転生したら嫁でした

ルナード

転生したら嫁でした

「転生費五百万、ちょうどいただきますね」


静かな石造りの建物――“教会”と呼ばれる場所に、事務的な声が淡々と響いた。

ここは、貴族が生涯の伴侶を得るために必ず通る場所。

血と家柄を守るため、運命の相手を転生させることは義務であり、決まりだった。


白衣を着た職員は、まるで店員のように書類をめくりながら説明を続ける。


「年齢は二十六歳。攻撃性は見られませんので、しつけは比較的容易でしょう。

前世での精神的負担がかなり大きかったようですね。新しい環境に慣れるまでは、優しく接してあげてください」


その言葉を聞きながら――

日向は小さく息を呑み、肩をすくめた。


転生装置の光に包まれてから、まだ時間は経っていない。

心は落ち着かず、人の視線も声も、すべてが怖かった。


そんな日向の前に立っていたのは、一人の青年だった。


早乙女家の長男――早乙女 高人。


高人はじっと日向を見つめると、ゆっくりと歩み寄り、しゃがんで視線を合わせた。

その仕草は驚くほど穏やかで、けれど反論を許さない重みを伴っている。


「俯かなくていいよ。背筋を伸ばして、前を見るんだ。いいね」


その声音は静かで、胸の奥にまで届いた。


日向の体は条件反射のようにびくりと震え、

気づけば言われた通り、背筋を伸ばしていた。


「……はい」


それだけで、高人は満足そうに微笑んだ。


「君、名前は?」


聞かれただけなのに、喉が詰まる。

男の人が怖い――前世で刷り込まれた恐怖が、まだ日向を縛っていた。


それでも、必死に勇気を振り絞る。


「ひ、日向……柊 日向です」


絞り出した声は弱々しく、今にも消えてしまいそうだった。


高人はその名を一度、ゆっくりと口にし、静かに微笑む。


「俺は高人。早乙女 高人。よろしく」


そして、当たり前のように告げる。


「俺のお嫁さん」


日向の心臓が大きく跳ね、世界が一瞬止まったように感じた。


恐怖のすぐ隣で――

初めて、ほんの少しだけ体が温かくなる。


高人はすっと手を差し出す。


「行こう、日向。今日から君は、俺が守る」


その掌は、信じられないほど優しい温度をしていた。

転生した翌朝。


日向は与えられた部屋の隅で小さく丸まりながら、高人の声を待っていた。


「日向、行くよ」


声をかけられただけで、肩が跳ねる。


その反応を見て、高人は心底心配そうに眉を寄せた。


「……ごめん、驚かせた?」


日向は慌てて首を振る。


「ち、違います……わ、私の、せいです……」


否定するように高人は手を振る。


「そうやって謝らなくていいんだよ。今日は服を買いに行って、それから病院だ。

大丈夫、俺がついてる」


その「ついてる」という言葉さえ、日向には少し怖かった。

木造の天井から柔らかな布が揺れ、店内には少女向けの服が色とりどりに並んでいた。

フリル、リボン、淡い色合い――どれも日向には眩しすぎる。


「す、すみません……あ、あの……な、何を買うんですか……?」


「いちいち謝らなくていいよ。柊さん、君の服を買うんだ」


「い、いえ……今着ているので十分です……」


高人は一瞬きょとんとしたあと、小さくため息をついて微笑んだ。


「それしか服がないじゃないか。他のも買うよ。

服以外にも必要なものは揃える。拒否権はない」


優しいが、逃げ道のない声音。


日向は縮こまりながら、これ以上言ってはいけないのだと悟り――


「……はい。ありがとうございます」


それが、精一杯だった。



数時間後


紙袋と箱が山のように積み上がり、シュシュの腕は完全に塞がっていた。


「結構買ったね。先に持って帰ってもらおうか」


ぱたぱたと元気な足音。


「シュシュ、お願いできる?」


「わかりました!! 二人とも気をつけてくださいね!」


獣耳がぴょこぴょこ揺れ、尻尾が勢いよく振られる。

十歳ほどの少年――日向の世話係となった獣人のシュシュだ。


「終わったら呼んでくださいねー! お迎えに来ますから!」


馬車は大荷物を載せ、屋敷へと戻っていった。

「さて、俺たちは病院に行こうか」


「……はい……」


日向の声は震え、体も小刻みに揺れていた。


高人はそっと距離を詰める。


「大丈夫。診てくれるのは俺の知人だ。緊張しなくていい」


「……お、女の人……ですか……?」


「そうだよ。嫌なことはされない」


もし男性医師だったなら、日向はきっと立っていられなかっただろう。

高人は、それを理解しているようだった。

ガラガラッ。


診察室の扉が開く音と同時に、高人の声が響いた。


「来たよ」


「おっそい! どこで道草食ってんだ!」


威勢のいい声が飛び、日向はびくりと肩を震わせた。

反射的に身を縮める日向を横目に、高人は小さく笑う。


「柊さん、こいつはノア。これでも腕の立つ医者だよ」


白衣をひるがえし、ノアはにこりと日向を見た。


「……あ、あの……柊 日向です……よ、よろしくお願いします……」


震えながら名乗る日向に、ノアは頷く。


「私はノア。こんな名前だけど日本人だよ。転生前の記憶がなくてね」


その言葉に、日向の表情がわずかに和らいだ。


ノアは続ける。


「転生は珍しくない。でもね、転生されたからって必ず嫁になる義務があるわけじゃない。

選ぶ権利は、本人にあるんだ」


横で高人が苦笑する。


「私だって、嫁を断って医者になったしね」


日向の目が、不安と驚きで揺れた。


ノアは声の調子を落とし、優しく手を差し出す。


「さあ、診察をするよ。こっちおいで。

検査は義務だから、迷惑とかじゃない」


日向は小さく一歩ずつ歩きながら、震える声でぽつりとこぼす。


「……お、男の人が……怖い……です……

じ、自分の意見……言ってはいけないって……ずっと……」


ノアの眉が、静かに動いた。


「そっか……詳しいことは、無理に話さなくていいよ。

でも日向、誰かを頼ることは、少しずつ覚えた方がいいね」


日向は目を伏せる。


その後ろで、高人は二人を心配そうに見つめていた。


(俺の声をかけるだけで、あんなに怯えるなんて……

どうしたら、怖がられずに済むんだ……)


高人は拳を握りしめるしかなかった。


ノアは高人へと視線を移す。


「高人。あんた、もっと優しく声を掛けな。

日向、あんたを見るたびに震えてるよ」


「……わかってる。どうすればいい?」


ノアはクスッと笑った。


「まずは信じてもらうところからだ。

時間はかかると思うけどね」

その夜、日向は静かに目を閉じた。


柔らかな布団の温度を感じたのは、ほんの一瞬だった。

次の瞬間、白く濁った蛍光灯の光が視界を支配する。


――カツン。


硬い革靴の足音。


机を叩く衝撃が、心臓の奥を直接殴るように響いた。


「何度言わせるんだよ」

「ほんと使えないやつ」

「お前の代わりなんて、いくらでもいる」


声が重なる。

怒りでも、感情でもない。

ただ切り捨てるような、無関心の声。


そのすべてが、日向の皮膚を刺し、息を奪った。


(……また、ここ……?)


逃げようと足を動かそうとしても、夢の中の身体は鉛のように重い。

呼吸が浅くなり、胸が締めつけられる。


紙を叩きつける音が耳元で炸裂し、そのたびに身体がびくりと跳ねた。


「邪魔なんだよ。いらないんだよ」

「消えてくれた方が楽なんだよ」


声が、音が、次から次へと押し寄せる。


自分が薄い霧のように溶けていく感覚に、日向は必死に手を伸ばした。


(こわい……いやだ……だれか……だれか……)


誰も呼ばない。

誰の声も返らない。


ただ、不要品のように放られる世界だけが広がっていた。


そのとき――。


「日向!!」


鋭い声が、悪夢の膜を引き裂いた。


日向は大きく息を吸い込み、はっと目を開ける。

呼吸は乱れ、涙が止まらず頬を濡らしていた。


「日向、大丈夫か!」


肩を強く抱き寄せる腕。

その温もりは、確かに現実だった。


「ご、ごめんなさい……ごめんなさい……っ」


「日向! 謝らなくていい。もういいんだ」


高人の声は必死で、震えていた。


日向は喉を震わせ、かすれた声で言葉を落とす。


「こわ……かった……音が、声が……

わたし……いらないって……」


途切れながらも搾り出すその姿に、高人は息を呑む。


そして、逃げ道を塞ぐように腕の力を強めた。

それは押しつけではなく、ただ必死な保護だった。


「……誰が、そんなことを言ったんだ」


低い声。

怒りを孕みながらも、それは日向には向いていない。


「二度と言わせない。

日向を傷つけるものは……全部、俺が排除する」


その言葉には、高人自身がまだ気づいていない感情が滲んでいた。


「日向がいらないわけないだろ。

俺には必要なんだ。

他の誰が何を言おうと、関係ない」


日向は高人の胸元を掴み、縋るように身体を預ける。

その細い指を、高人はそっと包み込んだ。


「日向は……俺のものだ。

俺が必要だと思う限り、誰にも奪わせない。

誰にも、触れさせない」


独占にも似た言葉を、日向は理解しきれないまま、ただ震えを止めるために布に顔を埋めた。


高人は日向の頭をゆっくりと撫で、囁く。


「大丈夫だ。

怖い音も、嫌な声も……全部、俺が遮る。

日向の世界に必要なのは、俺ひとりでいい」


その言葉は、慰めであり――

同時に、呪いにも似ていた。


けれどその夜、日向にとってはそれが唯一の救いだった。


そして――

高人の胸の奥に芽生えはじめた独占欲は、まだ彼自身の意識には届かないまま、確かに深く根を張り始めていた。

朝の光が、カーテン越しにやわらかく揺れていた。

その淡い明るさの中で、高人は身支度を整えている。


だが、背後にいる日向をちらりと見るたび、眉が自然と寄った。


「……やっぱり仕事に行かず、今日は一緒にいるか?」


予想もしなかった言葉に、日向は大きく瞬きをする。

胸の奥がひやりと冷え、慌てて首を振った。


「だ、大丈夫です……。い、行ってらっしゃい……ませ。

わ、私のせいで……迷惑は……」


その言葉を遮るように、高人は静かに首を振る。

否定の仕草は穏やかだが、瞳には消えない不安がにじんでいた。


「わかった。無理はしないでね。

したいと思ったことをして過ごして。

……シュシュもいるから、何かあれば言うんだよ」


「はい!! なんでも言ってください!」


元気な声が横から飛び、シュシュのしっぽが勢いよく振られる。

高人は靴を履きながら、ふと日向の方を振り返った。


日向は不安げな瞳で、ただ高人の背中を見つめている。


「声を出す練習をしてみるのはどうだろう?

そうすれば、時間はすぐに経つかもしれない」


その言葉に、日向は小さく頷いた。


高人は扉の前で一度だけ立ち止まり、何かを言いかける。

しかし結局、言葉を飲み込み、そのまま外へ出ていった。

誰の気配もない、静かな部屋。

その静けさが、逆に胸を締めつける。


(……声、出さないと……)


「お、おはよう……ござい……ます……」


喉がつまる。

誰もいないはずなのに、息が苦しい。


そのとき――。


コン、コン。


ノックの音に、日向は跳ねるように肩を震わせた。

恐る恐る扉を開けると、そこには――


「奥様!! 開けてくれたんですね! ありがとうございます!」


満面の笑みのシュシュが立っていた。

しっぽは勢いよく揺れっぱなしだ。


「次からは、入っていいか声で言ってくれたら嬉しいです!

声の練習にもなりますからね!

僕は様子を見に来ました! 何か困ったことはないですか!?」


「あ、えっと……だ、大丈夫です……」


「本当ですか!?

僕の仕事は奥様のお世話係なので、なんでも言ってください!

お願いですから何かお仕事ください!

一緒にお茶を飲むだけでもいいです!」


あまりに必死な様子に、日向は思わず少しだけ笑いそうになる。


「……ほ、ほんとに……なんでもいいんですか?」


「はいっ!!!」


しっぽがぶんぶんと振られる。


日向は胸の前で両手を握りしめ、小さく勇気を出した。


「な、なら……声を出す練習をしたいので……

す、少し……お話相手になって……くれませんか……?」


シュシュは、太陽みたいにぱぁっと笑った。


「お任せください!! いっぱいお話しましょう!!」


それからしばらく、部屋には明るい声が響き続けた。

日向の声も、ぎこちないながら確かに増えていく。


気づけば、日向の表情には、ほんのりとした笑みが浮かんでいた。

同じ頃――高人の仕事場


高人は書類を見つめていた。

だが、その目は文字を追っていない。


(……日向、大丈夫だよな?

声、出せてるだろうか。

部屋が静かすぎて、怯えてないだろうか……)


時計を見る。

まだ、数分しか経っていなかった。


その様子に、部下が苦笑する。


「旦那様、今日……そわそわしてません?」


「……してない」


完全にしている。

だが高人は、その自覚がなかった。


胸の奥で、静かに強まっていくもの。

それは心配に近く、しかしそれよりも深い――

無意識の“独占欲”。


(ひとりにさせすぎたかもしれない。

……早く、帰らないと)


仕事は、いつも以上の速度で片付けられていった。

周囲は驚き、そして無言のまま道をあける。

扉の前で、思わず名前を呼びそうになる。


(……日向)


静かに扉を開けると――

ソファに寄り添うように眠る、日向とシュシュの姿があった。


高人の眉が、ぴくりと動く。


「……シュシュ、起きて」


「ひゃっ!? は、はいっ!!」


慌てて起き上がるシュシュに、高人は低い声で告げた。


「日向が起きてしまうから……静かに」


そして眠る日向を、そっと抱き上げる。

温かくて、軽くて、壊れ物みたいで――

胸が締めつけられた。


寝室へ運び、ベッドに寝かせる。

そのまま、そっと頭を撫でる。


「よく……頑張ったね」


その声は、誰にも聞かせないほど、愛しげだった。

廊下で、シュシュが今日の様子を報告していた。


「日向様、とても頑張ってお話してましたよ!

あ、奥様って呼ぶのは、まだ恥ずかしいから……

日向でいいって言われたんです!」


その言葉に、高人は一瞬だけむすっとする。


(……日向“様”。

俺だけ、柊さんのまま……?)


胸の奥に、小さな棘のようなものが刺さる。

だが、シュシュは気づかないまま続けた。


「でも、今日はすっごく楽しそうでした!」


その一言で、高人の表情はふっと緩んだ。


「……そうか。

なら……本当によかった」


その胸の奥で、

――手放したくない。

――自分だけを見てほしい。

そんな気持ちが、またひとつ、静かに育っていく。

数日後。

高人に付き添われ、病院へ向かう馬車の中で、日向は小さく息を呑んだ。


「緊張してる?」


隣からの優しい問いかけに、日向はこくりと頷く。


診察室に入ると、白衣姿のノアが柔らかく手を振った。


「いらっしゃい。前回との変化を見ていくね」


落ち着いた声で問診が進み、一通り終わったところでノアが言う。


「一回目と二回目は同じ医師じゃないといけないけど、

次回からは変えることもできるよ。どうする?

もちろん、このままでも構わないし」


日向は迷った。

――自分が決めていいことなのだろうか。


ちらりと高人を見る。

その視線を受け止め、高人は穏やかに微笑んだ。


「日向の好きにしていいよ」


その言葉に背中を押され、日向はたどたどしく口を開く。


「め、迷惑にならないのなら……

このまま、ノアさんにお願いしたいです」


ノアはぱっと表情を明るくした。


「全然迷惑なんかじゃないよ。

むしろ選んでくれて嬉しい。ありがとう、日向ちゃん」


診察の結果は、ゆっくりではあるが確実に前に進んでいた。

言葉は以前より詰まらなくなり、声もしっかり出ている。


しかし――ノアは優しく続ける。


「まだ練習は必要だね。

ひとりで練習するより、誰かと会話しながら慣れていく方がいいよ。

それと……外に出る練習も、少しずつ始めていい」


その一言に、高人の眉がぴくりと動いた。


「外に……出る?」


低い声。

そこには、無自覚な独占欲がにじんでいる。


「危なくないか?」


ノアは笑いながら、やんわりと返した。


「無理をしない範囲でね」


日向が少し嬉しそうにしているのを見て、高人はそれ以上の反論を飲み込み、唇を結んだ。


病院を出て、帰り道。

日向は窓の外を眺めながら、小さな声でつぶやく。


「……外、ちょっとだけなら……行ってみたいです」


その瞬間、高人は即答した。


「行くなら俺と。絶対にひとりでは行かないで」


あまりにも早い返事に、日向は思わずくすっと笑う。


「……はい」


高人は日向の手をそっと取り、指を絡める。

温かさが伝わる握り方だった。


「無理はしなくていい。

でも……できることが増えて、俺は嬉しいよ」


その声は優しいのに、どこか強い。

――絶対に手放さない。

そんな響きを秘めていた。

病院から戻ったその日。

高人は日向に向かって、静かに言った。


「ノアが言ってただろ。

誰かと話す練習を続けるといいって」


日向は少し考え、こくりと頷く。


「……は、はい」


「難しく考えなくていい。

質問を交互にしてみようか。

答えられなくなったら、そこでやめればいい」


日向の指先が、ぎゅっと絡む。

それでも逃げず、目を伏せたまま小さく声を出した。


「……わ、わたしから……いいですか……?」


「もちろん」


日向は深呼吸をして、勇気を振り絞る。


「た、高人さんは……

お仕事、す、好きですか……?」


「好きかどうかは分からないけど、責任はあるかな」


即答せず、きちんと考えてから答える声は落ち着いていて、優しい。


それに少し安心したのか、日向は次の質問を口にする。


「……す、好きな……食べ物は……?」


「甘いもの。意外かもしれないけど」


「……ふふ……」


かすかな笑い声。

それだけで、高人の胸は少し軽くなる。


「じゃあ、次は俺から」


日向の肩が、ぴくりと揺れた。


「……大丈夫。答えられなかったら、無理に言わなくていい」


「……はい……」


高人は少し考えてから、何気ない調子で尋ねる。


「日向の誕生日は、いつ?」


その瞬間、日向の動きが止まった。

視線が床に落ち、唇がわずかに震える。


数秒の沈黙のあと、掠れた声が零れた。


「……もう……すぎて、ます……」


高人は言葉を失った。


「……え?」


「……転生して……すぐの頃に……」


それだけ言って、日向は申し訳なさそうに肩をすくめる。


「……言って、いいものだと……思わなくて……」


胸の奥が、ずしりと重くなる。


――気づけなかった。

――祝うべき日を、何も知らずに過ぎさせてしまった。


「……そうか」


それ以上、言葉が出なかった。


日向は慌てて首を振る。


「だ、大丈夫です……!

 ほんとうに……気にして、ないです……」


その必死なフォローが、逆に胸を締めつける。


(気にしてない、じゃない)

(気にすることを、諦めてただけだ)


高人は静かに息を吸い込む。


――これは、俺の落ち度だ。

――埋めなければならない。


その夜、高人の心の中で、

**「何かをしなければならない」**という思いが、

はっきりとした形を持ち始めていた。

その日は、屋敷の空気が朝からどこか違っていた。

廊下を行き交う使用人たちの足取りはいつもより忙しく、花瓶が入れ替えられ、白いクロスが丁寧に広げられていく。


日向はその様子を、自室の扉の隙間からそっと見つめていた。


(……なにか、あるのかな……)


理由は分からない。

けれど胸の奥がざわつき、不安が芽生えかけた、その時だった。


廊下の先で、高人が使用人に指示を出している姿が目に入る。


「花は、日向が驚かない色合いにして。

 派手すぎるのはやめてほしい」


「料理は量よりも、食べやすさを優先してくれ。

 静かな部屋で、落ち着いて食べられるように」


「音楽はいらない。

 あの子、急な音が苦手だから」


一つひとつ、細かく。

まるで当たり前のように、日向のことだけを考えた指示。


それは、屋敷の準備というより――

日向の世界を守るための準備のように見えた。


「……かしこまりました、高人様」


使用人たちは誰ひとり驚かない。

それが“早乙女高人”という人間なのだと、皆が知っているからだ。


やがて日向は、食事室へ案内される。

テーブルの上には、小さなケーキと控えめな料理。

華やかすぎないが、どこか温かい空間だった。


「……これ……」


戸惑う日向に、高人は向かいの席へ腰を下ろし、穏やかに告げる。


「誕生会だよ。遅くなってごめんね」


「え……」


「誕生日のプレゼント、何がいい?

 なんでもいいよ」


日向はしばらく黙り込み、それから勇気を振り絞るように口を開いた。


「……なら……

 日向、って……名前で……呼んでください……」


一瞬、空気が止まる。


高人は少し驚いたように目を瞬かせ、すぐに微笑んだ。


「……いいよ、日向」


その呼び方だけで、胸の奥がじんわりと温かくなる。


「じゃあ、俺のことも高人って呼んでね。

 これじゃ、俺もお願いしたことになっちゃったね」


そう言って、高人は小さな箱を差し出した。


「それでも……俺からは、形に残るものを」


箱を開け、高人は日向の前に立つ。


「……手、貸して」


戸惑いながら差し出された手首を、そっと取る。

力は強くない。けれど、逃げ道を塞ぐように、確かに包み込む仕草だった。


冷たい金属が肌に触れる。

カチリ、と小さな音を立てて、ブレスレットが留められた。


高人は低く穏やかな声で言う。


「これは日向を守ってくれる。

 だから、安心して」


日向は目を丸くし、手首を見つめる。


「……ありがとうございます……」


声は、少しだけ震えていた。


けれど高人は、まだ手を離さない。

親指で無意識に手首をなぞりながら、静かに続ける。


「外さなくていい。

 俺が、ちゃんと見てるから」


優しいのに、どこか決定事項のような言葉。


日向は深く考えることなく、小さく頷いた。


「……はい……」


守られている、という感覚だけが胸に残る。

その“守る”の中に――

居場所の確認も、声の記録も含まれていることを、日向はまだ知らない。


高人は満足そうに微笑み、ようやくその手を離した。


(これでいい)

(これで、日向は一人にならない)


そう信じて疑わないまま。

誕生日から少し時間が経ち、日向はようやく「外」という場所に慣れ始めていた。

もちろん、ひとりではない。いつも隣には高人がいた。


馬車に乗り、店に入り、道を歩く。

高人の気配がそばにあるだけで、胸の奥のざわめきは不思議と静まった。


――だからこそ、だろうか。


その日は、ふと口にしてしまった。


「……お出かけに、行きたいです」


高人は書類から顔を上げ、すぐに微笑む。


「いいよ。一緒に行こう」


迷いのない返事。

いつも通りの、優しい声。


日向は一瞬だけ息を詰め、それから視線を落とした。


「えっと……ひ、一人で……行きたいです」


その言葉が落ちた瞬間、部屋の温度が下がった気がした。


「……え?」


低く、短い声。

高人は日向を見つめたまま、動かない。


次に発せられた言葉は、穏やかさを失っていた。


「それは、ダメだ」


理由は告げられない。

だが拒絶だけは、はっきりと伝わる。


日向の喉がきゅっと縮む。


「ひっ……ご、ごめんなさい……」


反射的に謝っていた。

なぜ謝るのか、自分でも分からないまま。


その瞬間、高人の表情が変わる。

何事もなかったかのように、柔らかな微笑みを作った。


「謝らなくていいよ。気にしないで」


そう言って、いつものように日向の手を取る。

声も、仕草も、すべてが“普段通り”。


日向はその温もりに、ほっと息を吐く。


怒られていない。嫌われてもいない。

――それで、いい。


ただひとつだけ、心に残った。


ひとりで外に出る、という選択肢はないのだと。


それは言葉にされることなく、静かに刷り込まれていった。


高人の隣でなければ、外には出られない。

それが当たり前なのだと、日向は疑わずに受け入れてしまった。


そして高人は、その小さな変化に気づかぬまま、日向の手を離さなかった。


――守っているのだと、信じて。

高人の出張が決まった朝、日向は何度も同じ言葉を聞いた。


「外には出ないで。

 何かあったら、必ず連絡するんだよ」


優しい声。

けれど念を押すように、重たい響き。


日向は小さく頷き、精一杯の笑顔を作る。


「はい……いってらっしゃいませ」


馬車が見えなくなるまで手を振り、扉が閉まると、屋敷は急に静かになった。


人の気配が薄れた廊下に、日向の足音だけが小さく響く。


(……静か……)


胸の奥が、少しだけひんやりする。


不安と、寂しさと、

それから――別の感情。


部屋に戻り、机の上の小さなカレンダーに目を落とす。


高人の誕生日まで、あと少し。


(……お返し、したいな……)


祝ってもらったこと。

ブレスレットをつけてもらった時の、あの穏やかな声。


嬉しくて、胸が温かくなった。


でも――。


(言ったら、止められる……)


一緒に行こうと言えば、必ず同行される。

ひとりで行きたいと言えば、きっと怒られる。


前に、そうだった。


日向は無意識に手首のブレスレットに触れる。

ひんやりとした感触が、現実を思い出させる。


(……少しだけなら……)


ほんの短い時間。

すぐ戻れば、きっと大丈夫。


そう自分に言い聞かせ、外套を羽織る。

誰にも声をかけず、静かに扉を開けた。


屋敷の外の空気は、少し冷たくて、少し怖い。

胸がきゅっと縮む。


それでも、一歩。

また一歩。


(高人さん、喜んでくれるかな……)


その顔を思い浮かべながら、日向は街へ向かって歩き出した。


それが、後に大きな波紋を呼ぶことを――

この時の彼女は、まだ知らなかった。

高人は出張先の執務室で、ふと手元の端末に視線を落とした。

忙しなく処理されていく書類の山。その中で、ひとつの表示だけが、どうしても目に引っかかった。


――屋敷の外。


一瞬、思考が止まる。

次の瞬間には、指先が強く端末を握り締めていた。


「……日向?」


低く漏れた声は、誰にも聞かれていないはずなのに、ひどく重い。

確認するまでもなかった。


あのブレスレットは、屋敷の敷地外へ出ることを想定していない。

高人は即座に屋敷へ連絡を入れた。



異変に気づいたシュシュは、電話を手にしたまま全力で走った。

路地の向こう、小さく背を丸めて歩く日向の姿が見える。


「日向様……っ!」


息を切らしながら駆け寄り、そっと受話器を差し出す。


「……高人様から、です……」


その言葉を聞いた瞬間、日向の身体がびくりと震えた。

恐る恐る受話器を握る。


「……も、もしもし……」


返ってきた声は、怒鳴るでも荒げるでもない。

けれど、静かすぎるほどの低さが、逃げ場を塞いでいた。


『今、どこにいる』


「……っ……」


『ひとりで外に出るな、と言ったよね』


息が詰まる。

言葉を探そうとするほど、喉が固く閉じていく。


『何かあったら、どうするつもりだった?』


責めているわけではない。

それなのに、追い詰められていく感覚だけが強くなる。


『……帰りなさい。すぐに』


それだけ言って、通話は切れた。


日向は小さく「……はい……」と呟き、急いで屋敷へ戻った。



夜。

部屋の明かりを落としても、日向の目は閉じられなかった。


電話越しの声が、何度も頭の中で繰り返される。


――ひとりで行くな。

――どうするつもりだった?


呼吸が浅くなり、胸が苦しくなる。

過去の記憶が、音もなく重なっていく。


「……っ……は、ぁ……」


息が吸えない。

涙が溢れ、震える唇から名前が零れた。


「……高人、さ……」


その声が届いたかのように、扉が勢いよく開く。


「日向!」


高人は靴も脱がぬまま駆け寄り、ベッドの上で苦しむ日向を抱きしめた。


「大丈夫だ。もう大丈夫」


背を撫で、呼吸に合わせて声を落とす。


「怒って……ごめん。でも……心配なんだ」


その腕は強く、離す気配はない。


日向は胸に顔を埋め、泣きながら首を振った。


「……だ、黙って……行って……ごめんなさい……」

「つ、次からは……ちゃんと……伝えます……」


高人は返事の代わりに、さらに腕に力を込める。


「それでいい。

 俺が全部、受け止めるから」


その言葉は優しく、そして――

知らず知らずのうちに、深い独占を孕んでいた。

高人が仕事へ出たあと、部屋は静かだった。


日向は机の上に残された書類に気づき、はっと息を呑む。


「……これ……」


手に取ったそれは、明らかに重要そうだった。

届けた方がいいのだろうか。


外に出ること自体、まだ少し怖い。


(でも……高人の、役に立ちたい……)


胸の奥で、小さな気持ちが揺れた。


迷っていると、ぱたぱたと足音が近づく。


「日向様!どうしましたか?」


シュシュだった。

事情を説明すると、彼はぱっと顔を明るくする。


「一緒に行きましょう!ちゃんと連絡しますね!」


尻尾がぶんぶんと激しく揺れる。


すぐに連絡を入れ、少しして返事が来た。


『本当は……外に出てほしくないけど』


受話器越しの高人の声は、少しだけ低かった。


『今、手が離せない。持ってきてくれると嬉しい』


日向の胸が、きゅっと鳴る。


「……はい……」


「わかりました!」


シュシュが元気よく返事をすると、

『任せたよ』と高人は短く言った。


外へ出るのは久しぶりだった。

それに、高人以外と二人きりで出かけるのは初めて。


馬車に乗り込んだ瞬間、日向の指先は冷たくなっていた。


街の音、人の気配、揺れる景色。


(だいじょうぶ……高人のため……)


そう心の中で何度も繰り返しながら、

日向はぎゅっと書類を抱きしめた。


シュシュは隣で変わらず尻尾を振りながら、

「ゆっくりで大丈夫ですよ!」と笑っていた。


その笑顔に、日向はほんの少しだけ救われた気がした。

高人の職場は、日向の想像よりもずっと大きく、人の気配に満ちていた。


高い天井。

行き交う人々。

忙しなく響く足音。


「……っ」


思わず足が止まる。

胸の奥がきゅっと縮まり、息が浅くなる。


「日向様、大丈夫です!」


シュシュが振り返り、にこっと笑って手を引く。


「高人がいますから!」


その言葉に、日向は小さく頷き、一歩踏み出した。


廊下の先――

こちらへ向かってくる人影。


日向が持つ書類に、高人の視線が止まった瞬間だった。


一瞬だけ、彼の表情が強張る。


「……日向」


低く、短い声。

次の瞬間には、足早に近づいてきていた。


「無事?」


その一言に、胸が少しだけ軽くなる。


日向は慌てて書類を差し出す。


「は、はい……。あの……書類……忘れていたので……」


高人はそれを受け取りながら、無意識に日向の肩へ手を置いた。

距離が近い。

守るようで、囲い込むような立ち位置。


「ありがとう。でも……外は疲れただろ」


「だ、大丈夫です……」


日向は小さく首を振る。


「高人の役に立てて……よかったです」


その言葉に、高人は一瞬だけ言葉を失った。


周囲の視線に気づいたのか、彼は眉をひそめ、日向を背に隠すように立つ。

まるで、見せたくないものを隠すかのように。


シュシュは空気を察し、そっと一歩下がった。


高人は日向の耳元へ顔を寄せ、低く囁く。


「……次からは、必ず先に言って。心臓に悪い」


叱責ではない。

けれど、強い不安と独占が滲む声。


「……ごめんなさい……」


日向は俯き、それでも続けた。


「でも……高人の役に立ちたかったです……」


高人は息を吐き、日向の頭にそっと手を置く。


「……それは、嬉しい」


ほんの一瞬だけ、優しい声。

だがすぐに、念を押すように言う。


「でも無茶はしない。約束だ」


「……はい」


小さく頷く日向を見て、ようやく高人はシュシュへ視線を向けた。


「すぐ屋敷に戻って。俺も仕事を片付けたら帰る」


「はい!」


尻尾がぶんぶんと揺れる。


去っていく日向の背中を、高人は最後まで見送っていた。

視線を外すことなく。


胸の奥で、静かに思う。


(……やっぱり、外に出させるのは早かったか)


その感情が“心配”なのか、“独占”なのか――

本人だけが、まだ気づいていなかった。

日向が屋敷へ戻る馬車を見送ったあと、執務室の空気が微妙に変わったことに、高人はすぐ気づいた。

書類に視線を落とすふりをしていても、周囲の気配がざわついているのが分かる。


「……さっきの方」


控えめな声で、後輩が話しかけてきた。


「もしかして、高人様の……」


一瞬の迷い。

高人は小さく息を吐き、淡々と答えた。


「……ああ。俺の嫁だ」


その一言で、空気が弾けた。


「えっ!? 結婚されてたんですか!?」


後輩の声に、周囲の数人が一斉にこちらを見る。

高人は表情を崩さないまま、書類を整えた。


「公にはしていないだけだ」


「そうだったんですね……! じゃあ今度、ぜひうちの嫁と会わせたいです!」


その言葉に、高人の手が一瞬止まる。

脳裏に浮かんだのは、外に出るだけで緊張し、声が詰まってしまう日向の姿だった。


「……日向が嫌じゃなければ」


慎重に選んだ言葉。

後輩はすぐに頷く。


「もちろんです! 無理はさせません。ゆっくりで!」


その返事に高人は小さく頷きながらも、胸の奥に引っかかるものを覚えていた。


(知らない人間を、これ以上増やしていいのか……)


理由を言葉にできないまま、その違和感を飲み込んだ。

屋敷に戻ると、高人は真っ先に日向の姿を探した。

見つけるや否や、ほっとしたように歩み寄る。


「疲れてない? 息苦しくないか?」


矢継ぎ早の問いに、日向は少し慌てて首を振る。


「だ、大丈夫です……」


それでも高人は納得しきれない様子で水を持ってきて、ソファに座らせた。

自然な動作のはずなのに、距離はやけに近い。


「今日は外に出ただけで十分だよ。よく頑張った」


そう言って、そっと頭を撫でる。

その手はすぐには離れなかった。


「……高人の役に立てて、嬉しかったです」


小さな声でそう言われた瞬間、高人の表情が一気に緩む。


「……それなら良かった」


少し間を置いて、低い声で続けた。


「でも次は、ひとりで抱え込まなくていい。俺に頼って」


日向は戸惑いながらも、静かに頷いた。


その夜、高人はいつも以上に日向を甘やかした。

食事は好みに合わせ、片付けもすべて自分で引き受ける。


「今日は何もしなくていい」


そう言って、まるで外の世界から守るように日向を包み込む。

眠る前、高人は日向を抱き寄せたまま囁いた。


「俺がいる。大丈夫だ」


日向が眠りに落ちるまで、その腕が緩むことはなかった。

それが過保護なのか、独占なのか。

高人自身は、まだ気づいていなかった。

数日後の夕方。

執務室で、高人は後輩に呼び止められた。


「会長、あの……今度、嫁同士で会わせてみませんか?」


その言葉に、高人の手が一瞬止まる。

嫁同士――つまり、日向と後輩の妻。


「無理にとは言いません。ただ、うちの嫁が一度ご挨拶したいって」


高人はすぐには答えなかった。

日向が他人と会うこと。

それが負担にならないか、怖がらないか――考えが頭を占める。


「……検討する」


それだけ告げ、その場を終えた。


屋敷に戻ると、高人は日向の様子を確かめるように視線を向ける。

静かに過ごしているが、以前より表情は柔らかい。


「日向」


名を呼ぶと、日向は少し驚いたように顔を上げた。


「今日、後輩から話があった。……その、嫁同士で会いたいそうだ」

「無理なら断る。嫌なら、行かなくていい」


慎重な声だった。


日向は少し考え、指先をぎゅっと握る。


「……あの……」

「会って、みたい……です」


その小さな言葉に、高人の胸がざわつく。

嬉しいはずなのに、どこか落ち着かない。


「……わかった。俺も近くにいる」

約束の日。

後輩の妻――ミアは、穏やかな笑顔の女性だった。


「初めまして。私ミア。無理しなくて大丈夫ですよ」


その一言で、日向の肩の力が少し抜ける。


会話はゆっくり進んだ。

間が空いても、誰も急かさない。


「このお茶、好きなんです」

「……わ、私も……」


共通の話題に、日向の声が少しずつ自然になる。

笑う回数も、増えていった。


別れ際、ミアが柔らかく言う。


「また、会えたら嬉しいです」


「……はい」


日向は少し照れながら、確かにそう答えた。


帰り道、高人の隣で日向がぽつりと呟く。


「……お友達、できたかもしれません」


高人は微笑んだ。

けれど胸の奥に、小さな棘のような感情が残る。


(よかった……はずなのに)


誰かの世界が、日向の中に増えていくこと。

喜ぶべきだと分かっていながら、

高人はそっと、日向の手を強く握りしめていた。

それから、ミアと日向は数日おきに屋敷で顔を合わせるようになった。


午後のやわらかな光が差し込む応接室。

並んで座り、湯気の立つ紅茶を前に他愛のない話をする。


ミアは急かさない。

日向が言葉を探して黙り込んでも、遮らず、ただ待つ。


「……この前の、お茶……美味しかったです」


そう言えたとき、ミアはにっこり笑った。


「うん。また一緒に飲もうね」


それだけで、日向の胸はあたたかくなる。

誰かと“約束”をすることが、こんなにも心を軽くするなんて――知らなかった。


その様子を、高人は遠くから見ていた。

執務室の窓越し、あるいは廊下の角から。


日向がミアに向ける柔らかい笑顔。

自分にはあまり見せない表情。


胸の奥が、ちくりと痛む。


(……あんな顔、してたか)


理由は分からない。

ただ、落ち着かない。


その日のうちに、高人は佐久間光一を呼び出した。


「この案件、君に任せる。ついでに、こっちもだ」


「……量、結構ありますね」


「できるだろう?」


淡々とした口調に、佐久間は頷くしかなかった。


数日後、少し遠方への出張命令が下る。

「人手が足りない」という、もっともらしい理由と共に。


結果として、ミアも同行することになり、夫婦そろって屋敷を離れた。


(最近、会長……なんか厳しくないか?)


佐久間は内心そう思ったが、口にすることはなかった。


ミアと会えなくなった日向は、理由を知らないまま呟く。


「……お仕事、大変なのかな……」


その声を聞いていたのは、高人だけだった。

寂しそうな横顔を見て、胸が少しだけ痛む。


それでも、高人は自分に言い聞かせる。


(これでいい。

 日向のそばにいるのは……俺だけでいい)


自覚のない独占欲は、

静かに、確実に深くなっていった。

久しぶりにミアと向かい合って座る午後のカフェは、穏やかな香りに包まれていた。

湯気の立つ紅茶を前に、日向はほんの少しだけ肩の力を抜いている。


ミアはカップを両手で包み込み、しばらく迷うように視線を落としたあと、静かに口を開いた。


「ねえ……ちょっと、聞いてもいい?」


その声に、日向は顔を上げる。


「はい……?」


「佐久間がね。最近、元気がなくて。誰かに意地悪されてるみたいなんだけど……」


言葉を選ぶように、ミアは続けた。


「日向、何か知らない?」


その瞬間、胸の奥がひやりと冷えた。

はっきりとした理由はない。ただ、頭の奥で何かが繋がってしまった。


怒鳴り声。

理不尽な言葉。

殴られる痛み。


前世の記憶が、突然よみがえる。

――力のある人間が、弱い立場の人間を追い詰める光景。


脳裏に浮かんだのは、高人の顔だった。


「……ごめんなさい」


日向は小さく首を振る。


「分からないです」


それ以上、何も言えなかった。



その夜。

日向は眠れずにいた。胸の奥に引っかかった違和感が、どうしても消えなかった。


意を決して、高人を呼び出す。

部屋に入ってきた彼を前に、日向はまっすぐに問いかけた。


「……佐久間さんに、嫌がらせしてるって本当ですか?」


高人の動きが止まる。

一瞬、言葉を探すように唇が動いたが、何も出てこない。


「どうして、そんなことをしたんですか」


声は静かだったが、震えていた。


「……私の、せいですか?」


沈黙が落ちる。

その沈黙が、日向の心を少しずつ追い詰めていく。


「……私が」


拳を強く握りしめる。


「私が、一番嫌なことをしたの?」


高人は答えられなかった。

その沈黙が、答えのように感じてしまった。


「……今は、一緒にいたくないです」


そう告げると、高人は苦しそうに息を吸い、


「ごめん」


とだけ言った。


日向はゆっくりと首を傾げる。


「それは……何に対しての『ごめん』ですか?」


返事はなかった。


「……もういいです」


背を向けた日向の背中に、


「待って!」


と高人の声が追いすがる。


けれど、日向は振り返らない。


「……着いてこないでください」


その一言は、拒絶であり、精一杯の防衛だった。


部屋に残された高人は、何も言えず、ただその背中を見送ることしかできなかった。

高人は壊れていた。

それは音を立てて崩れるようなものではなく、じわじわと内側から腐っていくような壊れ方だった。


日向がいない部屋は、やけに広く、冷たい。

書類に目を落としても文字は頭に入らず、食事の味もしない。


気づけば何度も、無意識に名前を呼んでいた。


「……日向……」


返事はない。

分かっているのに、口が勝手に動く。


夜になると、胸の奥が締めつけられる。

息をするたびに、何かを失った実感だけが深く沈んでいった。


そんな高人の前に、両親は何の前触れもなく現れた。


父は冷え切った目で息子を見下ろし、短く言い放つ。


「愚かな子だ」


母はその隣で、どこか哀れむように微笑んだ。


「本当に……哀れな子」


そして、静かに続ける。


「あの子は、お前を置いて行ってしまったのね」


その言葉に、高人の胸がひくりと痛んだ。


「日向……どうして……」


絞り出すような声だった。


父は溜め息混じりに言う。


「だから言っただろう。

 手綱を引いておかないといけない」


冷酷なほど淡々と。


「目を離したら、すぐに死ぬような存在なんだ」


母も頷き、当たり前のことのように告げる。


「だから次は、もう逃げないようにしなさい。

 外に出てはいけないよ」


その瞬間、高人の背中を冷たい汗が伝った。


「……そ、それは……ダメだ」


震える声で否定する。


「それは……俺が考えていたことと、同じだ……」


母は不思議そうに首を傾げる。


「そんなにダメなことなの?

 私たち貴族は、ずっとそうしてきたでしょう」


正しい。

合理的で、安全で、間違いのない選択。


それでも、高人の胸は強く拒絶した。


「……わからない」


言葉を探しながら、ゆっくりと続ける。


「でも……日向が、もう一度……

 俺の名前を呼んでくれるためには……」


視線を伏せ、拳を強く握りしめる。


「俺は、俺のやり方を……見直さないといけない」


しばらくの沈黙。


やがて、母が小さく息を吐いた。


「……そう」


父は一歩前に出て、低く言った。


「高人がそう思うなら、俺たちも手を貸そう」


高人はゆっくりと頭を下げた。


「……ありがとうございます」


その声は、かすれていた。


守りたいのか。

縛りたいのか。

愛しているのか、失うのが怖いだけなのか。


その答えを、高人自身がまだ知らないまま――

静かな狂気だけが、胸の奥で息を潜めていた。

日向はミアの家の前に立った瞬間、日向の足は震えて止まりそうになった。

ここへ来るまでに、何度も引き返そうと思った。

それでも、逃げたままではいられなかった。


扉が開く。


「……日向?」


その声を聞いた途端、胸が詰まり、日向は深く頭を下げた。


「突然来てしまって、ごめんなさい……」


顔を上げられないまま、ぎゅっと指先を握りしめる。


「私の……旦那の、高人が……」


喉が震え、言葉が途切れる。


「佐久間さんに、嫌がらせをしてしまったと聞きました」


しん、と空気が静まる。


「本当に、申し訳ありません」


日向は再び頭を下げた。


「私のせいで……こんなことに……」


謝らずにはいられなかった。

自分がここにいなければ、あんなことは起きなかったのではないかと、何度も考えてしまう。


「迷惑だと、分かっています」


それでも、声を絞り出す。


「それでも……少しの間だけ、ここに居させてもらえませんか……」


拒まれる覚悟をした、その瞬間。


「……違うよ」


ミアは静かに首を横に振り、日向の前に一歩近づいた。

そっと手を取られ、その温もりに思わず息を呑む。


「日向が謝ることじゃない」


真っ直ぐで、揺れない声だった。


「日向は、何も悪くないよ」


目から、ぽろりと涙が落ちる。


「ちゃんと向き合おうとしてるじゃない」


ミアはやさしく笑う。


「それだけで、十分だよ」


そして、迷いのない声で告げた。


「好きなだけいな」

「ここでは、安心していいんだから」


張り詰めていたものが、一気にほどけた。


「……ありがとうございます……」


何度も頷きながら、日向はそう答えた。


ミアの家の中は、静かで、あたたかい。

責められることも、怯える必要もない場所。


日向はその空気に包まれながら、ほんの少しだけ――

心を休めてもいいのかもしれない、そう思った。

屋敷は、こんなにも静かだっただろうか。


朝になっても、日向の足音がしない。

控えめに扉を叩く音も、遠慮がちな「おはようございます」も、どこにもない。


――分かっていたはずだ。

彼女は、もうここにはいない。


それでも身体は勝手に動いてしまう。

書斎を出るとき、寝室の前で足が止まった。

中を覗こうとして、拳を強く握りしめ、やめる。


「……馬鹿だな、俺は」


低く落とした声は、誰にも返されず、静寂に溶けていった。


机の上には、日向に渡すつもりだった書類と、

彼女のために用意した菓子が、そのまま残っている。

必要以上に甘いものを選んだのは、彼女が少しでも怖い思いをしないように――

そう思っていた、はずだった。


――本当に、そうだったのか。


引き出しを開ける。

そこにあったのは、例のブレスレットの仕様書。


「……守る、か」


口にした瞬間、胸が痛んだ。


守ると言いながら、

俺は日向の世界を狭めてはいなかっただろうか。

心配だ、不安だ、危ない――

そう言い続けて、彼女から「選ぶ権利」を奪っていたのではないか。


思い出すのは、あの夜の顔。


『今は、一緒にいたくないです』


震えながら、それでもはっきりと告げた声。

俺を拒んだ、初めての言葉。


……当然だ。

あれだけ縛っておいて、嫌われない方がおかしい。


父の声が、脳裏によみがえる。

『手綱を引いておかないと、目を離したらすぐに死ぬ』


母は当然のように言った。

『貴族はそういうものよ』


――そうだ。

俺も、ずっとそう信じてきた。

守るためには管理するしかない。

愛するなら、囲うしかない。


だが、日向は。


彼女は、鳥籠の中で震えていた。

安心していたのではなく、

ただ、逃げる方法を知らなかっただけだった。


「……俺は、何をしていた」


椅子に深く腰を下ろし、顔を覆う。

情けなさと後悔で、息が詰まりそうになる。


会いに行こうと思えば、行ける。

命じれば、彼女を連れ戻すことだってできる。


でも――

それをした瞬間、すべてが終わる気がした。


日向が、もう一度俺の名前を呼んでくれるためには。

恐怖でも、依存でもなく。

自分で選んで、ここに戻ってくるためには。


俺が、変わらなければならない。


「……待つよ」


誰にともなく、そう呟いた。


戻ってきてほしい。

けれど、戻ってこなくてもいい。

ただ、幸せでいてくれればいい。


それが愛だと、

今さら気づくなんて、遅すぎるのかもしれない。


それでも――

日向に、もう一度向き合う資格を得るために。


俺は今日も、

彼女のいない屋敷で、

自分の在り方を問い続けていた。

ミアの家は、あたたかかった。


火の音がして、湯気の立つ匂いがして、

誰かが当たり前のように隣にいる気配がある。


それなのに、胸の奥はずっと落ち着かなかった。


(……高人さん)


名前を思い浮かべただけで、胸がきゅっと縮む。

会いたくないわけじゃない。

嫌いになったわけでも、怖くなったわけでもない。


ただ――

このまま戻ってしまったら、

また同じことを繰り返してしまう気がした。


ミアが湯のみを差し出してくれる。

「無理して飲まなくていいよ。冷めたら、また淹れ直すから」


その言葉に、日向は小さく首を振った。

「……ありがとうございます」


声は、前よりも詰まらずに出た。

それに気づいて、少しだけ驚く。


ここに来てから、

誰かに見張られている感覚がない。

「外に出るな」と言われることもない。

何をするにも、許可はいらなかった。


……なのに。


(どうして、こんなに不安なんだろう)


高人の屋敷では、

何も考えなくてよかった。

次に何をするかも、どこへ行くかも、

全部、高人が決めてくれた。


怖かったはずなのに。

苦しかったはずなのに。


「……楽、だった」


ぽつりと、誰にも聞かれないように呟く。


守られるって、こういうことなんだと思っていた。

自分で選ばなくていいこと。

間違えても、責任を取らなくていいこと。


でも――

それは、「考えなくていい」代わりに、

「自分で生きなくていい」ということだったのかもしれない。


ミアが、ふとこちらを見る。

「日向、大丈夫? 顔、ちょっと暗いよ」


慌てて首を振る。

「だ、大丈夫です……その……」


言葉を探す。

前なら、ここで黙り込んでいた。


けれど、今は。


「……高人さんのこと、考えてました」


ミアは何も言わず、ただ頷いた。

「そっか」


それだけで、胸が少し軽くなる。


(高人さんは……今、どうしてるんだろう)


怒っているかもしれない。

傷ついているかもしれない。


でも――

あの人は、優しかった。

不器用で、少し怖くて、

それでも、誰よりも一生懸命だった。


日向は湯のみを、ぎゅっと両手で包む。


「……私」


小さく息を吸って、続ける。


「守られるだけじゃ……だめ、ですよね」


ミアは少し驚いた顔をしてから、柔らかく笑った。

「だめじゃないよ。

 でも、“それだけ”だと、苦しくなることもある」


その言葉が、胸にすとんと落ちる。


(……そうだ)


高人が悪かっただけじゃない。

自分が、何も言わなかったのも事実だ。


怖かった。

嫌われるのが、捨てられるのが。


でも――

言葉にしなければ、伝わらない。


あの人が、自分の名前を呼んでくれたように。

自分も、ちゃんと呼ばなきゃいけない。


日向は、窓の外を見る。

空は高く、広くて、少しだけ眩しい。


(私……戻るなら)


ただ守られるためじゃなく。

怖いから隠れるためでもなく。


並んで歩くために、戻りたい。


「……高人さん」


声に出してみる。

震えたけれど、消えなかった。


その事実が、

少しだけ日向を強くした。

高人は、何もない部屋で一人、椅子に座っていた。


机の上には書類も、本もない。

ただ、小さな端末だけが置かれている。


日向の手首に巻いたブレスレットと繋がる管理端末。

位置も、音も、体調も――

すべてを“守るため”に知ることができる道具。


守るため。

そう、信じていた。


高人は端末に手を伸ばしかけて、止めた。

画面を見なくても、分かってしまったからだ。


怯えた瞳。

謝る声。

「ひとりで行きたい」と言ったときの、震え。


――あれは、安心している顔じゃなかった。


「……俺は」


低く呟いた声は、誰にも届かない。


知っていたかったんじゃない。

失うのが、怖かっただけだ。


高人は端末を手に取り、ためらいなく操作した。


解除。

接続遮断。

復元不可。


小さな音を立てて、画面が暗転する。


「……これでいい」


胸が痛んだ。

それでも、逃げなかった。


数日後、両親と向き合った席で、父はいつものように言った。

「愚かな子だ。手綱を引かなければ、守れぬものもある」


母も微笑みながら続ける。

「貴族とはそういうものよ」


高人は首を振った。


「俺は……同じにはならない」


否定でも、反論でもない。

ただの宣言だった。


「日向を壊すやり方で、守るつもりはない」


両親は、それ以上何も言わなかった。


その夜、高人は便箋を広げた。

何度も書いて、何度も破り、

最後に残ったのは、短い言葉だった。


――戻ってきてほしい、とは書かなかった。

――会いたい、とも書かなかった。


『日向が今、安心して笑えているなら、それでいい

 俺は待つ

 日向が自分で選んだ答えを』


封を閉じた指先が、わずかに震える。


それは、初めての――

手放す覚悟だった。

一方その頃、日向はミアの隣を歩いていた。


石畳の道。

行き交う人々の声。

遠くから聞こえる馬車の音。


少し前の自分なら、きっと立ち止まっていた場所だ。


「大丈夫?」


ミアの問いかけに、日向はゆっくりと息を吸い、頷いた。


「……はい。ちょっと、緊張するけど……」


言葉が、止まらない。

喉も詰まらない。

それだけで、胸の奥に小さな誇らしさが灯った。


お茶屋に入る。

注文をするときも、日向は自分で言った。


飲みたいもの。

砂糖の量。

席の場所。


どれも些細なことばかりだ。

それでも確かに――“自分で選んでいる”。


夜、部屋に戻り、ひとりになると、自然と高人のことを思い出していた。


怖かった。

苦しかった。


それでも――嫌いにはなれなかった。


「……好き、なんだ」


声に出しても、喉は詰まらない。


高人がいなくても、生きられる。

それは、はっきりと分かった。


けれど同時に、

「それでも一緒にいたい」と思う気持ちも、嘘ではなかった。


依存じゃない。

逃げ場でもない。


ただ、もう一度――選び直したいだけ。


日向は机の上に置かれた手紙を見つめる。

まだ、開いていない。


それでも指先は、自然と封に触れていた。


――会えない時間は、

――離れるためじゃなく、変わるための時間。


その意味を、二人は別々の場所で、同じように理解し始めていた。


再会の連絡を入れたのは、日向のほうだった。

短い文。

けれど、高人には十分すぎるほどだった。


人目の少ない場所で、二人は向かい合う。

少しだけ空いた距離。

そのわずかな隙間が、これまで二人の間に横たわってきた時間そのもののように感じられた。


高人は一歩も近づかず、深く息を吸ってから口を開く。


「日向、話がしたい」


日向は視線を逸らしたまま、小さく頷いた。


「……聞きますよ」


拒絶ではない。

それだけで胸が締めつけられ、高人は覚悟を決めた。


「形がどうであれ……日向が嫌なことをしたのは、間違いじゃない。ごめん」


飾らない言葉。

逃げ道のない謝罪。


日向はしばらく黙っていたが、やがて静かに問いかけた。


「もう二度と、しないと……約束してくれますか?」


試すための声ではなかった。

確かめるための、必死な声だった。


高人は即座に答える。


「約束するよ。絶対に」


そして、声を少し落とす。


「今まで……日向を縛ってた。本当に、ごめん」


その言葉を聞いて、日向は胸の奥で絡まっていた感情をほどくように、ひとつずつ条件を口にした。


「嫌だって言ったら、必ず止めてください」

「外出も、交友関係も……制限しないで」

「私の意思を、最優先にしてください」


高人は一つひとつ、噛みしめるように頷く。


「全部守る。俺が変わる」


沈黙が落ちる。

風の音だけが、二人の間を通り抜けた。


やがて日向が、震える息を吐いて言う。


「……好きです。でも……怖かった」


逃げも、誤魔化しもない言葉。


高人は目を逸らさなかった。

その視線で、逃げなかった。


「守りたかった。でも……結果的に、奪ってた」


それは、自分自身を切り裂くような告白だった。


日向はゆっくりと頷き、決意を込めて言葉を選ぶ。


「……それでも」

「もう一度、一緒にいたいです」


それは、守られるから戻るという選択ではない。

恐怖を知ったうえで、なお選び直した答えだった。


高人は、初めて心の奥から息を吐いた。


「ありがとう」


そして、静かに、けれど確かに言う。


「今度は……隣に立つ」


二人の距離は、まだ一歩分残っている。

それでもそこには、以前とは違う未来への余白があった。

結婚式は、小さく、ひっそりと行われた。


豪奢な装飾も、賑やかな音楽もない。

けれど、日向が深く息を吸っても胸が苦しくならない、静かな場所だった。


佐久間とミアが用意してくれたドレスは、柔らかな色合いで、日向の雰囲気によく似合っている。


「今日はね、ただ幸せでいればいいの」


その微笑みに、日向は小さく頷いた。


式場そのものは、高人の両親からの贈り物だった。

貴族らしい格式はあったが、二人の式に口出しはしない。


「選んだ道なら、歩きなさい」


それだけを残し、静かに席につく。


日向の手の中には、指輪があった。

自分で用意したもの。

お互いに何かあれば、すぐに分かるよう、特別な細工が施されている。


一方、高人は何も用意できなかった。

何を渡せばいいのか、分からなかったからだ。


だからこそ今日は、言葉だけを差し出す覚悟で、彼はそこに立っていた。


誓いの言葉のあと、日向が一歩前に出る。

少し緊張しながらも、高人の手を取る。


迷いのない動きで、高人の指に指輪をはめる。

その仕草は静かで、けれど確かな決意を宿していた。


高人は指輪を見つめ、言葉を失う。

何も用意できなかった自分を思い出し、胸が詰まる。


日向はそっと微笑んだ。


「私にも、つけてください。

 持ち主に何かあったら、お互いに分かるように、ノアさんに作ってもらいました」


高人は息を呑む。


「……え? いいの?

 それは、日向を縛ることに……」


日向は静かに首を横に振る。


「いいんです。

 高人さんの全部を、否定したいわけじゃないんです」


少し照れたように、続けた。


「不安なことは……二人で解決しましょ」


高人は震える手で指輪を取り、日向の指に、ゆっくりとはめる。


「……ありがとう」


その指輪は、縛るためのものではない。

何度でも選び続ける、その意思の証として、そこに残った。


日向は一度息を整え、皆の前で言葉を紡ぐ。


「まだ最近の話ですけど、この世界に転生されて、色々なことが変わりました。

 たくさんの人と出会って、色んな人に助けられて……私が思っているより、ずっと世界は広かったです」


少しだけ、高人を見つめる。


「今なら考えられるんです。

 あの時、死ななかったから、今ここにいられるんだって。

 そう思うためには……あなただけじゃダメでした。

 でも、あなたがいないとダメだったんです」


高人が静かに問いかける。


「……俺でいいの?」


日向は、はっきりと頷いた。


「ミアが言ってたんです。

 言葉は、理解し合うためじゃなくて、話し合うためにあるって。

 次からは、ぶつかったら……二人でちゃんとお話しましょう」


高人は小さく笑う。


「うん。ちゃんと話そう。

 これからは……日向の隣を、一緒に歩いてもいいですか?」


日向は少し照れながら、でも迷いなく答えた。


「はい! 私は高人さんのお嫁さんなんですから」


静かな式場に、優しい拍手が広がる。


それは、二人が

**“依存”ではなく、“選び合う”**と決めた瞬間だった。

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転生したら嫁でした ルナード @Runard4860

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