第八話:沈黙の終着、あるいは硝子の境界線(前編)

完璧な真空とは、外部からの干渉を一切許さない絶対的な拒絶の空間だ。  

観測者がその内部に閉じこもる限り、外部の事象は確率的なノイズとして処理され、無視される。その静寂はあまりに美しく、あまりに脆(もろ)い。誰かが一度、硝子の境界に指を触れるだけで、すべてが粉々に砕け散ることを、僕たちは本能で理解していた。


校外学習から戻った翌日。教室の空気は、凍てつくような静寂に支配されていた。  僕と白砂の周囲に形成された「真空地帯」は、もはや物理的な障壁に近い密度を持っていた。クラスメイトたちは、僕たちを「見えないもの」として扱うことに慣れきり、視線を向けることさえ罪であるかのように避けている。


だが、その秩序を維持しているのは、もはや阿久津による「統制」ではなかった。  隣に座る白砂が発する、剥き出しの「拒絶」の意志だった。


「……玖島君。昨日の『ノイズ』は、もう忘れたわね?」


白砂の声は、どこか現実味を欠いた透明感を帯びていた。

彼女は僕の制服の裾を、今までにないほどの強さで握りしめている。その指先はわずかに震え、僕という「存在」がこの真空から零れ落ちないよう、必死に繋ぎ止めていた。


「ああ。……君が言った通り、あれはただの錯覚だと思っているよ」


僕は自分の感情を殺し、平熱の言葉を返す。彼女を救うための「共犯」の誓い。  けれど、僕の視界の端には、いつも彼女がいる。


阿久津。


彼女は自分の席で、ただ静かに読書をしていた。僕に接触しようとも、揺さぶりをかけようともしない。だが、彼女がふとした瞬間にページを捲(めく)る音、椅子を引く際の僅かな振動。  

そのすべてが、僕の中に眠る「僕自身の癖」と完璧に共鳴し、白砂が作り上げた嘘を静かに侵食していた。


阿久津は、ただ「存在」している。


そのことが、白砂にとっては最大の脅威であり、解決不可能な論理的矛盾となっていた。


「……不快だわ。世界が、正しくない方向へ収束しようとしている」


白砂が低く、呪文のように呟く。

彼女は立ち上がると、僕の裾を掴んだまま、僕を促した。


「行きましょう。ここには、私たちのための空気が足りないわ」


授業が始まる直前だというのに、彼女は僕の手を引き、教室を出た。

廊下を歩く彼女の背中は、いつになく小さく、そして張り詰めていた。彼女はもはや、自分の「鏡」を避けることさえ忘れている。いや、自分の姿が何に映っていようと、僕という「観測者」さえ手放さなければ、この世界は維持できると信じ込もうとしているようだった。


僕たちは屋上へと続く階段の踊り場、光の届かない影の中に身を潜めた。

白砂は僕の腕を掴み、そのまま自らの額を僕の肩に預けた。


「……玖島君。私だけが、あなたの真実よ。……他の誰かが何を言っても、何を思い出させようとしても、それを『解』として受け入れないで」


彼女の「つん」とした態度の裏側に、今にも崩れ落ちそうな絶望が透けて見える。  僕は、彼女の冷たい指をそっと包み込んだ。

このまま二人で、この暗闇の中に溶けてしまえばいい。そう思えるほど、彼女の歪な愛は、僕にとって甘美な毒となっていた。


けれど、踊り場の窓から差し込む一筋の陽光が、埃を舞い上がらせ、現実の輪郭を酷(むご)いほど鮮やかに描き出していた。  


僕たちの「聖域」の外側では、阿久津という地雷が、静かにその爆発の時を待っている。

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