴方の基準が高すぎますのよ。森の生活が贅沢すぎましたの」
ロッテが苦笑しながら、適当に購入したしなびたリンゴをかじる。
「ロッテ、それ洗った? 虫の卵とかついてるかもよ」
「……虫の栄養も一緒に摂れるなんてお得、とお考えなさいまし」
†
アパートに帰宅したのは、日が暮れてからだった。
薄暗い部屋に、三人の溜め息が重なる。
マシロは部屋に入るなり、すぐに窓を開けて換気をし、手を洗った。
「……とりあえず、飯にしよう」
マシロはキッチンに立つと、買ってきた干し肉と豆を取り出した。
「お風呂の準備もしないといけないし、時短でいくよ」
彼が取り出したのは、ごつい金属鍋だ。
『高圧・密閉鍋』。
「分厚い鉄鍋の蓋に特製のパッキンを噛ませて、蒸気を逃がさないようにしたんだ。これ、森に生えてる白い汁が出る草や根っこを何千本もすり潰して樹液を集めてね。そこに硫黄を混ぜて加熱して、やっと弾力のあるゴムを作ったんだよ。指紋がなくなるかと思った」
「硬い干し肉も、これなら二十分でトロトロになる」
マシロが手際よく調理を始める。
水と、少量の『味の源』を入れ、蓋をして火にかける。
シュシュシュ……という蒸気の音が、静かな部屋に響き始める。
その間に、彼は部屋の隅で「お風呂」の準備を始めた。
「アリサ、この部屋の床、防水じゃないよね?」
「ええ、ただの板張りよ。水こぼしたら下の階から怒鳴り込まれるわ」
「じゃあ、これを使うしかないか」
マシロがリュックから取り出したのは、折りたたまれた大きな布製のバケツだった。
広げると、大人一人が体育座りで肩まで入れるくらいのサイズになる。
『携帯用・簡易バスタブ』。
「……なにそれ?」
「何層にも重ねた麻布に、さっきの『ゴム』を溶かして、刷毛で何度も塗り込んで乾燥させたんだ。乾くまでの間、部屋中が薬品の臭いで充満して……本当に大変だったよ……」
マシロは二人に手伝ってもらいながら近所の井戸から汲んできた水で風呂をいっぱいにしながら、火の魔石を組み込んだ鉄を水に入れた。
「魔力を込めたあとは疲労感が半端ないし、火にかけるより時間がかかるけど、火がダメな環境だとやっぱり魔石が便利だね」
3人で交代しながら魔石に魔力を注ぎ込んでいくと、全身に心地よい疲労感が広がってきたあたりでやっと水が激しく泡立ち、湯気が立ち上る。
、時間はかかったが、なんとか冷たい水が適温のお湯へと変わったのだ。
「仕上げはこれ」
マシロが小瓶を取り出し、ピンク色の粉末をサラサラと投入した。
「『保湿・発泡入浴剤(ローズの香り)』」
シュワワワワ……。
瞬間。
優雅で、甘く、とろけるようなバラの香り。
狭くカビ臭かったアパートの一室が、王宮のバスルームのような香りで満たされた。
「……すっごい。ここ、私の部屋じゃないみたい」
アリサがうっとりと鼻を鳴らす。
「……じゃあ、本当に申し訳ないんだけど、僕が先に入るね。埃っぽくて限界なんだ」
マシロがタオルを持って振り返る。
「は?」
アリサとロッテが固まった。
「い、いやいやいや! ここ! リビング! 仕切りないし!」
ロッテは顔を赤らめつつも、しっかりとマシロを凝視している
「(……アリサさん、落ち着いてくださいまし。今のうちに目に焼き付けておくのが得策ですわ)」
アリサが裏返った声で叫んだものの、マシロの手は止まらない。
待ちわびた風呂を目の前にして、二人の声など耳に入っていないのだ。
プチッ、プチッ。
ボタンが外れる微かな音が、静まり返った部屋に響く。
そのたびに、アリサの喉がゴクリと鳴った。
シャツが肩から滑り落ちる。
現れたのは、王都の騎士たちのような「傷だらけの筋肉」でも「日焼けした皮」でもない。
薄暗いランプの光を吸い込んで、ぼんやりと発光するような「白磁の肌」だ。
「(……白っ! そして細っ!)」
アリサは反射的に両手で顔を覆った。
だが、その指の隙間は、限界まで見開かれている。
(背中のライン……なにあれ、芸術品? 肩甲骨が浮き出て、そこから腰にかけてのくびれが……うわ、柔らかそう)
(ゴツい女たちの背中しか見てこなかった私には、刺激が強すぎる……!)
マシロがズボンに手をかける。
スルッ、と布が落ち、白い脚が露わになる。
太ももは適度に肉付きがよく、膝の裏はほんのりと桜色だ。
マシロが後ろを向きながら濡らした布で簡単に体を拭き終わると、
チャポン。
マシロがお湯に浸かった。
簡易バスタブの縁から、お湯が溢れ出る。
マシロは「ふぅ……」と、心の底から気持ちよさそうな吐息を漏らした。
その声色が、妙に艶っぽい。
「……生き返る。やっぱりお風呂に入らないと、一日が終わらないよ」
マシロが濡れた手で、前髪をかき上げる。
水滴が額を伝い、長いまつ毛を濡らし、白い頬を滑り落ちていく。
湯気で火照った肌は、バラの入浴剤と同じ薄紅色に染まっていた。
アリサは食い入るように見つめた。
二人は部屋の隅に移動しているものの、その視線は、完全に「隊のマドンナが着替えているのをロッカーから覗く男子」のそれだ。
(……首筋。あの、無防備なうなじ)
(お湯に濡れて光ってる……。あそこに噛みつきたい。あと、鎖骨にお湯が溜まってるの、エロすぎない?)
マシロはタオルを取り、自分の首筋を洗い始めた。
ゴシゴシ、ではなく、優しく撫でるように。
腕を上げるたびに、脇のラインや、薄い胸板がチラチラと見える。
キュッ、と肌を擦る音。
パシャ、とお湯を掛ける音。
狭い部屋だからこそ、その「水音」が、とてつもなく卑猥に響く。
「……ん。あー、気持ちいい……」
マシロが自分の肩を揉みながら、無自覚に喘ぐ。
「ぶふっ!!」
アリサが鼻を押さえてテーブルに突っ伏した。
限界だった。
目の前で、幼馴染が全裸で、バラの香りに包まれて、濡れた肌を晒して喘いでいる。
こんなの、どんな拷問よりも理性が削られる。
「(アリサさん、しっかりしなさい。出血多量で死にますわよ)」
「(無理……もう無理……。今すぐあのバスタブに飛び込みたい……一緒に入って背中流したい……いや、流させたい……)」
「(……まあ、お気持ちは分かりますわ。この光景、お店で見るなら銀貨10枚は取られますわね)」
ロッテも余裕ぶっているが、その目はマシロの入浴シーンに釘付けだ。
「……ねえ、二人とも」
不意に、マシロが振り返った。
バスタブの縁に腕を乗せ、あごを乗せる。
上目遣いの、濡れた瞳。
「お風呂用意するの手伝ってくれて、ありがとう」
ドクンッ!!
アリサとロッテの心臓が、同時に破裂音を立てた。
(……理性が、死ぬ)
アリサは震える手で机の端を掴んだ。
行きたい。今すぐ行って、指先でその感触を確かめたい。
背中の窪みをなぞりたい。
でも、それをしたら。
自分が「騎士」ではなく「獣」になってしまう。
「よし、温まった」
ザバァッ!
突然、マシロが立ち上がった。
バスタブの中で、直立する。
「っ!!!!???」
アリサとロッテの視線が、一点に集中する。
腰から下。お湯の雫が滴り落ちる、その秘部へ――。
と、思いきや。
マシロは腰にタオルを巻いた状態で立ち上がっていた。
「「……ちっ」」
部屋の二箇所から、明確な舌打ちが聞こえた。
「え? なになに? どうかした?」
マシロがキョトンとして振り返る。
その身体からは、もうもうと湯気が立ち上り、バラの香りが濃厚に漂ってくる。
濡れそぼった髪、上気した肌、そして腰に巻かれた一枚の心もとない布。
「……なんでもないわよ。さっさと服を着なさい、風邪引くわよ」
アリサは顔を背け、荒くなった呼吸を整えた。
今日一日で、寿命が10年は縮んだ気がする。
だが、同時に確信した。
(……この風呂、毎晩の習慣にするわ。絶対に)
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