第二章:鏡像のシンメトリ

第四話:真空の平穏と、アンカーの定義(前編)

 教室という場所は、情報の不完全性を「合意」という名の熱量で補完する、閉鎖的な演算回路だ。  

 だが、その回路が一度「致命的なエラー」を検知すれば、システムは自己防衛のために、バグを物理的な隔離へと追い込む。それは観測対象を座標系から抹消するもっともクリーンな処理であり、これ以上誰も傷つかないために選ばれた、もっとも臆病な解決策だった。


 阿久津ななみの「美しい謝罪」から一週間。

 僕たちの周囲には、半径一メートルほどの、目に見えない「真空地帯」が形成されていた。


 登校して席に着いても、誰も挨拶を交わさない。休み時間に談笑の輪が広がることもない。僕や白砂と目が合いそうになると、クラスメイトたちは、まるで未知のウイルスを避けるようにして、不自然なほど素早く視線を逸らす。


 かつての一度目の人生で味わった「蔑(さげす)み」の視線ではない。

 それは、正体の知れない猛獣を遠巻きに見つめるような、純粋な畏怖。

「正しいが、恐ろしい二人」。それが、この閉鎖社会が僕たちに与えた新しい定義だった。


「……静かね。完璧だわ」


 隣の席で、白砂が本を捲るかすかな音だけが、僕の耳に届く。

 彼女は周囲の断絶など、最初からこの世界に存在しないノイズであるかのように切り捨てていた。凛とした、近寄りがたい態度は相変わらずだが、僕と二人きりの空間だけは、彼女にとっての絶対的な「聖域」として機能しているようだった。


 不意に、左側の袖に微かな重みを感じた。

 見なくてもわかる。白砂の指先が、僕の制服の裾をそっと摘んでいるのだ。


 それは彼女が無意識に行う、いつもの所作。

 彼女にとって、この行為は「甘え」ではない。自分たちが作り上げたこの真空地帯において、僕という存在がどこかへ霧散してしまわないように繋ぎ止めるための、物理的な「アンカー(重石)」なのだ。


「白砂さん。……窮屈じゃないか? こんな風に、誰からも透明な存在として扱われるのは」


 僕が声を落として尋ねると、白砂は本から目を離さずに、唇の端を微かに綻ばせた。


「どうして? 雑音が消えて、あなたの声の解像度が上がった。……私にとっては、これ以上ないほど論理的で、美しい平穏よ」


 彼女は裾を掴む指に、わずかな力を込めた。

 彼女が何を恐れ、何をこの沈黙の中に隠そうとしているのか。その「過去」の断片は、まだ僕には見えてこない。けれど、彼女が僕の隣でこうして静かに呼吸していることだけが、今の僕にとっての唯一の正解であることは間違いなかった。


 僕は窓の外に目を向けた。

 春の陽光が校庭を照らしているが、この教室の空気だけは、どこか冷たい硝子細工のように研ぎ澄まされている。


 その視線の端、教壇近くの華やかな輪の中に、阿久津の姿があった。

 彼女はあの日以来、僕たちに一度も直接的な接触を図ってこない。完璧な「うっかりミスをした少女」として、クラスメイトたちの同情と慈愛を一身に浴びながら、彼女は僕たちの「孤立」を、むしろ守るようにして振る舞っていた。


 阿久津は笑っていた。クラスメイトたちの言葉に、楽しそうに相槌を打っている。  だが、彼女がふとした瞬間に首を傾げた、その角度。


 それは、僕が今、無意識に首を傾げた角度と、寸分違わず一致していた。


 鏡を見ているような、不気味な同期(シンクロ)。


 白砂の指先が、僕の裾を、白くなるほどに強く握りしめた。

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